第7話 七日目
男の子が眠った後も、私はずっと起きていた。
乾いた風を感じる身体は、初めて感じる眠気があったがそれよりも周囲にいるらしい魔物が気になる。
もし何かの気配を感じたら男の子を担いで逃げなければ。その一念だった。
そうして時は過ぎていき、やがて朝日だけは変わらず大地を照らす。
赤茶けた大地をハッキリと照らし出す太陽はなんだか無情のようにも、逆に慈悲のようにも見える。
空は、青ではなく罅割れたような灰色だった。雲はないのに色味を失ったかのような無味乾燥という言葉が当てはまる素っ気ない色合いに、これでは確かにあの石の色に驚いても無理はないと思った。
身体を丸めていた男の子が、もぞりと動いた。
「ぁ……」
掠れた声だった。
昨日よりも明らかに力が無い。寝起きだからという理由だけではないだろう。
ほとんど何も口にしていない状態で五日目。むしろ、よく保っている方なのかもしれない。
どうする?
戻る?
見つかれば殺される可能性が高いが。
しかしせめてあの水があれば……多少苦しみを和らげる事は出来るかもしれない……
逆に、見つかり殺されたら……その後どうなるか……
しばらく私は悩み、決めた。
行くか。
男の子を肩に担ごうとすると、首を横に小さく振られた。
「もぅ……ぃぃ」
『よくないです』
間髪入れず、私は言って担ぎ上げる。
『あなたがどう思おうと、私は諦めません』
「…な……で」
『なんで? だってあなた、子供ですよ?
子供が諦めたら駄目……いえ、子供が諦める姿を私は見たくありません。
あなたには突き合わせてしまうので、迷惑でしょうが……ま、そこは出会っちゃったのを恨むなりなんなりしてください』
歩き出しながら言うと、男の子は小さくため息をついたようだった。
抵抗する気力はないようで、大人しく担がれている。
昨日走ってきた道を戻っていくと、あるところから少しだけ地面に生える草が見えていた。やせ細ったいまにも折れそうな木にも、申し訳程度の葉が見える。
遠目に、人の影が見えて距離を取ったまま迂回するように移動した。
細い道を上り、崖の上へといくと洞窟は変わらずそこにあった。
奥に入っていくと、私が隠そうとした霞のようなものがそのままそこにあった。どうやら男達は私たちに気を取られて御遺体を見つけていなかったようだ。少しほっとした。
男の子を奥の壁際に横たえ、水を手のひらに溜めて運ぶ。
それを十回は繰り返したころ、男の子は少しだけ気力が出たのか身体を起こして岩にもたれた。
だが残念なことに、ゾワゾワとした感覚がして人が来るのがわかった。
男の子を岩陰に隠し、私は男の子が最初に持っていた木の棒を手にした。
ここで逃げても、もう男の子はもたない。
じゃあせめて、あんなカラカラで何もない場所でなく、男の子が大事に思っていたこの場所で、静かに逝かせてあげたかった。せめて、私に出来るのはそのぐらいだろう。諦めて欲しくないけど、諦めたくないけど、もう、出来る事がない。
ブンと木の棒を振って感触を確かめた時、通路の方から松明を持った男達が現れた。
「ぁ……なんだ? お前、誰だ?」
先頭を歩いていた男が足を止め、私を見た。今の私では驚かす事も出来ないだろう。男の子の反応からして、人に見えるのだろうから。
『さあ。誰でしょう?』
「どういう事だ? 他の国に生きてた奴がいたのか?」
『さあ。どうでしょう?』
まさか、そんな、と言い合う三人の男達。
『それで、ここにどのような御用なのでしょうか?』
「お前、どこからきたんだ」
『さあ。知りませんよそんな事』
「ああ? ふざけてるのか?」
一人が声を低くするが、もう怖いとは思わなかった。
ただ酷く悲しかった。
『水がない。
食べ物がない。
住む土地がない。
ないない尽くし』
この世界の人は、少なくとも私などよりも強靭な精神を持っている。
こんな絶望的な世界でそれでも生きようと藻掻いているのだから。
『全て満たされていたら、きっとあなたは
男達の手には、切れ味の悪そうな鉈のようなものがあった。
『いっそ清々しい程に生に貪欲で、それでこそ生物らしいのかもしれません』
「さっきから何いってんだよ!」
『戯言です』
時間稼ぎとも、無駄な悪あがきとも言うかもしれない。
「魔物か……?」
別の男が呟く。私はそれに首を傾げてほほ笑んで見せた。
『ひょっとすると?』
すると威圧的だった男達が一瞬怯んだ。だがすぐに「そんなわけあるか!」と一人が否定して歩を進めてきた。
「お前、元気そうだな。痩せてもない」
『お腹はすいてませんね。疲れてもいませんし』
何も口にはしていないが。
「どっかに食いもんがあるのか!?」
『いいえ。ありませんよ』
「うそつけ!」
ガツンと頬を殴られて、身体が横に飛んだ。
あの老人のように岩肌にぶつかって、痛みに身体を丸める。
今まで大した感覚が無かったのに、ここでこの痛みはちょっとどうなんだと思ってしまう。たぶん男の子を担ぐ為の代償なのだろうが、結構痛い。
