平 遊

第1話 クローバー

丘。

いつでも、心地よい風が吹いている、小高い丘。

頂上に立ち、正面から風を受けながら、大きく息を吸い込む。

懐かしい。

切ない。

そんな想いが呼び覚まされる場所。

そしてここは、僕がある1人の年上の女性に出会った場所。

その女性は、いつも悲しげな瞳をして、儚い笑顔を浮かべていた。

今にも泣き出しそうな顔をして、遠くの景色を眺めていた。


気づくと自然に、この丘へと足が向いていた。

女性がこの丘に姿を現す前から、僕はこの丘が好きだった。

好き-いや。

今から考えれば、僕はこの丘に呼ばれていたのかもしれない。

僕も、彼女も。

彼女の姿をひと目見た時から、僕は恋に落ちていた。

彼女の姿を見つける度に、胸が弾むようなくすぐったさと、胸が締め付けられるような切なさを感じた。

いつも、遠くからそっと眺めているだけだった彼女の側に、初めて歩み寄ったのは、彼女がこの丘に姿を現してから数ヶ月が経った頃。

遠目にもはっきりと分かった、細かく震える細い肩。

白いレースのハンカチを握りしめ、彼女は泣いていた。

すぐ足下に見つけた、四つ葉のクローバー。

知らず、足が動いていた、彼女の元へ。

傍らに跪き、そっとクローバーを差し出すと、彼女は驚いたように濡れた瞳で僕を見上げ、ふわりと微笑んでくれた。

「ありがとう。」

初めて聞いた、彼女の声。彼女の言葉。

それ以上の言葉は、必要無かった。

僕は、彼女の隣に腰を下ろし、肩を並べて眼下の景色を眺めた。

彼女も。

僕の差し出したクローバーを大切そうに胸に押し抱き、涙に濡れた穏やかな瞳で遠くの空を眺めていた。


丘での逢瀬。

肩を寄せ合い、同じ風を感じ。

同じ景色を見て、同じ時を過ごした。

丘の上で触れ合わせた、彼女の肌の熱さは、今でも鮮明に思い起こすことができる。

この腕に、この体に。

記憶された、彼女の細い体。

でも、僕は何も知らなかった。

彼女がどこから来ているのか。

彼女がどこへ帰るのか。

彼女の、名前さえも。

 

彼女と僕の間には、会話は殆ど無かった。

目と目が合えば、すべてが通じていた。少なくとも、僕はそう思っていた。

翳った微笑みは彼女の辛さ。

柔らかな笑顔は、彼女の喜び。

黒目がちな瞳が、彼女のすべてを僕に伝えている。

そんな気がしていた。

だから、記憶にある限り、彼女との時間で交わした言葉は、ふたつだけ。

「ありがとう。」

「さようなら。」

最後の言葉と共に、彼女から手渡された四つ葉のクローバーは、今も僕の手元にある。

押し花にして、綺麗に象られた、幸せのクローバー。

いつまでも色あせない、彼女との思い出のように。


青年と呼ぶにはまだ年若い、少年時代。

この場所、この丘で。  

僕が、初めて恋した女性。

身も心も捧げた、初めての女性。

けれど。

ある日彼女は、僕の手にクローバーを残して去っていった。

左手の薬指の指輪が鈍く光り、僕の瞳を一瞬、差し貫いて。


あれから、十数年。

僕はまた、たった独り、ここにいる。


僕の家はもう、この町には無い。

けれど、何とはなしに、ふらりと足が向いてしまった。

もう、ここに彼女の姿は無いけれど、それでも僕はこの丘が好きだ。

時の流れを感じさせない程に、何一つ変わっていない、この丘。

振り向けば、彼女がそこに立っていそうな気さえする。

彼女がそこに-

ふいに、視界を横切る小さな人影。

気づいて僕は、我が目を疑った。

記憶が、逆流を始める。

丘の上に立ち、細い肩を震わせて泣いている少女に、彼女の姿が重なる。

気づくと僕は、少女の傍らに立ち、手にしたクローバーを差し出していた。

彼女との、思い出のクローバーを。

驚いたように、少女が顔を上げる。

 

ふわりと微笑んだその顔は、紛れもなく-


丘。

いつでも、心地よい風が吹いている、小高い丘。

微風に包まれ、僕は再び、恋に落ちた。

彼女によく似た、名も知らぬ少女と。

いつか彼女も、僕の前から去ってゆくのだろうか。

「さようなら」の言葉と、クローバーを残して。

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