第36話 4-7 世界陸上第五日目(8月8日)
UK陸連と言うか、IAAFと言うか黒子がやや不明であるものの、とにかく事務局の策謀により、優奈が保持する各世界記録種目の個別競技の決勝がこの日から始まりました。
優奈としては、別に同じ舞台で走ったり、跳んだりする必要はないとドライに考えているのですけれど、陸上ファンや選手達は必ずしもそうでもない様なのです。
報道記事を見る限り、今回の特別措置に好意的な記事は数多くあるのですが、否定的な記事は全く見られないのです。
ネットなどは、普通どんなことに対しても否定的見解を示す
陸連が何らかの手段で反対意見を封じ込めているとも思えません。
優奈にとっては面倒が増えただけのことなのですが、最善を尽くす気持ちに変わりはありません。
この日は、1920から槍投げの決勝があるのですが、別枠の予定はてんこ盛りになっていました。
午前の早い時期に補助競技場でリレーの練習。
8日正午に在ロンドン日系企業社長会の招待で昼食会。
場所は、地下鉄ピカデリー線キングスブリッジ駅に近い老舗ホテルであるマンダリン・オリエンタル・ハイドパーク・ロンドンのレストランなのです。
招待されたのは選手団全てではなく、高坂団長と優奈それに同伴者の佐伯女史だけなんです。
最初は高坂と優奈だけのご招待だったのですが、佐伯女史が一緒でなければ行かないと優奈がごねたらあっさりと追加されたのです。
優奈は日本代表団の制服姿、佐伯女史は一応フォーマルな装いのスーツでした。
昼食会では、十数名の日系企業の社長さんが参加していましたが、その全員から色紙へのサインを
結局は、間近でアイドルじみた優奈を見たかったおじさんたちのエゴの発現であったようですね。
そうして、その後、UK陸連の理事エイミー女史のティー・パーティへのご招待が午後2時からの予定でした。
エイミー女史の息子さんがわざわざホテルまでお迎えに来てくれたのです。
行ってびっくりしたのは、エイミーさんの家がかなり大きな邸宅であったことと、優奈たち以外にも招待者がいたことでした。
しかも驚くなかれ、その招待者は、英国ロイヤルファミリーの一人、シャルロッテ・ノーフォーク王女(17歳)であったのです。
優奈の前世の記憶では、英国の女王はエリザベス二世でエリザベート女王ではなかったし、ノーフォーク公というロイヤルファミリーが居たという記憶はありません。
従ってシャルロッテ王女もいなかったように思うのですが、優奈のいる現世ではシャルロッテ王女は実在するのです。
それやこれやと前世の記憶とずれている部分もあるので、渡航前に英国史を含め、さまざまな知識を一生懸命に勉強したのです。
そんな中にロイヤルファミリーとしてのシャルロッテ王女の情報も確かにありました。
件のシャルロッテ王女は、ご学友の一人クリス・ファンデルソンさんと非公式にエイミー家を訪問していたのです。
非公式と言いながらも、ロイヤルファミリーが動くと警備や侍女たちも当然に動くことになります。
このためエイミー邸の周辺は厳戒態勢とまでは行かないまでも、秘密裏にかなり物々しい警護がなされていたのです。
そうとは知らずに到着した優奈が二人にご対面、慌ててカーテシーでご挨拶する羽目になりました。
「おやまぁ、ユーナはよくご存じね。
シャルロッテ王女様を知っていたのかしら?」
笑いながらエイミー夫人が尋ねてきました。
「はい、書籍で見ただけですが。お顔は承知しています。」
「そう?
