第87話 10-10 柏崎マラソン(2)

 第二会場へ移動する時間の様です。

 第二会場は、柏崎駅前の東側にある歪な四角形の芝生の公園であり、広さは2000平米ほどもあるかも知れません。


 そこに仮設のステージが設けられ、空中にワイヤーが張られ、そこに明かり代わりの提灯が多数ぶら下げられているのです。

 これで中央にやぐらが組んであれば盆踊りの会場ですね。


 外縁部にはいくつか屋台も店を広げています。

 到着するとすぐにステージに上げられて、紹介を受けました。


 途端に、広い芝生を8割がた埋めた観衆が一斉に拍手と歓声を上げたのです。

 中々アイドルでもこれほどの歓声は上がらないだろうと思われる大きさでした。


 結構若い人の参加が多く、その所為かも知れません。

 既に公園中央付近のテーブルには空の容器ばかりが目立っています。


 この時点で用意した軽食は品切れ状態で、今は屋台がフル稼働している状況の様でした。

 優奈はステージに立って挨拶をし、先ほどと第一会場での挨拶と同様のエールを送りました。


 一番手前に陣取っていたグループの一人が大声で言った。


「ユーナさん、折角、新潟まで来てくれたんだから、走りだけでなく歌も聞かせてくれないか。

 一曲だけでいいからさ。

 お願いだ。」


 すると、それに呼応して賛同する声が多数続いた。

 特に若者が多い。


 優奈は係長の方を見ました。

 すると袖から少し太めのオジサンが出て来たのです。


「私は観光課長の沢木信一郎です。

 加山さん、ゲストに失礼があってはならないのですが、一方で、使える者は親でもばぁちゃんでも使えと言うのが我が家の家訓なんです。

 可能ならば一曲だけでも何か歌ってはくれませんか、エレクトーンやギターが必要ならばバンドから借り受けます。」


「うーん、困ったわねぇ。

 何も用意はしていないのだけれど、・・・。

 じゃぁ、エレクトーンをお借りしていいですか?」


 背後で控えていたバンドマンがにっこり笑ってエレクトーンの席を譲ってくれたのです。


「それでは、若い人向けの歌で、私も大好きな歌を一つだけ演奏します。

 大橋美空さんが歌っている横浜慕情です。」


 大橋美空は18歳であり、前世で優奈が歌ったことのある歌を歌っている歌手なのです。

 それなりに人気はあるのですが、歌い方が少し雑なのでヒットになりにくい。


 ツボを押さえることができれば、売れる素質は十分に持っているアイドル歌手だと優奈は考えているのです。

 エレクトーンで前奏を行い、優奈が歌い始めました。


 誰しも一度は聞いたことのある曲の筈です。

 耳に心地よく覚えやすいメロディなのです。


 伴奏のテンポを少し変え、発声のメリハリと音の転がし方に注意すれば売れる曲なのです。

 正にそれを優奈が歌っていました。


 初めて曲を聞いた者は凄く上手いし、いい曲だと感じただけであったが、大橋美空の歌を聞いたことのある者は明らかに大きな衝撃を受けていました。

 ミラクル・ユーナはプロ歌手よりも上手に歌えるのだ。


 この曲がこんなにいいとは思ってもいなかったことにも衝撃を受けていた。

 歌い終わったとき、会場の若者たちが一斉に咆哮し、拍手喝さいを送ったのでした。


 ◇◇◇◇

 

