第106話 12-12 蚕室陸上競技場のゴール
異例なことにスタンドが人波に埋まり、午前9時10分頃には8割程度の収容数となった。
ソウルオリンピックの開催された蚕室陸上競技場は観客収容数が10万人を誇る。
そこに8万人も集まって未だ姿も見えない優奈を待ち受ける姿は一種異様でもあったが、同じアジア人としての優奈に賭ける市民の熱意でもあった。
特に女性客が60%以上を占めていたのは特筆に値する。
一方優奈は30キロ地点からそのまま南下してソウルの森の角で左折、東方の蚕室大橋に向かって疾走する。
蚕室大橋の手前側たもとに35キロの通過点がある。
優奈のラップタイムは1時間35分5秒台となった。
蚕室大橋の上は漢口の川風が特に強い場所として知られているが、この日もかなりの風が吹いていた。
優奈が走る姿は、そんな風にも全く影響されているようには見えないが、お馴染みとなったポニーテールの先端が時折風に煽られるのが風の強い証拠である。
橋を渡りロッテワールドの石村湖を渡ると左折、何度か道を折れながら蚕室総合運動場へ向かう道を辿るが、その途中蚕室本洞役場の手前に40キロの通過点があった。
ここまでくれば残りは僅かに2.2キロ足らず、40キロのラップタイムは1時間48分42秒、アクシデントが起きない限り大幅に2時間を切るタイムが期待できる。
しかもホノルルマラソンで報じられたラップタイムを1分以上も上回っているのである。
この時点では 蚕室陸上競技場も観衆が集まり過ぎて飽和状態であった。
未だに地下鉄から競技場へと向かっている群衆がいるにもかかわらず、既に収容人数一杯の10万人が入っており、入れない群衆が警備陣と小競り合いを演じている始末であった。
10万の大歓声に迎えられて優奈が競技場に姿を現し、コースを四分の三周してゴールテープを切ったとき、タイムは1時間54分47秒というとんでもない記録であった。
ソウルマラソンにおけるこれまでの記録は、男子の2時間5分13秒、女子の2時間19分51秒であり、日本人選手としては、2時間11分22秒が最高記録であった。
当然に優奈は全てのレコードを破っての優勝である。
ゴールでは大勢の報道機関が待ち構えていたが、関係者として登録済みの三人のガード・ウーマンがしっかりと優奈をガードし、彼らを寄せ付けなかった。
勿論、記者会見の準備も大会事務局の承認を受けて怠りなく済んでいる。
記者会見は2時間後の正午から30分だけ、トラックの外側にある大会本部テント脇の空き地を指定していた。
優奈はベンチコートにくるまってフィールド内に座って一旦休憩していた。
5分ほどしてから筋肉のクールダウンのために立ち上がり、トラックの外周をゆっくりと回った。
スタンドから「ユーナ」と名前を呼ばれ、声援が飛ぶと手を振って笑顔を見せた。
既にサングラスを外しているから優奈の整った顔が良く見える。
スタンドから無数のカメラが向けられていた。
そんな中に害意を持った者がいた。
残念ながらあまりに憎悪が強すぎるために少々のヒュプノでは抑制できないレベルであった。
これだけ大勢の観客がいる前では強度のヒュプノは使えない。
何らかの形で察知される可能性もあるからである。
その男は、スタンドの階段を駆け下りて2m以上もある高さから競技場内に飛び降りた。
手には、韓国古来の直刀を持っている。
本来は刃引きをしたものだったのだろうが、グラインダーで不細工ながらも研いできたものである。
当たれば無論怪我をするし、当たり所あるいは切り所が悪ければ死ぬことになるだろう。
優奈はそんな場合には躊躇しない。
優奈に向かってくる男を逃げもせずに迎え撃った。
異常に気付いた観客が騒ぎ、男達は怒声を張り上げ、女達は叫び声を上げる。
警備員たちも動き出すが距離があって間に合わない。
優奈の動きはフルマラソンを走り終えたばかりとは思えないほどに俊敏であった。
男が切り付けて来た刃物を見切ってすれすれで躱し、男の右腕を左手で掴みながら左足を引いて
優奈は左程の力を加えてはいないのだが、優奈の見事なタイミングでの引き技で、男の勢いがそのまま慣性力となり、とんでもない速さで樹脂のグランドに叩きつけられた男は一瞬で意識を刈り取られたのである。
そこでようやく競技委員や警備員が駆け付けてきたが、倒れた男はびくりともしない。
とどのつまり、捕縛ではなく、慌てて担架を持ち出して運び出す騒ぎになった。
この顛末は競技場内に設置されたテレビカメラが初めから終わりまで克明に撮っていた。
