ハッピーエンド・メイカー -物語の終わりに幸福を-

槻白倫

第1話 001

 俺はハッピーエンドが好きだ。その物語が、物語としてどんな酷い結末を迎えようと、最後は皆幸せになれるのなら、俺はそれで良いと思ってしまう。


 だから、結末うんぬんよりも俺にとっては、ハッピーエンドかどうかが重要なのだ。それだけで、どんな物語も好きになれる。


 だから逆に、バッドエンドは嫌いだ。読むだけで、見るだけで、心が暗くなる。


 なぜ人はバッドエンドを求めるのだろうか? まあ、分かることには分かる。物語的にそっちの方が面白い場合もあるからだろう。


 けれど、なぜバッドエンドが面白いと言えるのか? だってそうだろう? 最後に不幸になって何が面白いのだ? 皆幸せハッピーエンドの方が、何万倍も心満たされるし、何万倍も物語として完成されているはずだ。


 だって、ハッピーエンドになった物語の数だけ、幸せがあるということなのだから。


「だからこそ、俺はバッドエンドの物語なんて好きじゃないし、物語として完成されていたとしても、俺は物語として不完全でもハッピーエンドの方が良い! 断然そっちの方が良い!」


 俺が長々と力説すると、隣を歩く学校指定のブレザーに身を包む女子生徒は、興味なさげにふ~んと言う。


「いや、ふ~んて……」


「長いし面倒くさいし。てか、あんたまた外れ引いたの?」


「……ああ。またバッドエンドだった……酷くないか? タイトルが『幸せになる方法』って言うくせに最後がバッドエンドって」


「あぁ……それは酷い……」


 流石に酷いと思ったのか、同意をしてくれる。


 その時、初めて彼女は俺の方を見る。


「まあでも、あんたの言いたいことは分かるけどねー。あたしもハッピーエンドの方が好きだし」


「だろ? そうだろ? やっぱハッピーエンドの方が良いよな? バッドエンドクソ喰らえだよな?」


「そこまで極端じゃないし。あたしは面白けれバッドエンドでもいいけどねぇ」


「なんだよ! 結局面白い方かよ!」


 上げて落とされた!


 肩を落とす俺に、隣にいる彼女――五十鈴涼香(いすず すずか)は呆れたような目で俺の方を見る。


「いや、あんたが極端なだけでしょ? 大体皆面白い方が好きに決まってんじゃん」


「……まあ、そうだけどよ」


「あんたも、面白いと思うから、ハッピーエンドが好きなんじゃないの?」


「あー、微妙に違う。確かにハッピーエンドは好きだけど、中には面白くないと思ったものもある」


 俺がそう言うと、涼香は理解できないと言った顔をする。


「なにそれ? それじゃああんたは、ハッピーエンドなら何でもいいわけ? もしそうだったら全ての作家さんに土下座するべき。あとわたしにアイスを買うべき」


「馬鹿言うな。ハッピーエンドは好きだけど、それだけで全て評価してるわけじゃない。勿論、バッドエンドの作品でも面白いと思ったものはある。けど、それでもやっぱりハッピーエンドが好きなんだ。あと、アイスは買わない」