 翌日8時の開会式に間に合うように係長がホテルまで迎えに来てくれました。

 ロビーで待っていた優奈と佐伯女史は、車で陸上競技場に送り届けられたのです。


 優奈はジャージ姿であり、それを脱げばすぐにも走れる服装です。

 きちんとゼッケンも付けておきました。


 8時から開会式、委員長の挨拶の後、数人の後援者が挨拶、その後を優奈が挨拶しました。

 マイクの前に立つと途端に会場に集まった人たちから歓声が上がり、「優奈ちゃん」とか「ミラクル・ユーナ」とかの声がかかる。

 やはり優奈の人気はかなりのもののようです。


「皆さん、今日は晴天で湿度が低いのでマラソンには最適なんですが、同時に発汗で水分を失いやすいですから適宜水分の補給に気を付けて走ってください。

 私は10キロを走るランナーと一緒にスタートし、先行するハーフマラソン組、フルマラソン組を追いかけます。

 一緒に完走目指して頑張りましょう。」


 その呼びかけに、多数の者が「おーっ」と歓声を上げていた。

 競技委員から種々の説明が終わった後に、フルマラソン組からスタートラインに並ぶが、1500名の人数は密集してはいないのでトラックの半分を埋めるほどであった。


 それ以外の者は、とりあえずトラックの外にある観客席で自分たちの出番を待っているのです。

 9時にフルマラソン組がスタートし、一斉にコースに従ってランナーが動き出しました。


 1500名のランナーたちが競技場を出るまでにそもそも10分近くかかってしまったのです。

 この分ではハーフマラソンはもっとかかるに違いありません。


 そもそもハーフマラソンのランナーがトラックに降りて準備ができるまでに更に10分ほどかかり、実際にスタートしたのはフルマラソンのスタートから20分遅れでした。


 それらが全部出払って、次の10キロ組がトラックに参集、スタートしたのはフルマラソン組の出発から40分、ハーフマラソン組から遅れること20分であったのです。

 それでもユーナはスタートするとすぐに10キロ組を後方に置いて、トップスピードで走り始めたのでした。


 競技場を出る前に優奈と10キロ組の先頭グループは100m以上も差を付けられていたのです。

 優奈が7、8分も走るとハーフマラソン組の最後部に追いついていました。


 そこから驚異的な追い抜きが始まりました。

 優奈の5キロのスプリットタイムは、14分前後なのです。


 ハーフの折り返し地点を過ぎた時、優奈のスタートからは29分半ほど経っていました。

 ハーフマラソンのスタートから言うと既に50分近く経過し、折り返してきたランナーは多いけれどそれでも100名足らずであり、優奈は僅かに30分足らずで3900人ほどのランナーを追い抜いてきたことになるのです。


 実のところフルマラソンのランナーも既に100名以上を追い抜いています。

 ハーフとフルのランナーはゼッケンの色合いが違うので簡単に見分けがつくのです。


 ゲストである優奈は更に色が違っていました。

 そうして更に30分後、優奈はフルマラソンの折り返し地点を通過していたのです。


 ハーフを1時間かからずに折り返す実力は大したものであると誰もが認めざるを得ませんでした。

 既にフルマラソンの参加選手の半数以上がユーナに追い抜かれているのです。


 フルマラソンがスタートしてから少なくとも1時間35分が経過していた。

 これからトップを追い抜くのは無理ではないかと思う関係者の思惑を無視するように、折り返し地点の少し前から優奈のスプリットタイムが変わったのです。


 5キロのスプリットが、13分30秒前後と30秒程も跳ね上がったのです。

 そうして優奈が40キロを過ぎた時点で優奈がスタートしてから1時間50分20秒でした。


 フルマラソンスタート時から2時間30分余りであり、トップは2分近く前に40キロ地点を通過していた。

 その距離およそ600mでしたが、残り約2キロの間に徐々にその差は埋まりつつあったのです。


 陸上競技場に入ったときはまだ差が少しあったのですが、トラックを300m走る間にフルマラソントップの男性は完全に抜かれてしまいました。

 最後に優奈に抜かれたランナーは、坂崎浩二、タイムは2時間36分46秒でした。


 一方の優奈は40分差をひっくり返し、タイムは1時間56分31秒でした。

 しかしながら、これを世界記録と称していいものかどうか審判団は迷ったのです。


 優奈があっさりと言った。


「スタートが違うんですから公式と云うには無理がありますね。

 それに途中の監視体制も今一です。

 最初から先導車の後を付いて行った場合は、間違いありませんけれど、そうでない場合はコースから外れていないという逆証明をしなければなりません。

 ですからグロスタイムとネットタイムの双方を非公式記録として出してください。

 それでいいと思います。

 それよりも表彰式で子供たちが待っているようですね。

 表彰式を始めましょう。

 もし希望があるならば、表彰状の背面に私のサインをいたします。」


 表彰が競技場のフィールドの中で始まった。

 最初は3.3キロの小学生の部で男女別に各3名、中学生の部で同じく男女別3名、高校・一般で男女別3名である。


 次いで10キロの中学生の部で男女別3名、高校生の部で同じく男女別3名、一般で男女別3名であったが、更に市民グループは年齢群と性別ごとに別途に表彰される。

 ハーフマラソンでは、高校の部で男女別3名、一般で男女別3名全ての表彰に付き合うのだから大変なのだけれど、優奈は一人一人におめでとうを言い、希望者には表彰状の裏にサインを書いて上げたのでした。


 因みにサインを希望しない者は居ませんでした。

 フルマラソンの38.1キロ地点にある第三関門が閉じるのは午後1時25分であり、スタートから4時間半足らずで閉めるのは結構時間制限が厳しいですね。


 通常であれば6時間程度までがマラソンの完走として認められるコースが多いのですが、ここは早めに閉めてしまうので、概ね5時間程度で走り切れないランナーは記録が残らないことになるようです。

 従って、陸上競技場のゴールも午後2時過ぎには終了してしまうことになります。


 優奈も14時まで待って、宿へと引き上げたのでした。

 待機している時点では、気温も徐々に下がって来ますので、身体が冷えないようにベンチコートを着ている優奈でした。


 前夜祭の模様と、マラソン当日の動画はその日の内にネットに数多くが掲載されました。

 かなり多数の人が優奈を狙って撮影していたようです。


 走行中のごく短い動画がいくつもつなぎ合わされて、画面の下に何キロ付近と表示されて時間が表示されているのが凄いです。

 時間の方は多少撮影機器で誤差があるようですが、1分までの違いはないと最初に注意書きが記載されていました。


 動画全部を見ても30分たらずなのですが、42.195の中継放送とまではいかなくとも概ね状況がわかる映像になっていました。

 前夜祭の映像は主催者側のビデオで撮影されたもので、音声は別に録音されていたものを合成しているようでした。


 従って野外ではあるものの、画質も音声も中々にいいものであったのです。

 この前夜祭の動画が掲載されて3週間後、大橋美空とマネージャーが前触れもなしに突然神城高校を訪ねて来て、またまた若干の騒動を引き起こすことになるのです。


 優奈と佐伯女史は、その日1920分発のフライトで無事に伊丹空港へ戻って来ました。

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