サモトラケのニケ

不明瞭

ニケ


 傷んで跳ねたぼさぼさの髪、母親に似た吊り目と父親譲りの愛想の無い顔。凡に満たない穀潰しが誰もいないワンルームの角部屋に閉じ籠って長すぎる一日をただ消費している。日当たりの悪いコンクリートの部屋は湿気と妙な肌寒さで埋め尽くされていてただ、生きていた。変わらない自分の顔、優しくない大人たち、関心のない親に自分は今日も変わらない服を着て空っぽの部屋を出る。柔らかい生地の厚手カーディガンは今日もくすんだベージュで自分の顔色は今日も濁ったグレーで汚れたスニーカーの爪先を二度打って簡素な玄関を抜け出した外は笑えるほどつまらない十八回目の晩夏だった。

 ここ一週間毎日通っている先は中野駅から徒歩五分にある美術館の展示。年二回ほど彫刻の展示も行うここはいつも静かでどこか埃っぽい。チケットを購入してオレンジの照明が点在する通路を進む。レプリカを横目で見やりつつまっすぐに奥の廊下に出て二つの角を曲がる。広々とした白い照明と、思わず眇めてしまうほど当然と佇む像は昨日見た時と変わらずただ宙を見つめていた。

 サモトラケのニケと名付けられた女神は生物には無い絶対的な美しさを孕みキラキラと反射する白に包まれている。ただ美しいばかりの物ではない、見ているだけで心臓のあたりから湧き出る黒いばかりの靄が脳みその中核を刺し殺して精緻に造りこまれた足元に縋り請いたくなってしまうことすら自分の意思なのかもわからなくなる、馬鹿げている思考に浅くなった呼吸がか細く音を立てた。

 どうするのが正しいだとかそんなことばかり考えて生きていた自分にとってここは唯一の安寧の地であり、救いだ。父はとうの昔に出て行って母は今日も変わらず何事かを喚き散らして床に爪を立てている。そんな母を殺してしまったあの日、共に命を絶った。齢十五の、冬の日だった。

 耄碌した思考は取り留めがなくひたすらに自身を責め立てるものへと変わった。苦しみ呻く母を見捨て制服姿のまま当然のように早朝家を出て、普段使うことのない電車へ乗り込んだ。どこに行こうという意思はない。ただ流れ着くままに通勤時の人の波に揉まれ押し出された駅が中野駅だった。ぽつねんと駅前で佇む制服は非常に異質であっただろう。致し方なしと足を向けた先がこの美術展示だった。時刻は九時、開くまでに一時間半はかかると、空腹を満たすため昼食用と誰かから渡されていた金を常に持ち歩いていたのが功を期した。近くのファーストフードでバーガーとドリンクで時間を稼いだ。どうしても行きたかったわけではない。どうすることもできない自分に期待などしていなかったし現状維持がよっぽどマシだと決めつけていた。

 そして出会った。

 翼に沿うように広げられているであろう欠けた両腕と今まさに降り立ったと言わんばかりに添えられた足先が、迷うことなく微笑を湛え勝利を告げに来た女神像ニケ。

 展示の端、絵画や他の石像から隔離され天井のライトが一つ、人のいない空間に大理石がキラキラ光ってまるで彼女のための舞台で彼女の正を見せつけるための明かりでそれがどれだけ儚くも絶対的な自信を持ち先を示しているようにさえ錯覚するほどの。

 愛だ。それも絶対的な。情愛を、一目で抱いた。

 ただここで見上げているだけで心臓のあたりからどろりと湧き上がる目を背けたくなるような靄が成りを潜めるのだ。

 一見して呆然とも取れる間抜けさで見上げている背後から静かな美術館に不釣り合いな冷たい靴音が響く。異質な音に何か、歪に似たものを感じた。

「いつもここにいますよね」

 静寂に包まれたなかに落とされる、歪。低過ぎない、けれど確かな成人男性の声が鼓膜を舐める。

「好きなんですか?」

 周囲に人はない。実態の不確かな気配が隣に並ぶ。薄っすらと香るペパーミントが視界を濁す。再度問われる声色は先と何も変わらない、抑揚があるようで無い女神像とは似ても似つかない微笑を浮かべているのはなんとなくわかった。

「何がですか」

 女神像から寸分も目を離さず音を出す。他者と会話らしい会話をしたのは数年ぶりな気がした。男性は不愛想な言動に関心を持たないらしく息を呑む発言を当然のように吐き、その時初めて右隣を見上げた。

「お嬢さん。お名前を伺ってもいいですか?」

 ブランケットを肩に巻き小窓の前に置いた椅子に凭れ掛かる。ギシリと軋む嫌な音は丸机に放置されて埃の積もった小さなラジオからノイズまみれの女性アナウンサーの声と煙雨の音に紛れて消えた。ガラスに垂れる水跡が連なり波となって落ちていく様を眺める。ボリュームを最小にまで絞ったラジオは雨脚のせいか、もしくは螺子が外れているせいか、先日よりノイズが増えたように思う。湿気にまみれたこの部屋は変わらず陰鬱としている。窓枠が定位置とするサボテンが寒さに身震いしているように見えて針を人差し指で撫ぜればぷつり、指の腹から赤い球体が膨れ上がる。赤を親指の腹で磨り潰し、知らず漏れた嘆息と共に立てた膝に目蓋を埋める。ブランケットの湿っぽいこもったにおいが気分を沈滞していく。気分が悪いと、再度酸素を吐いた。