「結局、好みの問題なわけね。好きなら駄作でも愛せるあんたは、相当物好きだよ。じゃあ、ジュースで勘弁してあげる」


「ま、自分でも得な性格してると思うよ。ハッピーエンドなら何でも好きなんだから。ジュースもアイスも値段的には変わんねぇよ。なんの譲歩にもなってないから却下」


 そんな、なんでもない会話を涼香と交わす。


 ただいま、夏の昼下がり。


 今日は学校が半日で終わり、炎天下の住宅街を滝のような汗を流しながら帰路を歩く。今は一番日が高い真昼間。涼香がアイスとジュースを所望するのも分かる。


「ねー? 夏休みまであと何日?」


「あ? 俺がそんなの数えてるわけねぇだろ。あと六日」


「数えてんじゃん……」


 ジト目を向けてくる涼香。


「止めてくれ。視線だけで湿度が上がりそうだ。ただでさえジメジメしてるのに、これ以上俺の不快指数を上げないでくれ」


「幼馴染の視線を不快指数として数えるなんてちょっと酷いんじゃない? アイスで我慢したげる」


「お前この間同じこと言ってただろ……あと、アイスは買いません」


「……ケチ」


「チビ」


「しりとりすんなし!」


 そう言いながら『ビンタ』をしてくる涼香。痛い。


「お前もしりとりしてんじゃねぇか! てか、行動で表すな! 口で言え口で!」


「は? 口で言ってあんたダメージ受けるの? なにそれとんだドエム」


 確かに、『ビンタ』と口で言われてもダメージは受けない。が――


「お前のその毒舌で絶賛ダメージ受けてるよ……」


 そう言って溜息を吐く。


 こいつは昔からそうだ。他人には行儀良いくせして、俺に対しては遠慮が無い。もう本当に遠慮が無い。どう遠慮が無いかと聞かれれば、いくらでも答えられるが、今はいいだろう。


「んで、今日はどうすんだよ? 昼飯、うちで食ってくのか?」


「あー、うん。作るのめんどいからお願い」


「はいはい。んじゃあ、買い物でもして帰るか」


「アイスも食べたい」


「……はぁ……はいはい」


「やたっ」


 こちらが折れて承諾すると、涼香は小さくガッツポーズをする。


 まあ、アイスアイスと何度も言われれば、この暑さだしこちらもアイスを食べたくなるっていうもんだ。


「今日のお昼はなんですかー?」


「さあ? 気分による」


「じゃあ、冷やし中華だ。今そういう気分でしょ?」


「それはお前の気分だろ?」


「せいかーい! 正解者には、今日のお昼を冷やし中華にする義務を与えまーす! いえーい!」


「権利じゃねぇのかよ! 押しつけがましいな、おい!」


 義務っつったら断れないあれじゃないですか。いらねぇよそんな義務。俺は今日は素麺が良いよ。


「いえーい。冷やし中華―」


 しかし、涼香の中ではお昼が冷やし中華だということはもうすでに決定事項らしい。


 ここで冷やし中華ではなく素麺にでもしたら、涼香はしばらくむくれてしまうだろう。それは大層面倒くさい。


 こりゃあ、昼飯は冷やし中華だな……。


 もはや俺の意見など聞くまいて。うん。知ってる。て言うかいつもそうだし。


 はあ、と溜息を吐くと、丁度太陽に雲がかかったのか、俺達の周囲に影が落ちる。


 けれど、少しも涼しくならない。まあ、当然と言えば当然だが。


 そんなどうでもいい思考を、遮るように、猛烈な違和感が俺を襲う。


 影が、広がってる?


 そこまで考えると、その後は最早反射だった。


 俺は、涼香の襟首を掴むと、思いっきり引っ張り後ろに飛ばす。


「ぐえっ」


 潰れたカエルのような声を上げる涼香。


 しかし、それを気にしている余裕は俺には無い。


 涼香を後ろに飛ばした直後、頭上から衝撃が走る。


 そこで、俺の意識は途切れた。


 なにが起きたか理解できない。けれど、なぜか確信だけはあった。


 俺こと、日野宮叶戸(ひのみや かなと)は、今日この日を持って――――――――――――死んだのだ。





「おっはようございまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっす!!」


「おはようございまずっ!?」


 突然耳元で叫ばれ、条件反射で返事を返しながら跳び起きる。最後に噛んでしまったのはご愛敬だ。寝起きだから許してくれ。


 と言うか、誰だよ!?


 俺は、聞き覚えの無い声の主を捜すために辺りを見渡す。が、そこで違和感に気付く。


「ここ、どこ?」


 そう。俺が寝ていたのは、俺が全く知らない場所であった。


 アンティーク調の調度品が置かれた室内。知識としては知っているが、実際に見たことも無いし、知らないと言うのは適切だろう。


 しかし、本当にここはどこなんだろうか?