10万人もの市民は居るが、何せ優奈以外に被写体が居ない競技場である。
マラソンがスタートして2時間を少し過ぎた辺り、第二グループは未だに競技場に到達していなかったのだ。
その日のお昼のニュースは、優奈の世界新記録樹立の報と共に韓国の面汚しとでもいうべき男の襲撃の模様がトップに入った。
無論市内の繁華街では東亜日報の号外が道行く人々に手渡されていた。
男の襲撃に関しては、一人の精神異常者の予期せざる行動として政府も警察も幕引きを図ったが、そもそも持ち歩いてはならない直刀をどうやって競技場まで運んで来たのか、競技場警備のずさんさ、警察の監視の甘さが露呈することになり、暫くの間は週刊誌等で散々に叩かれることになった。
優奈は今回の襲撃に関しての事後措置については特にコメントをしていない。
記者会見においても単に、「突然の出来事でしたので驚きましたが、必要な自衛措置を取らせてもらいました。」とだけ言って見事に肩透かしを食らわせていた。
何らかの確信犯であったにしても、いわゆるおかしな男であることは間違いないし、実害が無かったのであるから優奈が特に事を荒立てる必要はないからである。
優奈のマラソン大会はこうして終わったが、韓国での仕事はまだ残っていた。
15時40分からのSBSでの人気歌謡という生放送の番組に出演しなければならないのである。
尤もSBSの方でもさすがに午前中にフルマラソンを走った優奈に無茶を言うわけには行かず、元々Zoom inに出演してもらうつもりであったことから、完全に出番を後半に持って行く配慮を見せてくれている。
このため、優奈とソニンは1630までに放送局に辿り着けばよいことになっている。
ソニンのスタッフたちは、優奈達よりも先に放送局に行って待っている。
彼らのうち専属バンドマンたちは優奈が渡した楽器ごとの楽譜で、ようやく各パートの演奏ができるようになり、仮にユーナが居なくても、バックは演じられることになった。
その分、此処三日ほどはかなりの練習を積んだようである。
インターコンチネンタルからSBSの人気歌謡が催される会場へは地下鉄を利用しても1時間を要する。
マラソンはスタートから5時間でランナーの回収が始まるものの、実質規制解除がなされるのは15時くらいになり、それまではソウル市内の自動車交通が渋滞を起こしている可能性が高い。
そんな事情で逆に地下鉄も混み合うのである。
従って遅くても15時くらいにはホテルを出られるぐらいにしておく必要があった。
正午から記者会見を30分行って、そのまま会場に待機、その後大会の表彰は13時から行われた。
優奈はジャージ姿でひな壇に上がり表彰を受けた。
なお、優勝者には男女別に8万ドル[男性(女性)の場合は2時間10分(2時間24分)以内で走った場合]、但し、既定のタイムより遅い場合は半額の4万ドルで、8位入賞者まで順次減額された賞金が出る。[因みに8位入賞者は二千ドル若しくはその半額]
大会記録を更新すると10万ドルで、世界新記録を更新すると50万ドルが賞金となっているのだが、女性の場合は30万ドルとなっている。
これは本来女性の世界記録を更新した場合の意味であり、女性が男性の記録を破った場合はどうなるのかは不明なのだ。
表彰式では表彰状やメダルとは別に、立派な封筒に入れられた賞金を副賞として渡された。
封筒には小切手が入っているのだけれど外からは見えない。
ホテルへ帰って確認してみたら、額面50万ドルの小切手の写しが一枚、8万ドルの小切手の写しが一枚、合計で58万ドル分あるけれど、ここでも所得税がかけられている。
その分差し引かれた残額が記載された本物の小切手がソウル税務署の領収書と共に入っていた。
韓国では額によって累進課税がかけられ、58万ドルの一時所得の場合38%の最高税率がかけられ、また居住者、非居住者に関わりなく、所得税の1割が地方税として一緒に課税されるので、実質41.8%の税が差し引かれ、正規の小切手は33万7560ドル(日本円にして、3600万円ほどになる。)の額面になっていた。
この小切手は、韓国は勿論、それ以外の国でも通用するようだ。
今回、優奈を含めて4人の交通費や宿泊費などで結構使ったのだけれど、それを上回る臨時収入がまたまたユーナの手元に入ってしまった。
何だか優奈の場合は、陸上競技が結構儲かる商売の様だ。
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