1匹目:Kという少年

 その日の僕はお母さんに買い物を頼まれ、夕ご飯を作る為に必要なニンジンにジャガイモ、タマネギと、それから豚肉を買いに、ピチャピチャと長靴で水溜りを踏み締めながら近所のスーパーへと出かけた。今挙げた買い物メモからも分かるように、晩ご飯はカレーライスだ。


 お母さんの作るカレーは特別に美味しく、僕は世界で一番だと思っている。早く帰って作ってもらおうと、すっかり陽気な気分で買い物を済ますと帰路を急いだ。


 けれどもそんな僕の目に、不意に一つの風景が映り込む。それは一匹の子猫がよたよたと覚束無い足取りで、雨に濡れながら道を歩く姿であった。その頼り無さに、僕は可哀想にと薄っぺらな同情を寄せた。猫に首輪はついていない。野良猫で帰る家もないのだろう。


 どうして僕がこうも安直に結論を出したのかというと、この町に野良猫は捨てるほどいるからだ。いいや、捨てられたからこそ野良猫なのだから、今の表現はおかしいかもしれない。だけど外を歩く度に、見掛けるのは猫の姿ばかり。だから家と学校を行き来する間だけでもたくさんの猫を見かけ、僕はそれを数えながら登下校をしていたものだ。


 つまり、それくらい世界は行き場のない猫であふれ、野良猫の一匹くらい決して珍しくはなかった。


 なのに何故かその日の僕は、雨でびっしょりと毛皮を濡らしたその猫が妙に気になった。雪みたいに真っ白で、私はけがれてなんていませんよと主張しているかのように高貴に満ちた一匹の猫。だが、その尻尾は、ぐにゃりとおかしな方向に折れ曲がっている。


 僕は自分でも気付かぬ内にいつのまにか道から外れ、自然とその猫を追っていた。猫は僕の存在には無頓着で、自分のペースを維持したまま千鳥足で公園を抜け、その先へと続く狭い小道を歩いて行く。するとひっそりとした木造の小屋が目の前に現れ、猫はひょいと開かれた窓の隙間に体を潜らせた。


 その空間は僕には狭く、とても潜り抜けられそうにはない。どうしようかと辺りを見回すと扉が目に触れたので、僕はドアノブを掴み、それをゆっくりと開いていった。


 すると飛び込んで来たのは、思いもよらぬ光景であった。


 僕は追いかけていた子猫が一匹だけいるとばかり思っていたが、だけどそこにはもう一匹、迷子の猫の姿があった。その猫は雨に濡れた子猫を温めてやろうとしているのだろう、それをぎゅっと抱き締めていた。


 その不可思議な光景に、僕の息は一瞬詰まる。そして何も言えずにいる僕に、彼は静かに焦点を合わせた。


 鋭い眉に筋の通った鼻、整った口唇と、まるで作り物みたいに綺麗な顔立ちで。特に右頬に刻まれた大きな青色の花みたいな痣が、僕の目を強く惹きつける。痛々しいまでもくっきりと浮かび上がったその印に、僕はつい恍惚と見入ってしまう。


 そのせいだろう。僕は無意識の内に、

「綺麗……」

 小さな声ではあったものの、口先で紡いでいた。瞬間、しまった——と思うが、気付けばもう遅い。人の傷痕を見てそんな非常識な言葉を口走った僕に彼は一層瞳を鋭かせ、じろりとこちらを見つめ返した。



「ご、ごめん。あの、その……」



 彼の突き刺さるほど鋭利な視線に、僕の頭は真っ白になる。どうしよう、どうしよう。だけど不思議なことにその刹那、次の言葉が自ずと喉奥から滑り出る。



「その猫は君の?」


「……そう見えるか?」



 その美しい器から発せられたのは、酷く冷たい声であった。まるで研ぎ澄まされた刃みたいに、下手に触れたら血が出てしまいそうだ。危なっかしいその音に、僕の体は自然と震える。