でも今日は非公式なご訪問ですからね。
あまり気を使わないでもよいのですよ。
うちのマーガレットと同じで、とっても貴女に憧れていて、たまたま三日ほど前のパーティでお会いした時に貴方のことが話題になり、我が家に招待している旨をお話ししたなら貴女に会いたいがためだけに他のスケジュールをキャンセルしてまでして、ここにいらっしゃるのよ。
貴女に
そうしてこちらは、クリス・ファンデルソンさん。
ファンデルソン重工の社長令嬢で、シャルロッテ様のご学友。
クリス嬢も貴方の熱烈なファンみたいよ。」
その後で、4歳のマーガレット嬢にも挨拶し、女ばかりのティータイムを過ごしました。
シャルロッテ王女もクリス嬢も、気さくな人でした。
マーガレット嬢は、幼いながらも優奈の奇跡のような活躍に如何に驚き興奮したかを一生懸命説明してくれました。
マーガレット嬢にはサインの入った色紙を手渡すと非常に喜んでくれました。
色紙には優奈が自ら描いた和風の水彩画で花が描かれており、漢字の署名とともに日本を感じさせるものだったからです。
残念ながらシャルロッテ王女とクリス嬢の分まではご招待そのものを知らなかったので用意していませんでした。
そのために、後日、シャルロッテ王女とクリス嬢のために、色紙を創って送ることになってしまいました。
マーガレット嬢に贈った色紙を二人がとっても羨ましそうに見つめており、ただの色紙にサインだけでは満足してもらえそうになかったからなんです。
世代差のあるティー・パーティで何かと気の使う場ではあったのですが、思いのほか楽しい一時を過ごせました。
次のスケジュールが入っていたために、午後四時にはマーガレット嬢やシャルロッテ王女達に別れを告げました。
その日1920から始まった槍投決勝、IAAFの特例扱いで優奈が決勝枠に入り込んだ初めての種目でした。
通常の予選を勝ち上がった12位までの選手に優奈が加わり、13名で飛距離を競うことになるのです。
優奈は13番手でした。
1番手から順次槍を投げて行くのですが、70mラインを突破する選手は現れません。
優奈の出番になると、今日は声を合わせて「ユーナ」、「ユーナ」、「ユーナ」と三回連呼する声援が最初にメインスタンドで、次いでバックスタンドに移り、もう一度今度は全体で声を合わせた声援が沸き起こりました。
長い世界陸上の歴史でもこんな出来事は初めてのことの様でした。
これを繰り返されると競技進行が遅れてしまいます。
そう判断した優奈は、左手を高く振り上げ、それから槍を右手で構え、助走開始のポーズをとりました。
すると途端に観衆は静かになって行くのです。
多少のざわめきが残る中、優奈が走り出すと一気に競技場が沈黙する。
まるで魔法の様でした。
助走路のエンドライン付近で優奈が槍を投げ、エンドライン内に踏みとどまると、 槍は見事な放物線を描いて、高く、そうして遠くへ飛翔した。
槍が到達した地点は、70mラインをはるかに超えた80mライン付近でした。
観衆のほとんどが槍投げの世界記録は、優奈が二日前に出したばかりの79m42であることを知っていました。
従って、1投目の記録が78m51であることを電光掲示板が知らせた途端に、「あぁっ」と失望のため息を漏らしたのです。
まるで競技場全体が一個の生き物であって、その息吹のようにさえ聞こえました。
2投目も78mを超えるが80mラインには届かない。
しかしながら、3投目、観衆の望んだ場面がついにやってきたのです。
優奈が投げた槍は80mのほとんどライン上にある。
観衆が固唾を飲んで見守る中、電光表示板に80m12と表示されるとスタジアムが咆哮したのです。
これまでで最高の咆哮でした。
その咆哮に応えるように優奈は両手を掲げ、笑顔を慣習に見せたのです。
そうして、普段と異なり、手を降ろすと四方に向かって見事なお辞儀を行いました。
半数の人はそれが日本人の挨拶であり、感謝の仕儀だと知っていました。
残りの半数は、その荘厳な仕草を良く知らずとも観衆に対する優奈の感謝のしるしだと受け取っていました。
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