「お目覚めかな? 日野宮叶斗くん?」


 どうしたものかと考えていると声をかけられる。その声は、先ほど俺を大声で起こしてくれたクソ野郎の声だ。


 俺は一言文句を言ってやろうと声のした方を向く。


「……あんたなにしとん?」


「なにって、見て分からないかい?」


 声のした方にいたのは、顔が恐ろしいほど整った青年だった。年の頃は、俺より少し上と言ったところだ。


 まあ、それは良い。それは良いのだ。


 隣にいるのが、こちらが恐怖で死んでしまうような異業生物だったり、とてつもなく不細工よりはまだましだ。


 しかし、いる場所が問題だ。男は、できればそこにいて欲しくないと言うところにいたのだ。


 男は、俺の問いにニヒルに笑うと言う。


「添い寝だよ。添い寝。一度やってみたかったんだ」


「今すぐ降りろやクソ野郎がぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」


「何するの!? 乱暴は止めてよ!」


「うるせぇ! なにエロ同人のキャラみたいなこと言ってやがるんだ! いいから降りろ! 俺の添い寝する相手は大分前から決まってんじゃボケェ!!」


 俺は変なボケを入れてくる男を無理矢理ベットから蹴落とす。因みに添い寝をする相手は内緒である。秘中の秘である。


「デジャブッ!?」


「奇妙な呻き声だな……」


 なんだか、顔が良いのに色々残念な男だ。いや、顔が良いだけに余計に残念なのだろう。


 まあ、それはともかくとしてだ。


「あんた誰だ? 俺はなんでここにいる? はよ答えい」


「ううっ……君、容赦ないな……」


 蹴落とされた男は、腰を擦りながら立ち上がる。


 そして、おほんと一つ咳払いをすると、右腕をお腹に添えるように、左腕を軽く広げ、仰々しくお辞儀をする。


「どうもこんにちは。僕は神。よろしく」


 お辞儀の割には自己紹介が軽かった。が、問題はそこじゃない。この男、今なんて言った?


 俺は、確認するように男に問う。


「ペーパー?」


「ノー! ゴッド!」


「後藤? やっぱり日本人か」


「違う! 神! 神様!」


「……えぇ……」


 何とか難聴のふりをして聞き逃してあげようと思ったが、男はしつこく食い下がってくる。そんな男に対して、俺が胡散臭そうな目を向けても、いたしかたないことだろう。


 俺の視線を受けて、男がたじろぐ。


「ぐっ……! き、君、信じてないな?」


「いや、当たり前だろ」


 この世の中のどこに「私は神です」と言われて信じる奴がいるんだ。俺だから良かったものの、そんなこと今どきの女子高生の前で言ってみろ。「神降臨わろりんwww」「マジ受けるwww」「通報しましたwww」って言われるに決まってる。


「いや、それ女子高生と言うより、どちらかと言うと電脳世界にどっぷりつかった某掲示板に住んでる人達の方だと思うんだけど……」


 いやいや、今どきの女子高生なんてこんなもんよ? 俺、女子高生のネトゲ友達に「マジで神でござるぅwww」って言われたことあるよ。


「それ多分ネカマだよね!? 君騙されてるよ!?」


 んなわけあるか! マカネェさんがネカマなわけねぇだろうが!


「いや、逆さに読んで! それ逆さに読んだら直ぐに分かるから!」


 ……まあ、それは置いておいて。


「君現実逃避したね!? 今絶対に分かったよね!?」


 置いておいて!! 正直、なんの証明も無しに神様とか言われても、「アーハン? ペーパー?」ってなるのが落ちだから。


「なんでアメリカかぶれなのさ……。うーん。と言うか、さっきから少しは証明していると思うんだけどな……」


 は? どうやって? 


「えぇ……君のことだから、わざとやってるのかと……。今、君口動かしてないでしょ? それで、どうやって僕とお話ししてるのかな?」


 ……言われてみればそうだ。確かに、俺は口を開いていない。俺が思うだけで、目の前のペーパーと会話ができる。


「誰がペーパーだ」


 つまり! 俺は今!