「お嬢さん。お名前を伺ってもいいですか?」

「人に要求するのならまずそちらから名乗ったらどうです」

「これは失礼。そうですね、ではケイと名乗らせてもらいましょう」

 空っぽのガラス玉のように見える危うくも柔和な笑みにKと名乗った男性は軽く肩を竦めて見せた。どこから名を取るか自身の衣服を一瞥した彼の挙動に不信感は芽生えない。

「ならそちらになぞらえてAと名乗ります」

 鮮やかな濃い青の薄手カーディガン、その下は純白を気取ったノリの効いたシャツにありがちな、汚れ一つ無いテカった黒の革靴。横に並ばれると真上に首を折らなければならないほど高い位置にある顔は石を掘ったように変わらない。ただ、そのなかでも異質なのが天井のライトを反射させる左耳の軟骨を貫通した銀のインダストリアルピアスと耳たぶに並ぶ小さな透明色のストーンピアスが二つ。彼の正常で真っ当で正しい好青年であろう風貌はたった四つの人工穴によって爪横に出来たささくれが肉を割いた時のわずかな痛みに似たものを思い起こさせる。

 意図してやっているのだろう。女神像のような人工物にかぎりなく近い絶対的正を自らの意思として破壊しているのだろう。それを察しても、異物感は引くどころか増すばかりだ。

「ご用件は」

「依然見かけた時も他の絵画に目もくれずここで立ち止まっていたものですから」

 申し訳無さそうな眉尻が数ミリ下がって独り言かと聞き流してしまう程度の軽薄さで告げる。

「一度、話してみたくて」

「絵画に興味はありません。例えレプリカだとしても女神像以外に関心はありません。お話しすることは以上です」

 失礼します。そう喉を震わせる前に、鮮やかすぎる涼しげな青が薄い身体の回りをひらりと揺れ動いた。

「俺に、あなたを救わせてください」

 いっそ不気味としか言いようのない緩慢さが薄い腰を折ってうすら寒い微笑が顔を覗き込もうとしてくるのが胃のなかを掻き混ぜてくる。思わず張り手をしてしまう程度の、不快感を纏うそれはひとつも何も変わらない。目蓋裏に刻み込まれた情景がいつまで経っても消えず身を震わせて頭を持ち上げる。視界に広がる埃の積もった灰色は安寧をもたらす、その事実に三度の嘆息を吐いたところでか細い雨音とノイズに紛れた女性アナウンサーの声に呑まれるだけだった。

 母を捨てた。蟠りとなって残るのはそれだけだった。捨てようと思って捨てたわけじゃない。捨てなきゃと思って捨てたわけじゃない。酒乱の父と縋りつく母の金切り声。そんな家じゃなんの期待も執着も生まれなかった。何割かは家出の気持ちでそれを上回るほどの諦念と拒絶がいつの間にやらこの狭いコンクリートのワンルームに辿り着いていた。立地も構造も立て付けも悪い己の城は窓辺にあるイスだけが住処だった。他人はまともな生活をしていないと口を揃えて言うだろう。けれど関係ない。ここだけが、私が許された場所。

 寒いだけの空っぽは見れば見るほど自分の中身なのだと思い知らされる。何も培われて来なかった己の、未熟さと幼さと、呆ればかりが視界をよぎり部屋の隅からずるりと這い出した陰鬱に呑まれぬよう眠ったふりをするためのブランケットに閉じた目蓋を擦り付けた。

「俺ではなくあなたの、あなたにとっての正確な救いを探しましょう」

 愛がほしかった。欲しかった。何よりも。どれよりも。

 愛されたふりをして愛したふりをして普通の家庭を装って生きていたかった。

 それすら叶わなかったというのだからもう、もういいだろう。

 外れかかったノブが回る。あの日と同じ。鮮やかな濃い青色のカーディガンが皮のソールを擦り減らして土足で上がり込む。嫌に耳につく靴音は気品と上機嫌と退屈を練り混ぜて喉奥に詰めようとイスの横に並んだ。

「いい、天気ですね」

「雨ですよ」

「ええ、だから。いい天気だと」

 雨のにおいを連れてきた男性を見上げる。点けていないはずの照明がついている気がして、ついでに左耳のインダストリアルピアスが反射して見えた。

「いいサボテンだ」

 つい、とサボテンの針を四角い人差し指の腹が撫ぜ、音もなく私の首筋に触れる。

 冷たい体温に心臓がどきりとした。

 向けられる空っぽのガラス玉のように見える危うくも柔和な笑みにとうとうこの時が来たのかと、息をついた。

「私は生きていたいわけじゃない。死ぬ勇気が無いだけ」

「ええ、知っています」

 薄っすらと香るペパーミントが視界を濁す。再度問われる声色は相も変わらず抑揚が無い。被造物さながら。女神像の模倣者であるKは変わらない表情を続けている。

「ありがとうね」

 強引に押し込まれていく喉仏。気管が潰されていく。肺が酸素を欲していて、どうしたらいいんだなんてなんの益も無い会話はこれ以上この世に生み出されない多幸に安堵を抱いている自分は、やっぱりおかしいのだろうか。

「何が面白いんですか?」

 声が出せないほど強まった指の腹を迫り上げるように、私は最期の酸素を吐いた。

「そっくりそのまま返すよ」


2020.12.24






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サモトラケのニケ 不明瞭 @fumeiryo

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