5年後までサヨナラ
くろろ
第1話 路上ライブの夜
午後六時半を回ったところで、ようやく日が陰り始めた。
コンクリートの地面には日中の暑さがまだ残っていたが、駅前のアーケードに一歩入ると、若干気温が下がったように感じられた。
七月最後の金曜日。夏休みに入っていることも影響しているのか、高校生と思われる通行人が多かった。
人混みをかき分けアーケードの中をしばらく歩き、やっとの事で目的地である商業ビルの前にたどり着いた。そこは一階部分の店舗にテナントが入っておらず、今もシャッターが閉まったままになっている場所だった。
僕、
ケースから愛用のアコースティックギターを取り出し、クリップ式のチューナーをつけて肩にかける。
マイクもアンプもない、ただギターを弾いて歌うだけだから、チューニングができたらセッティングも終了だった。ルーティンとなっている作業を終え一息つく。
周囲を見渡すと好奇な目を向ける通行人が何人かいた。始めた頃はあまりの恥ずかしさになかなか前を向くことができなくて、逃げて帰ろうとしたこともあったけど、何回か経験したら他人の視線にもすっかり慣れてしまった。
ピックを摘む指先に力が入っているのを感じ、ほぐすように両手を振った。最初の一曲を歌い始める瞬間は何度やっても緊張するものだ。でも僕は、緊張が快感に変わるこの瞬間が好きだった。
時刻が午後七時になった。
目をつむって大きく深呼吸をした僕は、思い切りギターをかき鳴らした。
※
路上ライブをやってみたいと思い立ったのは今から一年近く前、高校一年生の十月のことだった。
学校の友達から、親戚が昔、路上ライブをやっていたという話を聞いて、興味を持った。
その近藤さんという人は、僕が通う高校のOBでもあり、卒業後、フリーターなど紆余曲折を経てスタジオミュージシャンになったという異色の経歴の持ち主だった。
ギター教室も行っており、相談したいことがあると連絡をとったら、後輩のためならと、忙しいなか教室内の事務室で会ってくれた。
ミュージシャンという肩書きから業界人ぽい人物を想像していたのだが、実際会ってみたら四十歳という年齢相応の落ち着いた男性だった。
「人前で歌うことに慣れたいんです」
そう相談したところ、フリーター時代に路上ライブをやっていた経験があるという近藤さんは僕に興味を持ってくれたらしく、ライブを行う上での約束事や心構えを丁寧に教えてくれた。
観客を増やすためには同じ場所、同じ曜日、同じ時間に行うこと。有名な曲で観客をつかみ、オリジナル曲はその後にすること等々、経験を踏まえた具体的な話はそれだけで面白かった。路上ライブがしやすい場所まで教えてくれて、近藤さんに相談して本当に良かったと思った。
「もしかして、柊くんはプロになりたいのかい?」
近藤さんが最後に聞いてきた。
「いやなに、今の若い人はネットに動画をアップする方がメジャーだろう? 人前で歌うことに慣れたいから、わざわざ昔ながらの路上ライブをしたいっていうのがさ、プロ志望だからなのかなと思ってね」
プロのミュージシャンになりたいという夢は、幼稚園の頃から思い描いていたものだった。だけど夢を語るのが恥ずかしくて、友達にからかわれそうでもあったから、最近は誰にもしゃべらなくなってしまっていた。
しかし近藤さんには素直に自分の気持ちを言えた。
「はい。プロになりたいんです」
近藤さんは腕組みをして、「そうか」とつぶやいた。
「今の日本の音楽界は非常に厳しい世界だよ。歌で食えているのはほんの一握りだ。レコード会社も昔みたいに余裕がないから、新人を一から売り出すようなことをしなくなった。ネットですでに人気のあるような、売り上げの予測が立てやすい人材を発掘するか、素人の集団をアイドルに仕立て上げ、戦略的に売り込むことしかできない状況だ。
そういえば、また新しいアイドルグループのオーディションがあるって噂されていたな。ほんと目先の金を稼ぐことしか考えない、つまらない業界だよ」
近藤さんの表情は笑っていたが、目は真剣だった。それは近藤さんが僕に初めて見せたプロのミュージシャンの顔だった。
「今は趣味で作った歌を動画にアップして、みんなに聞いて貰うことができる世の中だ。無理してプロを目指さなくても、再生回数でお金を稼ぐこともできるだろう。歌が好きなら、そういう道もあるということさ。
プロは生半可な気持ちで目指すものじゃない。相当の覚悟が必要だ。その覚悟が今の君にはあるのかな」
話し方は優しい。けれど近藤さんから発せられるただならぬ雰囲気に圧倒されてしまった僕は、口ごもってすぐに返事をすることができなかった。
僕はプロのミュージシャンになりたいと本気で思っていた。決して生半可な気持ちじゃない。だけど覚悟があるかと問われたらどうだろうか。これまで深く考えたことがなかった。
近藤さんの言う覚悟を僕なりに想像する。たぶんそれは、この先どんな犠牲を払ってでもなりたいという覚悟であったり、挫折があってもそれを乗り越えてみせるという覚悟のことを指すのだろうと察した。
だとしたら。
僕は思ったことを口にした。
「覚悟は今できました」
自然に出た言葉に、近藤さんは「今なんだ」と笑ってくれた。
※
簡単に言えば、覚悟が足りなかったのだ。
弾き語り路上ライブは終盤にさしかかっていた。
観客は二名。通りすがりの会社員と、その彼女さんだった。しかし、最後の曲を歌い出す前には、その二人もいなくなってしまった。