「テレパシーを覚えたってことだな?」


「あーそうきたかー!」


 顔に手を当てて、天を仰ぐ男。イケメンだと、そんな姿も絵になる。


 ……さて、まあこれくらいでいいだろう。


「冗談はさておきだ。実際これどういうことなんだ?」


「急に真面目になるなぁ……まあいいや。それじゃあ、一から説明しようか」


「冗談でも言ってないと落ち着けねぇよ。急展開過ぎて頭が付いてけねぇんだからよ」


 実を言えば、俺は起きたときから混乱していた。


 俺はちゃんと、俺がここに来る前のことを覚えていた。だから、心が落ち着かなかった。


 だからこそ、あえてふざけることで、いつもの自分を取り戻そうとした。効果があったのか、今は少しだけ落ち着けている。まあ、いつもみたいにふざけることで、自分はいつも通りだと、自分を騙しているだけでもあるのだが、冷静さを取り戻せているのだから悪いことではないだろう。


 それに、テレパシーだのなんだのふざけて言ったが、実際目の前の男が普通ではないことは分かっている。普通の人間が、他人の頭の中を覗けるわけないのだから。


 男は、俺のそんな様子に気付いたのか……いや、もともと全部お見通しだったのだから、気付くも気づかないも無い。


 ともかく、男は俺が聞く姿勢を示したので、話し始める。


「そうだね。それでは起点から話そうか。ぶっちゃけてしまうが、君はここに来る前に死んでいる」


 ……やっぱり、そうか。


「――はずなんだが、その直前で僕がこっちまで引っ張って来た」


「は?」


 男の説明に、半ば諦めとともに納得しかけたが、最後の言葉で諦めも納得も吹き飛んだ。


「え? なに俺死んでないの?」


「うん。ぎりぎり死んでない。つむじに鉄骨触れてるけど死んでないよ」


「ギリッギリだなおい!」


 どんだけギリギリで引っ張ってきたんだよ! それもうほぼ死ぬ直前じゃねぇか!


「いやあ、どこまでぎりぎりを狙えるか頑張ったんだよ~。そしたら死ぬ直前! 凄いよね! 僕ストップウォッチで時間ぴったりに止めるやつできたことないのにさ。まさに奇跡だよ~」


「人の生死をそんな小学生が修学旅行のバスでやるようなゲーム感覚で決めないでくれる!?」


「やけに具体的なツッコミだね~」


 実際にやったしな、小学生の頃。


「まあ、死ぬ死なないは置いておいて」


「いや割と重要だけれども!?」


「置いておいて。さて、それじゃあなんで僕が君をここに呼んだかを話そうか」


 そう言うと、男は今までの柔らかな雰囲気を霧散させ、真面目な表情を見せる。


 そんな男の変化に戸惑いながらも、俺もつられるように表情を引きしめる。自分が死ぬ死なないと言う話も忘れて、男の話を聞かなくてはいけないと思ってしまう。


 男の雰囲気がそうさせるのか、はたまた自称神の権能と言うやつなのかは知らないが、どちらにしろ今の俺には男の話を聞く以外の選択肢が無かった。


「僕が君をここに呼んだのは、君に救ってもらいたい命があるからだ」


「……おいおい。こちとら自分の命でさえ死んだか死んでねぇか微妙なところなんだぜ? ぞんな俺が命を救えんのかよ?」


「さあ? それは僕でも分からない。なにせ、実行に移すのは君なんだ。全ては、君次第だということだ」


「なんだそりゃあ。他人任せかよ」


「ああ、他人任せだ。僕が彼らを救うためには、これしか方法が無い」


 そう言った男は、悔しそうに顔を端整な顔を歪める。


 その顔を見て、俺は何も言えなくなる。冗句交じりの問いかけも、他人任せだと言う男への私憤による糾弾も出せぬほど。少なくとも俺には、その表情が偽りのものだとは思えなかったからだ。


