トロリトロトロ

吉田ヒグラシ

トロリトロトロ

 手のひらをストーブにかざす。私は今日こそやってやろうと思う。夫には、もう我慢ならなかった。今朝だって、私が腹痛で畳に寝転がっていたら、背中を蹴飛ばしておいて、「ああ」などと言う。わざとでなければ、謝らなくても許されると思っているのだ。この前の土曜日だって、私が掃除機をかけているのに、進路に寝転がって動こうとしない。「どいて」と言うと、仰向けのまま「ああ」などと言う。実際にはどかなくても、返事さえしておけば良いと思っているのだ。先週も、先月も、そのまた前も、それこそ挙げればきりがないが、とにかく夫には私へのたっとびが足りない。だから、手を火傷して、使い物にならなくする。そして夫に代わりに家事をやってもらうのだ。私が家のことにどれほど貢献しているかを、今一度身をもって知ってもらう必要があった。

 居間は、片付けてまだ一週間も経っていないというのに、開いた本やティッシュ、綿棒にボールペン、菓子の袋やら数日分の新聞やらで散らかっていた。ストーブの前と、卓袱台の周りに置かれたふたつの座布団が、唯一の足の踏み場と言って良かった。至近距離から私の手のひらへ発せられる熱波は、もう温かいを通り越して、かなり熱くなっていた。ジリジリと熱されるままにしていると、突然寒気を感じてブルルッと震えた。熱いのに寒いとは、何ともおかしな話だ。熱を一身に受けて、高温になった私の手のひらからは、煙が上がってきていた。白い煙がモクモクと、天井へ向かってゆく。それがあまりにすごい量だから、身構えてしまう。火傷をする前に、呼吸ができなくなっては困るのだ。そういえば、火災報知器をつけるとか何とかいう話は、結局どうなったのだっけか。私が一つ咳込むと、手のひらから上る煙もボワンと動いた。

 手のひらは熱いけれど、それ以上に煙の広がるスピードの著しさが、私を次第に冷静にさせた。やめておけば良かったかもしれない。わざわざ自ら火傷なんて負わずに、我慢して家事をこなしたほうが良かったのかもしれない。今までだって、そうやってきたのだから。雑多な物が散乱した居間を眺めながら、ぼんやりと後悔し始めた。そうしている間にも、煙は天井にそって水平方向に広がってゆく。

「何をやってる」

 いつの間に帰ってきたのか、夫が隣にいた。私と同じように、手のひらを温めている。

「そっちこそ、何やってるの」

「温かいな」

「今に熱くなるよ」

「お前、溶けてるぞ」

 よく見てみれば、手のひらは溶けだしていた。トロリと垂れる手のひらは、さすがに熱を持って真っ赤である。

「ねえ、もうやめたほうが良いよ。私みたいに溶けちゃうから」

「構わない」

 私は驚いて、夫の顔を見た。

「構わないって、そんな」

「お前が溶けるなら、俺も溶ける」

 私の手はもう指の原形を失って、溶けた分が畳に垂れている。

「ヒロシ……」

 夫の手のひらも、すでに真っ赤になっていた。

「カナコ」

 ふたりの手のひらから、白い煙がモクモクモクと上がっていた。私が手首までとろけてしまうと、夫も少し遅れて同じように柔くなった。居間に煙が充満してきた。畳の上にトロトロと、私たちの手が、腕が、肩が溶け落ちて溜まってゆく。

 胴が溶けると、私たちの首は支えを失って沈みだした。当の首や顔からも、煙が立ち上りはじめた。顔が半分なくなった頃に、私たちは畳の上で顔を見合わせる格好になった。当たり前のことではあるが、出会った頃に比べると、額のシワがずいぶんと増えていた。

「ヒロシ」

「カナコ」

 トロトロになった私たちは、畳の上で渾然一体となって混じりあった。一度混ざると、もっと混ざり方は激しくなった。もうどちらが私でどちらが夫なのか分からないから、分かろうとするのを諦める他になかった。

 誰が明日の家事をやるのだろう、という不安が頭をよぎったけれど、どちらがどちらか分からなくなってしまった今、やるのはどちらでも良いのではないかとも思った。溶けやめる方法が見つからないまま、トロトロトロトロトロトロと、私たちは散らかった居間でいつまでも溶け合っていた。

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トロリトロトロ 吉田ヒグラシ @yoshida-higurashi

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