金曜日のこの時間、いつもならノリのいい大学生や音楽好きのおっちゃんたちとで盛り上がることもあるのだが、今日は残念ながらそういう日ではないらしい。目の前を買い物客が忙しそうに通り過ぎていく。
オーラスに選んだのは、中学のときに初めて作った思い入れのある曲だった。
これまで何百回と弾いてきたイントロをギターで
ひとつ決めていたことがあった。
この曲を歌い終えたとき、僕は音楽を止めようと思っていたのだ。
小四からギターを始めて七年。真剣にプロになりたいと思っていたし、それだけの努力はしてきたつもりだった。今でもほんの少しだけど、諦めなければプロになれるんじゃないかと思うことがある。けれど、そんな小さな未練も、挫折を味わった僕からしたら断ち切ることは容易だった。
曲はさびの部分に入った。吹き出す汗にかまわずギターを弾き、激しく、だけど丁寧に歌う。いい意味で力が抜けた感じで歌うことを意識していた。
そして、最後の曲を歌い終えた。
拍手はなかった。
観客がいないのだから当然だ。
それでもいつものように、ありがとうございましたとお礼を言いながら頭を下げた。
やりきった感は正直なかったが、気持ちが変わることもなかった。あとは普段どおりギターをケースに仕舞って最寄り駅に向かうだけだ。最後だからといって特別なことは何もない、はずだった。
頭を上げようとしたとき、思いがけないことが起きた。
拍手の音が響いたのだ。
僕の歌を聴いてくれている人は誰もいないはずだったから、すぐには反応ができなかった。あわてて頭を上げ、拍手のした方に顔を向けると、思わず息を飲んだ。
そこには、自分と同い年くらいの女の子が立っていた。ストレートの長い黒髪と大きな瞳が印象的なその子は、僕の視線を受けて照れたような笑みを浮かべた。見る者をどきりとさせる美しさだった。
「柊瑞季くん、だよね?」
すごくきれいな声で自分の名前を呼ばれた。
「……ええと、そうだけど」
つい見とれてしまって、返答が遅れたことが恥ずかしく、何となく素っ気ない言い方になってしまった。
見覚えのない女子だった。少なくとも同じ高校ではないはずだ。
普段なら二人きりでしゃべることもはばかれるような彼女は、こちらの心の混乱をよそに、すぐ近くまで距離を縮めてきた。
「最後に歌ってた曲、誰の曲?」
「ああ、あれはオリジナルなんだ。気に入ってくれたらうれしいけど」
緊張していることが悟られないよう、平静を装って答えた。
「いい曲だね」
「ありがとう。よく言われるよ」
「なにそれ」彼女が微笑む。「言われ慣れてるんだ。悔しいな。言わなきゃ良かった」
フランクに話しかけてきてくれたからなのか、彼女に対する緊張感と警戒心が薄れていった。
「ねえ」
「何?」
「もう一曲歌ってよ」
「残念でした。もう閉店です」
「観客のアンコールを無視する気?」
彼女が呆れたように、肩をすくめるポーズを見せた。
アンコールをされたことなんて、一年近く路上ライブをやってきて数える程度しかなかった。本気かお情けかは分からないが、される側としては悪い気分ではない。これまでなら喜んでもう一曲歌っていただろう。でも今日はそうはいかなかった。
「ほんとにもう閉店なんだ。ずっと閉店」
「ずっと?」
「そう、ずっと。今日で路上ライブはおしまい」
彼女が息を飲むのが伝わってきた。
「どうして?」
「どうしてって何が?」
「金曜日のこの時間、君はいつもここでギターを弾いていたのに、今日でそれが最後だってことでしょ」
その発言で、彼女が何回か僕の路上ライブを見たことがあるということが分かった。もしかしたらファンでいてくれていたのかもしれないが、それならもっと早く声をかけてくれればいいのにと、勝手なことを思ってしまう。
「音楽自体を止めるんだ。今日で最後にすると決めていた。だからさっきの曲で最後。悪いけど」
「どうして止めちゃうの?」
もう一度彼女が聞いてきた。
「言いたくない。ごめん」
軽くあしらうこともできただろう。でも、彼女の強い視線を感じたら不誠実な発言はできないと思った。
微妙な空気が流れた。場を取り繕うため、ギターをケースに仕舞いだす。
片づけが終わったところで彼女が言った。
「あのね」
「何?」
「君のこと、好きだよ」
「はぁ?」
一瞬、言われたことの意味が分からなかった。
「付き合ってほしい、という意味」
どうやら告白されたらしいと理解するのにある程度の時間を要した。だけどあまりに突然で、あまりに突拍子もない展開であったから、頭は結構冷静だった。
「付き合うって、僕と?」と問うと、「もちろん」とはっきりした声が返ってきた。
「だめかな」
「僕は君のことを知らない」
「だから?」
「知らない人と付き合うなんてできないよ」
それを聞いた彼女は、それもそうか、とつぶやきながら、コホンと一つ咳をした。
「
姿勢のよい立ち姿で、ぺこりとお辞儀をした。顔を上げたときの笑顔にどきっとする。
「わたしのこと知ってくれた? 柊瑞季くん」
「……何で僕の名前を?」
最初に声をかけてきたときから気になっていたことだった。
彼女の声が大きいからなのか、目立つ容姿のためなのか、ふと気がつくと、遠巻きにこちらの様子を
佐倉さんも気づいたのだろう。
「おなか空かない?」と誘ってきた。
僕は家で事前に食べてきていたのだけれど、「そうだね」と自然に答えていた。
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