 男は、その表情を少しだけ緩めると、本棚に向かって歩く。


「君は、世界がどういうものだか知っているかい?」


「どういうものって……」


 聞かれ、数秒思案する。


「……えっと、宇宙があって、地球があって、みたいな……?」


「……もっと文学的に言ってくれると期待したのに……」


「悪かったな詩的表現とか苦手で!!」


「ははっ、まあ冗談だよ。実態を知らなきゃそんなもんだよね」


 男は微笑すると、近くにあった一冊の本を抜き出す。そして、パラリと適当なページを開く。


「世界はね、一冊の本なんだ。起承転結も、山も谷も無い、ただ綴られるだけの物語。それが世界だ」


 男の言葉に、俺は少しだけ嫌な想像をして、反射的に噛みついてしまう。


「ってことは何か? 俺達はその本の物語に書かれた通りの行動を今までしてきたってことか?」


 そんなの、ふざけるなと言ってやりたい。自分の選んできたことが物語の筋書きだなんて思いたくないし、その筋書き通りに動かしてきた者がいるのなら、そいつを一発ぶん殴って好きにさせろと言ってやりたい。


 そんな思いもあって、少しばかり怒りの感情を乗せて言うが、男は苦笑を漏らすだけだった。


「それは違うね。この物語の登場人物も、書き手も君達だ。僕らはただ本を綴じて装丁を整えるだけだ。そこから先は、君達で物語を進めるんだ」


 男の説明を聞き、誰かに動かされていたわけでないと知り、安堵する。


「……そっか。わりぃ、当たっちまって」


「いいんだ。そう言う反応をするのは当たり前だ。誰だって、自分の物語を他人に決められたくないだろうしね」


 言いながら、ぱたんと本を閉じ、本棚に戻す。


「僕らは、読者なんだ。君たちの世界を読んで、一喜一憂するだけの読者。ただそれだけで、それ以上になんてなっちゃいけないんだ」


 そう言った男の顔は翳っていて、それだけで、男が何を愁いているのかを察してしまう。俺だって、読書家の端くれだ。少しは、相手が物語を読んで何を感じるかぐらい分かる。

男は何度も世界を読んで、何度も辛い世界を見てきたのだろう。何度も、手が出せるのに、出すことを禁じられたバッドエンドの物語に触れてきたのだろう。


 それは、とても辛いことだろう。どんな悲劇が起ころうとも、どんなに登場人物に感情移入してその登場人物を助けたいと思っても、手を出せないのだから。


 男は、何度も手を触れることの許されない悲劇を目の当たりにしてきたのだ。


 この部屋に本棚は五つある。その全てが天井にくっつくほどの高さで、そして、その全ての棚が本で埋まっていた。


 百を優に超える世界の中で、きっと彼は、幾度となく悲劇を目の当たりにしてきたのだろう。


 俺が本棚を見ていることに気付いたのか、男は微笑を浮かべる。


「ここには、悲劇の物語は無いよ。ここには、僕のお気に入りのハッピーエンドの物語が置いてあるんだ。それ以外は、全部書庫にある」


 男が言った一言に、俺はなぜだかほっとした。


 けれども、ここには無いと言うだけで、その書庫とやらには悲劇に終わった世界があるのだろう。


 そう思うと、その安堵もすぐに消えて行ってしまった。


「……それで、その世界が何だって言うんだ?」


 俺が、誤魔化し混じりにそう言うと、


「……僕たちは、書き手であってはいけない」


「それはもう聞いた。俺達が登場人物兼書き手なんだろう?」


「ああ。そうだ、君達が書き手だ。……けれど、その物語に勝手にペンを入れた者がいる」


 そう言って、男はその綺麗な面を怒りで歪める。


 その憤怒の表情に、知らず、俺は身を引いてしまう。


 そんな俺の様子を見て、男は怒りを少しだけ納める。けれども、その身から溢れ出る憤怒の感情は、未だひしひしと感じ取れる。


「すまない。感情的になってしまった」


「……いや、別にいい。あんたが怒るのも、なんとなくわかるから」


「ありがとう……」


「別に、礼を言われることじゃない。それで、その、他者からペンを入れられた世界ってのは、どうなるんだ?」


 礼を言われた気恥ずかしさから話の先を促す。


