第50話 決議の日

「いってらっしゃい、あなた」


「いってくる」


 玄関ホールで見送りのキスを交わす両親を、階段の手摺に寄りかかってフルールは暗澹たる思いで見下ろしている。

 父の着ている白いローブは、元老院の議員装束だ。


 ――今日は、グレゴリーの王太子廃嫡申立の決議の日。


 フルールに非はないのだけれど……気が重くなるのは仕方がない。

 髪も結わず、部屋着のままでぼんやりしていると、


「お嬢様」


 不意に背後から声をかけられた。

 フルールは「ひゃ!?」と飛び上がる。振り向いた先には専属執事がいて、彼女は反射的に後退ってしまって――


「危ない!」


 ――手摺から落ちそうになり、エリックに体ごと腕を引き寄せられた。


「お怪我はありませんか? フルール様!」


 焦った声が降ってくる。少しだけ背の高い執事に抱きすくめられて、令嬢はパニック寸前だ。だって……彼の胸に顔をうずめているこの状況は、昨夜の影絵と同じではないか。

 しかもここは、フルールが覗き見して水差しを忘れた場所であるし。


「だ、大丈夫よ。ちょっと……よろけただけ。ありがとう、エリック」


 フルールはドギマギと俯いてエリックの体を押し返す。顔を上げると、真っ赤になっているのがバレてしまいそうだ。しかし……、


「大丈夫ではありません、お嬢様」


 執事は大きな掌を令嬢の秀でた額に当てた。


「顔がお熱い。目の下にもクマができております。お加減が悪いのでしょう。すぐに寝室にお戻りになってください」


「いえ、それは……」


 エリックあなたのせいよ。……とは言えない。


「本当になんでもないのよ。少し寝不足みたい」


「寝不足ですか。もしかして……」


 無理矢理微笑んで見せるフルールに、エリックが渋い顔をする。

 ……もしかして、昨日の覗き見がバレたか……!?

 凍りつく彼女に、彼は心配そうに、


「辺境伯様へのお返事を気に病んでらっしゃるのでしょうか?」


「……へ?」


 思わず素っ頓狂な声を出す。


「相手の気持ちが自分の想いと重ならぬなら、拒むのも致し方ないこと。それで相手が傷ついたとしても、お嬢様に非はございません。どうか気を落とさずに」


「ええ……ありがとう……」


 優しい言葉ではあるが、昨夜の出来事を見てしまった後では、エリックの真摯なアドバイスにも胸の痛みが増すだけだ。


 ……なぜ、こんなに恋愛とはややこしいものなのだろう。


 一刻も早くこの会話を打ち切りたいと困っていると、


「あら、フルール。そこにいるの?」


 思わぬ方向から助け舟がやってきた。玄関ホールにいたミランダが、吹き抜けの二階を見上げていたのだ。


「はい、おはようございます。お母様」


 階上から返事すると、母はコロコロ笑った。


「もう、おはようなんて時間ではありませんことよ。フルールったら卒業してからすっかりお寝坊さんになってしまって」


「……うぎゅっ」


 無職引き籠もりな娘は否定できない。


「わたくしはマーガレット夫人と出掛けて来ますからね。フルール、お留守番よろしくね」


「ええ、いってらっしゃい」


 にこやかに見送る娘に、母は今度は執事に目を遣って、


「フルールをよろしくね、エリック」


「命に代えましても」


 顔を綻ばせ、自分の専属執事と侍女を引き連れ、ブランジェ夫人は去っていく。

 恭しく頭を下げて見送るエリックを、フルールは頬を膨らませて睨んだ。


「最近、お母様ったらわたくしを子供扱いしすぎじゃないかしら?」


 これでも、中央社交界きっての才媛と謳われてきたのに。


「学園を卒業なされてから色々ありましたから。奥方様もご心配なのでしょう」


 順風満帆だった王太子妃への道が崩れ去ってから数ヶ月。

 ……フルールは、未だ新しい道を選べていない。

 考えなければならないことは山積みだ。でも、とりあえず、今は……。


「エリック、お腹が空いたわ」


「では、ブランチの用意を致しましょう。お天気がいいので、テラスでお召し上がりになりますか?」


「それは素敵なアイデアね」


 穏やかに過ぎる時間に、難しい問題は後回しにした。


 ――だが。


 転機はいつだって、こちらの事情なんかお構いなしにやってくる。

 ブランジェ家のフットマンが真っ青な顔でテラスに駆け込んできたのは、フルールが季節の花を眺めながら、シェフ自慢のエッグベネディクトに舌鼓を打っている時だった。


「た、大変です。フルール様! そこに、屋敷の門の前に!」


「どうした、騒々し……」


 同僚である使用人の無礼な振る舞いに、エリックが眉を顰めて苦情を言いかけた、その時。


「グレゴリー殿下が来ています!」


 ……フルールは、持っていたフォークを取り落した。

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