第26話 ネイトと

「フルールさん」


 図書館の白く長い廊下。呼びかけられて振り向くと、眼鏡の青年がこちらに歩いて来ていた。


「ネ……ミュラー先生」


 ピシッと糊の利いた教官服がよく似合う、詩文学の教師だ。物腰柔らかく、誰に対しても偉ぶることのないネイトだが……。


「今日はどうされたんですか?」


「借りていた本を返しに」


「そう」


 答えるフルールにさり気なく肩を寄せて、


「残念、私に会いに来てくれたのかと思った」


 耳元で囁かれると、ゾクゾクと背中に甘い痺れが走って頬が熱くなる。在学中はこんなこと一度もなかったのに、となんだか戸惑ってしまう。


「そろそろ私の誘いを受けてくれる気になりましたか?」


「えっと、あの……」


 聞かれて真っ赤になって俯いてしまう。

 前回会った時の宣言通り、ネイトからは手紙が届いていた。彼の文章は、声同様とても色気があってロマンチックで……。一緒に読んでいたカトリーナが鼻血を吹いて倒れたほどだ。

 フルールは無難な返事を送ったものの、デートの約束を取り付ける文言は保留にしてある。


「わ……わたくし、ミュラー先生がどうしてわたくしを誘ってくださるのか解りませんわ。こんな……子供なんかを」


「まあ、私も生徒をそういう目で見たことはありませんでしたがね」


 ぼそぼそと喋る彼女に、彼は歌うように返す。


「それだけあなたは魅力的なのですよ。卒業を待ったことで、私の倫理観は信じて頂きたい」


 ……それは、フルールだってネイトを不埒な教師とは思っていないけれど。


「まあ、私は大人ですから、急かさず待ちますよ。ただし……逃しませんが」


 眼鏡と厚い前髪から切れ長の目を覗かせ、ネイトが微笑む。


「……ちょっと、怖いですわ」


「あなたが思う以上に、私は悪い大人ですから」


 上目遣いに首を竦めるフルールに、ネイトはまた笑った。それから、


「時にフルールさん、なにかお悩みですか?」


「え?」


 令嬢は驚いて立ち止まる。


「どうしてですか?」


「なんとなく元気がなさそうなので。これでも私、高等部の三年間あなたの担任でしたから」


「あ……」


 そうだ。ネイトは生徒の相談に真摯に耳を傾ける、良い教師だった。


「悩みというか……少し、行き詰まってしまって」


 フルールは窺うように切り出す。


「自分が思ってもみなかった方向に物事が転がってしまって。でもどうすることもできなくて……」


 取り留めのないことを、ぽつりぽつりと零す。


「たまに、誰もわたくしを知らないどこかへ行きたくなることがあります」


 ため息をつく元生徒に、教師は前を向いたまま、


「それもいいかもしれませんね」


「……え?」


「逃げてもいいんですよ、ここから。何者でもない自分になって、ゆっくりと羽を休めればいい」


「逃げても……」


「かくいう私も、郷里いなかしがらみから逃げたクチでして」


「まあ」


 ネイトはとてもそんな無責任な人間には見えないが。


「あなたはどこへ行ってもあなたらしく生きていけます。いつか決めなければいけない未来の猶予期間を大切に使ってください」


 フルールは飛び立つ自分を想像する。


「そうですわね。旅行にでも行こうかしら」


 何もかも捨てて、自由になって。そういえば、卒業旅行も行きそびれていた。

 ……実際には、すべてを放り出す勇気はないけれど。


「ありがとうございます、ネイト様。気分が軽くなりましたわ」


 否定されなかっただけで、味方になってくれたことだけで、嬉しい。


「お役に立てたなら良かった」


 ネイトの声は耳に心地好く、癒やされる。

 フルールはかつての担任とのお喋りを、しばし楽しんだ。

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