第二十三章 新たな留学先

第214話 23-1 ラコルプログ菌騒動の顛末

 10月18日、オーストラリアのリンジー教授から連絡が入った。

 恐れていたディンゴのラコルプログ菌保菌種が発見されたことと、子供がそのディンゴに噛まれた事件の顛末である。


 未だ変質してはいなかったディンゴは捕獲・隔離されたが、子供は間違いなくラコルプログ菌の侵入を許したものと見て経過観察をしていたところ、突然病状が悪化、傷口から急速に腐敗を始めたのである。

 残念ながら何の対抗策も無かったことから、保健省と協議して未だ動物実験段階で治験も行っていない優奈が開発したε-ビブリオ菌を投与したところ劇的な症状改善が認められたというものである。


 当該子供は順調に回復しており、体内のラコルプログ菌は僅かに数時間で死滅、その後ε-ビブリオ菌も自壊し痕跡を残しておらず、今のところ副作用は認められていないということである。

 生産、実験、治験は、今後マードック大学薬学部が進めて行くが、薬学部の申し出により、当該ε-ビブリオ菌をユーナビブル-Aと、δ-ビブリオ菌をユーナビブル-Bと名付けることが正式に決まったそうである。


 今後とも万が一にでも人間に発症した場合に備えて、オーストラリア保健省では各市役所保険課に当該ユーナビブル-Aを一定数保管するよう正式な勧告通知が出たという。

 ラコルプログ菌が変質した理由は未だ不明であるが、ディンゴに噛まれた子供が小児性糖尿病であったことに何らかの関連性がないか、現在薬学部で関連の検証実験を続けているそうである。


<ユーナのお陰で一人の子供の命が救えた。

 本当にありがとう。>


 そう、リンジー教授は続けていた。


 このユーナブル-A及びBはいずれも学会の論文に詳細を掲載することになっており、そこに優奈の名前も掲載されるらしい。

 優奈にとっては学会の論文に自分の名が載ることよりも、自分が開発した対抗薬で一人の子供の命が救われたことの方が嬉しかった。


 そうして翌週10月25日には、ネットに当該論文が掲載されていた。

 執筆は、マードック薬学部教授であるティモシー・マコーミック氏だった。


 優奈が作成した報告書を参考に上げながら、ユーナブル-A及びBの作成方法とこれまでの動物実験の結果及び今回の非常時に止むを得ず人体に使用した経緯とその結果などを事細かに記載した論文であった。

 ラコルプログ菌が人体内で変質した理由及びユーナブル-Aの副作用の有無など未確認の部分はあるものの、当面の特効薬として使うことは可能であると締めくくっていた。


 当然のことながら、その気になりさえすれば日本*医生命科学大学の教授たちの目にも止まることになる。

 無論、豪州から帰国した時点でラコルプログ菌及びその対抗薬の開発については、簡略的にレポートにして報告していたのだが、崎島教授もさほど真剣には目を通していなかったようだ。


 結果として10月26日の昼休みには、優奈が学長室に呼ばれることになった。

 学長室では、真鍋学長、崎島獣医学部長、井上生物科学部長に混じって動物薬学科の高石主任教授も待っていた。

 井上教授が先ず口を開いた。


「ここに君を呼んだのは他でもない。

 マードック大のティモシー・マコーミック教授の論文、おそらく加山君の方でも確認はしているのだろうが・・・。」


 優奈は頷きながら言った。


「はい、先週に出た時点で確認をしております。」


「ウーム、流石に早いな。

 実は、これに関連して各国の有名大学の薬学部から問い合わせが来ておる。

 加山優奈という学生はどんな学生なのかということが主なのだが、仮に君が短期研修を望むならば我が校でも受け入れる用意があるというのが現段階で8つ、まだまだ増える可能性もあるが・・・。