「余程のことを加筆されない限り、世界が崩壊してしまうなんてことはない。けれど、確実に道筋がおかしくなる」


 そう言うと、テーブルの上に置いてあった数冊の本の内の二冊を手に取りページを開く。


「こっちが正常な世界の現在のページだ」


 男はそう言いながら右手の本を俺に見せてくる。


 白紙のページにどんどんと虹色に輝く文字が浮かび上がっていく。同じ行に同時に何文字も書き込んでいるような書き込まれ方。恐らく、そこに住む人々一人一人の人生がそこには同時に書き込まれているのだろう。正直、何が書いてあるのか俺には分からないが、俺にはその文字がその世界の人々が生きた証を刻んでいるように見えて、不思議と心が躍った。


 その本は、一度も文字の進みが止まることは無い。そのため、正常に進み続けているのだと理解できる。


「なんだか、綺麗だな」


「うん、僕もそう思うよ。だからこそ、僕はこちらの世界にちょっかいをかけている者を許すことができない」


 そう言って、今度は左手に持った本を見せてくる。


「な、んだよ……これっ!」


 俺はその本を一目見た瞬間からそう呻いた。呻かずにはいられなかった。


 その本は、先ほどの本のように虹色の文字が浮かび上がって来ている。それだけならば正常と言えた。けれど、決定的に正常な世界の本と違うところがあった。


「こんな……こんなの……」


 思わず、口をついて呻くように出てくる。 


 そんな俺に、男が冷静な口調で言う。


「これが、この世界を加筆している者の所業だよ。こんなこと、許されることじゃない」


 そう言った男の言葉を、俺は半ば聞き流していた。それくらい、今の光景は衝撃的であった。


 何者かに加筆された世界は、物語は、紡がれていくと同時に――――血のような色の文字で上書きされていたのだ。


 様々な色を見せてくれる文字が、浮き出た瞬間に赤黒い文字に蹂躙される。俺にはそれが、輝かしい未来を奪われているように見えて仕方が無かった。


 その光景に、知らず心が恐怖を覚える。いや、恐怖だけじゃない。嫌悪感にも似た感情が心中で渦巻く。


「……な、なぁ。これ……どうなってるんだ?」


「どうって?」


「――ッ! 分かってんだろ!! これがどういう現象なのかって訊いてんだよ!」


 男のとぼけたような言葉に俺は苛立って声を荒げる。


 最悪な予想は出来る。けれど、予想である内は答えでは無い。だからこそ、訊ねるのだ。そんなことがあって欲しくなくて。


 しかし、俺のそんな思いなど気にすることも無く、男はきっぱりと言う。


「君の予想通りだよ。今まさに、未来が奪われているところだよ」


 知らず、奥歯を噛みしめる。


 これは怒りだ。それも、今まで抱いてきたどの怒りよりも明確な。


「ふざけんなッ!! なんだよこれ! こんなの、こんなの……ッ!」


 思わず声を荒げてしまう。けど、こんなもの見せられて声を荒げないなんてこと、俺にはできない。


 見てるだけわかる。これはいいものではない。見ているだけで嫌悪感が湧き出てきて、直視できないくらいの恐怖心を湧き上がらせてくるこの光景が、良いもののはずがない。


「こんなの、この世界の人たちの生きた証を否定する行為だ!! こんなことする奴は、最低なクソ野郎だ!!」


 勝手に書き換えられて、無かったことにされる。そんなこと、誰であっても、誰に対しても、行ってはいけない行為だ。


「そうだね。最低な行為だ。絶対に許しちゃいけない」


「だったら! どうにかしろよ! あんた神様なんだろ!?」


「さっきも言った通り、僕はこの世界に干渉できない。しちゃいけないんだ」


「そんなこと言ってる場合かよ! このままじゃこの世界の人々は――」


「そんなことは僕が一番良く分かってる!」


「――ッ!」


 男の怒声で、一気に頭が冷える。


 そうだ、俺に言われるまでも無く、この男は幾度となく悲劇に終わった世界を見てきた。その男が、世界に手を出せるなら、悲劇を無かったことにするはずだ。けれど、そうしないのはその世界の人たちが歩んできたことを否定することになるからだ。