ぐっと髪を掴まれて無理やり引き起こされる。
髪の根本がひきつって痛い。いや、そんなところの感覚までなくてもいいのに。
「言え! どこにある!」
『たとえあったとしても、焼石に水でしょうに……』
思わず憐れむように言ってしまうと、男はカッと顔を赤くして鉈を振り上げた。
切羽詰まった人間は怖いものだなと、全然怖さを感じないくせに考えていると、視界の端に小柄な影が転がり出てきたのが見えて咄嗟に動いた。
持っていた木の棒で男の手を打ち上げて鉈を飛ばし、駆け込んできた男の子を手の無い腕で抱えて距離を取る。
あっと驚いた男達だったが、すぐに色めき立った。
『駄目ですよ。どうして出て来たんですか』
「はなせっ俺だって……」
じりじりと男の子を抱えたまま、男達から目を離さず後ろに下がる。
「やっぱりここに戻ってたのか!」
「お前らがやる事やらないからこんな世界のまんまなんだろうが! 出来ないなら死ねよ!」
言葉って、もっと大事な事に使えるはずなのにな。男達のそれはただただ冷たい刃のようだ。
『いいですか。走れるのなら、走ってください。チャンスは一度です』
「いやだ! 俺だって戦える!」
『いいえ。間合いが違いますから、無理です。ここに連れ戻したのは私です。せめて、これぐらいはさせてください』
「それを言ったらあの時逃げれたのだってお前がいたからだろ!」
手を打たれた男が呻いていたが、やがて反対の手で鉈を拾うとこちらを睨みつけて来た。
来る。
無理やり手の無い腕で男の子を後ろに振り払い、横なぎにくる鉈を上から叩いて速度が落ちたところを足で踏み、返す棒で顎を払う。
「ガッ」
「こいつ!?」
脳震盪を起こして倒れこむ男に、驚いてこちらを見る残りの二人。
向こうが油断していないとこうはいかない。もうこちらの二人は油断しないだろう。
『殴られるとね、痛いんですよ……』
言ったところで止まるとは思えなかったが、そう言わずにはいられない。
人を殴った嫌な感触まであって、気が滅入る。
「二人でいくぞ」
いくぶん冷静な方がもう一人に声をかけ、息を合わせて飛び掛かってきた。
あ、これはさすがに無理だなと思う。
二方向から同時に来られると避けるにもいなすにも難しい。
せめて男の子に行ってと言おうとしたら、男の子が私の前に飛び込んで来た。
『っ!』
喉の奥から悲鳴が漏れる。
棒を手放し、男の子の服を掴んで引き寄せ抱き込む。そのまま身体を丸めて痛みに構えた。
ガィン!
金属が硬質なものにあたる音がした。
『………?』
しかしながら、痛みはやってこなかった。
きつく抱き込む私の腕の中で、もぞもぞと男の子も動いている。
そっと様子を覗ってみると、私たちを水色とエメラルド色の光が包んでいた。
「なんだ……」
「なんだこれ……」
男達も予想外の事態に狼狽えているようだった。
私の腕から力が緩み、男の子はようやく辺りの状況に目をやって固まった。だが、その固まる男の子から光が漏れ出ているような気がする。
『あの、それ』
私が指さす先、こんな時なのに持っていたらしいあの石。それが水面に揺らめくような光を湛えていた。
男の子も光源に気づいて恐る恐る両手で石を持った。
すると、するりと指の間から水のようになって零れ落ちた。
「あ!」
ふぁぁ……
慌てる男の子の声と、小さな声が重なった。
そして私と男の子の間、その雫が垂れたところから暖かな風が広がって包み込んだかと思うと、小さな女の子のようなものがそこに生まれた。
生まれたというか、現れたというか。翡翠のような透き通った髪に、アクアマリンのように明るい青い瞳。幼子に見えるその子は、なんと私の手のひらにも乗りそうなほど小さく、ふわふわとその場に浮いていた。
『あ』
唐突に私は思い出した。
『あぁ。そうでした。はい』
「何言ってるんだ?」
はいはいと頷く私に、怪訝な顔をする男の子。
『すみません。私が、ゆりかごでした』
「は?」
男の子の疑問ももっともだ。いやしかし、こんな幽霊みたいな状態でこちらに来るとは聞いてないし、人型になれる事も聞いてなかったし、想像よりももっと酷い状態の世界だという事も聞いてない。
『ないない尽くしじゃないですか、精霊樹』
「せいれいじゅ?」
訳が分かっていない男の子の頭を撫でる。
埃や汗でほつれてしまってお世辞にも綺麗な髪と言えないが、痛くないようにそっと、ゆっくりと。こう出来る時間はきっと限られているだろうから。
『あなたの一族の役割というか、種を守り芽吹かせるという使命は無事に果たされましたよ。さあ、行きましょうか』
男の子を片手で抱え上げると、小さな女の子は男の子の頭に乗っかった。
まだ寝起きの様子でごしごしと顔をこすっているのがなんとも可愛い。
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