 但し、8つの内5つまではいわゆる薬学部併設の医大でな。

 残り二つは薬科大学で、最後の一つはマードック大のように獣医学部とは別に薬学科を設けている大学だ。

 で、我々としては、少々戸惑って居るところだよ。

 まぁ、動物の薬が人間に効くというのは無いわけじゃないが、ウチはあくまで*医生命科学大学なのでね。

 動物に関連するものなら、うちにも動物薬学科を新設したので当然にあるのだが、人の診療を目的とする医学部とはそもそも一線を画している。

 ところが動物関連とは言え、その一線を超える画期的な対抗薬を獣医学部の学生がわずかに1週間かそこらで作り上げたことに驚嘆と賛辞の言葉を送ってきているのだよ。

 論文を読む限りは、大した設備も無い研究室で僅かに数人で検証・実験し、作り上げたそうじゃないか。

 君がウチに出した報告書にもラコルプログ菌とその対抗薬の開発は簡略的に記載されていたのだが、正直なところあまり注目はしていなかった。

 で、今後の話として、仮に他の大学でレポート或いは論文などを作成した時はそのコピーを我が大学にも送付してほしい。

 勿論、君が作成した分に関わるものだけでいいし、留学先の大学側で秘匿しなければならない情報は外して構わない。

 特に、短期留学の際に受け入れ条件として秘密保持の項目がある部分については、そうせざるを得ないだろう。

 今回の場合は、仮に詳細な報告があっても日本では何の対策も取れないだろうから、ある意味でやむを得ないのだが、送り出した方が余り情報を知らないというのは拙いのだよ。

 正直なところ、私のところにカナダのMcGill Universityのバカラッティ教授からメールが届くまで私は豪州の論文の存在など知りもしなかった。

 私自身、昨年の薬学国際会議に初めて出席して名刺交換しただけの教授からメールが届くとは思っても居なかったからねぇ。

 だが、今後は君の活動をより確認しておかねばならんと考えている一人でもある。

 いついかなる時に海外からの問い合わせが来るとも限らんからねぇ。」


「あの、ご迷惑をおかけしたようで申し訳ありません。」


 優奈が謝罪の言葉を述べると真鍋学長が言った。


「いやいや、別にこの場で君から謝ってもらおうなどとは誰も思ってはいない。

 医大からの申し出を含めて、来年以降あるいは春季の休みで海外留学の線もあるかなと思い、相談の場を設けたんだが、・・・。

 どうかな?」


「正直申し上げて春季の休業は2週間ほどしかありませんので実質2週間の短期研修は難しいと思われます。

 ですから仮に同じような短期研修があり得るのならば、やはり夏季休業の間が宜しいかと存じます。

 それと来年は世界陸上がありますので、その時期を避ける配慮もせねばなりませんが、それを避ければあるいは二大学程度の研修も可能な場合もあると存じます。

 ある程度日程が確定できないと難しいのですが・・・。

 それと希望を申し上げれば、医学部ではなく獣医学部に関わりのある大学にしたいですね。

 人間の医学に興味がないわけではありませんが、普通の医師は他の人に任せて獣医の道を志したのですから、初心貫徹の意味合いもあります。」


 頷きながら井上教授が言った。


「なるほど、では他にも来るかもしれないが、取り敢えず8つのうち7つは消えたな。

 残るは獣医大で動物薬学を扱っているところになるか。」


「私自身は、薬学科よりも獣医学部の方が望ましいと思っています。

 薬学についての基礎は確かに学んでおりますが、最終的には製薬会社に勤めるのではなく臨床医になりたいと考えていますので。」


 腕を組んだまま崎島教授が口を開く。


「ふむ、その辺のぶれもないところは流石だね。

 ただ、必ずしも臨床に役立つだけの学問でなく君の場合はもっと手を広げても構わないと思うのだよ。

 他の学生になら絶対に言わないことを君には勧めるが、オールラウンドな獣医を目指してはどうかな?

 獣医であって、薬学にも精通していれば開業した時にも役に立つ。

 臨床医とは言いながら、君の場合、大学の付属動物病院に務める気は無いのだろう?」


「はい、できれば自分で開業してみたいと思っています。」


「君ならその能力もあるし、十分な経済力もありそうだ。

 立派な病院を作ることもできるだろう。

 経営学についてはどうかな?」


「病院経営ですか?

 未だ構想もないですけれど、国家資格を取ってからゆっくりと考えます。

 その際に必要ならば経営学についても学ぶことになるかも知れません。」


 崎島教授が言った。 


「ふむ、まぁ、そんなところなのかな。

 今のところ残っているのはウィーン獣医大学の生命科学部薬理科だがね。

 一応候補の一つには入れておいてはどうかな?