 自分と同じ年頃の彼を、どうして怖いなどと感じるのだろう。


 僕はその思いを断ち切ろうとぎゅっと拳を握り締め、真っ直ぐに少年を見つめ返した。



「ううん。でも、君があまりにも大事そうに抱えているから……」


「この猫は俺の猫じゃない」


「そうなんだ。ねえ。どうしてこんな所にいるの? この小屋は君の?」


「いいや、俺の家ではない。だけど、俺の唯一の居場所だ」


「えっ。家がないの?」


「家はある。でも、そこに俺の居場所はない」



 だからここにいるんだと続ける少年に、家出でもしたのだろうと僕は考えた。


 家出少年と出会うのは初めてだったので、どうしていいのか分からない。だけど、彼をひとりぼっちでここに残すのは、どうしてだか憚れた。



「もう直ぐ暗くなるよ。君が家に帰らなかったら、お母さん達が心配するよ」


「生憎だが、俺の両親はそんな些細な事を気にする人間ではない」


「でも……」


「いいからお前は早く帰れ。おつかいの途中なんだろう」



 彼は僕が持っているスーパーの袋を指差し、「お前こそ怒られるぞ」

と、静かに言う。そこで僕はようやく自分が買い物の途中であったことを思い出す。


 早く帰らなければと思うけれど、でも、彼だけを残してここを出る訳には行かなかった。



「やっぱり君の親も心配してるよ。だって、初めて会った僕だって君のことが心配だもん。

 ……あっ、そうだ! だったら僕の家に来る? 今日の夜ご飯はカレーライスで、お母さんの作るカレーはとってもおいしいんだよ」



 僕はお母さんのことなのに、まるで自分のことのように得意になって説明する。けれども少年は無関心そうに、ふうんと軽く相槌を打つばかり。そんな彼の反応に、僕はとてもがっかりした。



「もしかして、カレーは嫌い?」


「いや。別に」


「だったらおいでよ。一人くらい増えたって、僕の家は大丈夫だから」


「……帰る」


「えっ。でも、帰りたくないんでしょう?」


「帰りたくなくとも、いつかは帰らなければならない。だったら俺の代わりに、コイツを連れて行ってやってくれ」



 すると彼は、僕に向けてぐいと猫を差し出した。少年の手の中で子猫はくりくりと大きな瞳で僕を見つめてくるが、だけど僕にはそれを受け取る資格はなかった。



「ごめんね。僕の家、マンションだから動物は飼えないんだ」


「いや、お前が謝ることじゃない。俺だって連れて行けないんだ」



 僕の返事に少年は初めから期待していなかったという風に流すと猫を床に下ろし、そっと彼の頭を撫でた。その圧力に、猫は、「にゃあ」と一声鳴く。


 少年の猫を見つめる瞳は今までの彼からはとても考えられないほど優しく、憂慮に満ちていた。



「ねえ。その猫って、野良猫だよね?」


「こんな雨の中をふらついていたんだ。野良猫に決まってるだろう」


「うん、そうだね。……ねえ、君はその猫が可哀想だと思う?」


「そう言うお前は、どう思うんだ?」


「えっ!? うん、僕は、僕は……。

 だって野良猫なんて、この猫だけに限らない。世界には、たくさんの捨てられた猫がいるんだよ」


「つまり可哀想とは思っていないんだな」



 彼の言葉に、僕は何も言い返せない。刹那、胸の奥が酷く疼き。彼の何もかもを見透かした純粋な瞳を見られなくなって、僕は咄嗟に目を逸らした。



「……うん。君の言う通り、可哀想とは思っていないよ。でもこの猫だけは、どうしてか分からないけど気になっているんだ」



 少年が、どう捉えようと構わない。だけどそれだけは本当だと、僕は素直に自白する。何故ならそれが、僕の本心なのだから。


 すると彼はちらりと子猫を見つめ、もう一度、視線を僕に戻した。



「……お前、名前は?」


「えっ?」


「名前、なんて言うんだ?」


「僕は……。僕は、光輝こうき


「そうか。俺の名前は……」



 その数日後であった。小学三年生へと進級した僕が、家出少年であるKと新しい教室の中で再会したのは……。

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