 だからこそ、男は今まで世界に加筆をしてこなかった。


 だからこそ、俺なんかよりも、一番歯痒いのはこの男の方なのだ。


「この世界はもう別の誰かに加筆されてる。いや、ここまで来れば最早改竄だ。それも、世界が壊れかねないほどの改竄だ。実際、この世界は破滅の一途をたどっている。今から僕が修正をしてしまえば、お互いの力が強大過ぎて世界がどんな影響を受けるか分からない。最悪、僕が修正をした瞬間に世界が崩壊する可能性もある。だから、手を出せないんだ」


「……悪い、あんたの気も知らないで……」


「いや、いいよ。これで、僕の方も確信が持てた」


「え?」


 確信? いったい何の?


 唐突に言われたその言葉。なんのつながりも無いその言葉。けれど、男はその声に幾ばくかの希望を乗せているようであった。


 男は、真剣な表情で俺を見ると、頭を下げる。


「君に頼みがある。どうか、改竄された世界を君の手で修正してほしい!」


「は? ………………はあぁぁぁぁぁぁぁああああああっ!?」


 突然のことで数秒頭が付いてこなかったが、言われた言葉を理解すると絶叫を上げる。


 いや、だって! こいつが言ってるのって、要は世界を救ってくれってことだからね? そりゃ驚きもするよ!


「え、いや、なんで俺? と言うか、改竄は出来なんじゃなかったのか!?」


「いや、改竄は当然できない。けれどそれは、僕ら神に限った話だ。だから、君が修正するんだ」


「ん? んん?」


 つまり、どういうこと?


 男の言っている言葉の意味が分からず、俺は混乱する。


 そんな俺を見かねたのか、男は頭を上げる。


「僕たち神からの修正は無理だ。けれど、君くらいの存在が修正を加えるのはぎりぎり問題が無い」


 ん? 今若干ディスられた気がするぞ?


「誤解しないでくれ。君達人間なら、修正できると言う意味だ。別に、君を低く見て言ったわけじゃないよ」


 俺の心境を読み、苦笑しながら言ってくる。


 まあ、別に俺がどういわれようともどうでもいい。元より気分を害しているわけでも無い。


 だから、そのことは置いておいて話を進めることにした。


「それで、俺ならできるって、具体的にはどうするんだ? その本から上書きすればいいのか?」


「いや違う。言ったろ? これは僕が整えた装丁だ。紙も、本を綴じる糸も含めてね」


「あー、つまり?」


「簡単に言えば、パソコンで言うディスプレイなんだ。だから、ここから書き込むことはできない。ソフトウェア、つまり、物語に直接干渉しないといけないんだ」


「もっとわかりやすく!」


「君には、この世界に行って世界を歪める元凶を排除してほしい!」


「分かりやすくて大変結構。で、ごめん。もう一回言ってくんない?」


「君には、この世界に行って世界を歪める元凶を排除してほしい!」


「うん。うん……うん? え、いや、え?」


「君には、この世界に行って世界を歪める元凶を排除してほしい!」


「いや二度も言われりゃあ嫌でも理解するわ! 三回目はいらん! そんなことより! 俺がこの本の世界に入って、元凶を排除するの?」


「ああ」


 ……マジか……。


 見た限り、男は冗談を言っているようには見えない。


 つまりは、本当のことなのだろう。


 言ってしまえば、俺が異世界に行って世界を救う。


 はっ! 笑けてくる! 俺はどんな勇者だっての!