 今現在、私のコネでオランダのユトレヒト大学獣医学部に掛け合っているが、相手方の心象は悪くないと思っている。

 多分、ドイツのハノーバー大やオーストラリアのマードック大にもそれなりの照会が行っているだろうから、年明けぐらいには何らかの返事があるだろう。

 それによっては二つ目も考えてもいいだろう。

 特に向こうからオファーが来ているところは、ある程度の無理は効く。」


 真鍋学長が後を継いだ。


「で、もう一つの相談は、君も来年は四回生になるが、大学としてはいわゆる短期留学で半年又は1年のチャンスを君にならば与えてもいいかなと考えている。

 半年や1年、外国へ留学していても君の成績ならばまず落第のしようがないだろうと思っているのだが・・・。

 正直なところを聞かせてもらいたい。

 崎島教授辺りは、君が既に日本*医生命科学大学で教える6年分の授業知識は十分に持っていて、足りないのは実技の技量だけではないのかと考えているようだ。

 本当にそうなのかね?」


「正直に申し上げて、知識だけで言えば卒業試験にも国家試験にも受かる自信はございます。

 しかしながら、実際に実習経験を積まなければ得られない技術知識があると思われます。

 例えば創傷の手当でも縫い合わせるには相応の経験と知識が必要で自らの手でやってみないとわかりません。

 自分でも結構手先は器用だとは思いますが、正確さと迅速さを要求されるような手術に自分の手がきちんと追い付けるかどうかは未知数だと思っています。

 ですから、実地の場数と経験が得られるような短期研修や短期留学ならば私としても望むところなのです。」


「ふむ、その場合、君の趣味たる陸上競技、馬術、それに水泳などは日本での出場は諦めざるを得なくなるが良いのかね?」


「前にも申し上げたかと存じますが、私の趣味が学業の支障になるなら直ぐに辞めます。

 陸上や馬術それに水泳などの競技に出られなくても、私自身には何らの支障もありません。

 あるとすれば、関連する団体等に支障がないよう前広に私の予定に関する情報を提供しておくことでしょう。

 中には私を相当に当てにしているところもございますので。」


「ふむ、それに加えて、君の友人ソニンとのコンサートも難しくなるかもしれないよ。」


「そうですね。でもソニンはいずれそんな日が来ることを承知の上で私とのコンサートをやっています。

 仮にそうなっても、半年又は一年後にチャンスがあればまたコンサートを開くことができます。

 二人ともまだ若いのですから。」


 学長が取りまとめた 


「なるほど、では、四回生の半ばで1年間の留学を考えてみようか。

 欧米各国は9月若しくは10月に新学期を迎えるところが多い。

 行くなら、それに合わせて留学した方がいいだろう。

 その際は、夏季休業前に四回生の前期及び後期定期試験を前倒しで受けてもらい、9月には渡航、翌年夏季休暇の間に帰国してもらえればいい。

 帰国したならば、五回生の前期定期試験を別途受験してもらい、合格すれば無論五回生の後半に通常通り就学してもらう。

 無論、短期留学で経験した実績は相応に評価するが、日本と諸外国の制度は異なっていてね。

 例えば、君がいくら優秀な成績で卒業しても、外国ではさほどに見てくれない。

 まして日本と欧米の獣医制度は互換性がない。

 マードック大学で得た獣医の免許は欧米で互換性があるものの、我が国の獣医免許は欧米豪州との間では何ら互換性が無いのだよ。

 だから形の上では同等の授業を海外で受けて来ていようがいまいが、その結果がきちんと前期定期試験に反映されていれば君の進級になんら問題はない。

 五回生の9月からは普通通りに通学できる。

 尤も君のように優秀な学生だからこそできることであって、留年のリスクがあり過ぎるから、他の学生にこれを勧めようとは絶対に思わないがね。」


 優奈は海外にも人脈のある教授陣に留学の件についてはお任せした。

 その日から日本*医生命科学大学創設以来の正式な短期留学を目指して各教授が動き始めたのである。

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