「なあ、それ俺よりもっと適任がいるんじゃないのか?」


「いや、君じゃなきゃダメなんだ」


 男は、即座にそう返してくる。


 俺より強いやつも、俺より頭が良いやつも、俺より度胸があるやつも、それこそごまんといるはずだ。


 そんな中で、どうして俺なのか。俺じゃなきゃいけない理由はなんなのか。


「君が一番適任なんだ。すまないが、理由は言えない。言ってしまえば、君が君のままで世界の修正をできなくなる」


「……つまりは、何も考えずに世界を救え、と?」


「ああ、そう言うことだ」


 ……まったく、買い被りもいいところだし、横暴も過ぎると言うものだ。


 俺はそんな大きなことができるほど大層な人間ではない。それは、自他ともに認めるところだ。


 けれども、俺を選んでくれたと言うのなら、こんなふうに真剣に頼まれちゃ、目の前にバッドエンドに向かう物語があるって言うんじゃ――――


「分かった。俺が修正する」


 やるしか、無いじゃないか。


「ありがとう! 君ならそう言ってくれると信じてたよ!」


 男はそう言うと、嬉しそうに顔を綻ばせた。


 その顔を見て、俺はやっと理解する。


 ああ、そうか。こいつは、俺と同じなんだ。バッドエンドの物語を、物語の外から悔しく思いながらも見ているしかない。今まで見ていることしかできなかった俺と同じなのだ。


 規模は違えど、俺と同類だから分かる。


 この男は俺がここに来るまでの間、相当悔しい思いをしてきたのだろう。今の晴れやかな表情を見ればどれほど苦心してこの時を待ったのかがわかる。


「いいぜ、やってやるさ。どんなやつより俺が一番適任だってんなら、やってやる。何より俺は――」


 そう、どんな理由があっても、それは何より最初に来る。どんな時でも変えられない俺の性分だ。


「バッドエンドが大っ嫌いでね」


 俺の言葉に、男はふっと柔らかく微笑む。


「僕も同じ気持ちだよ」


「そうか。同士がいたようで良かった」


 俺は今まで腰かけていたベッドから立ち上がる。


「心の準備は?」


「できてる。いつでも良いぜ」


「そうか。では早速」


 男はそう言うと、加筆された本の開いたページを俺の方に向けてくる。


「諸々の道具はこちらで工面する。けれど、世界基準で不自然にならない程度しか渡せない。すまない」


 そう言うと、虚空から大きめのカバンと一振りの剣が出現する。普通なら驚くところなのだろうが、どうやらびっくり体験にだいぶ慣れてしまったらしい。


「いいさ。あるのとないのじゃ大分違う。ありがとな」


 そう言って、俺は道具を受け取る。


「礼を言うのはこっちだよ。本当にありがとう。……それじゃあ、本に触れてくれ。そうすれば、後は僕がこの世界に君を飛ばす」


「ああ」


 俺は、言われた通りに本に触れる。


 正直、この世界のことも気になるが、俺自身のことも気になる。俺はこれからどうなるのか、向こうの世界はどうなったのか、涼香はどうなったのか。


 気になりだしたらきりがない。


 けれども、こいつが何も言ってこないということは大丈夫なのだろう。こいつが、俺に大事なことを隠しているようには思えない。


 だから、今は目の前のことだけを考える。


 男は、一度目を閉じるとゆっくりとその瞼を持ち上げる。


「頼んだよ、叶斗」


「……ああ。任せろ」


 名前を呼ばれて、少しだけ驚く。けれど、少しだけ自信ありげに頷いて見せれば、男は優し気に笑った。


「じゃあ、行ってらっしゃい」


 男がそう言うと、突然、意識を保てなくなる。


 段々と遠のいていく意識に抗わず、俺はそっと目を閉じた。





 叶斗が向こうの世界に行ったのを見送ると、僕はそっと本を閉じる。


「頼んだよ、叶斗。君の旅の結末が、あの子の旅の結末に直結する」


 僕は、叶斗が入った世界を、そっと机の上に置く。


 今頃、叶斗は何をしているだろうか。


 こちらの時間とあちらの時間は進みが違う。僕には一秒でも、あちらでは一日経っていたりもする。それは、物語によってまちまちだ。


 僕は一冊の本を手に取る。


 その本は厳重に封がされており、開けることが叶わない。だから、中身を見ることができない。けれど、それで良い。この本は、今はそれで良いのだ。


 つい、本を握る手に力がこもってしまう。


 しかしそれも無理からぬことだ。これでやっと、めどが立ったのだから。


「これで登場人物は出そろった。お前の好きには絶対にさせないぞ」

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