彼女のイミテーション・ラブ。

三編柚菜

彼女のイミテーション・ラブ。

 1


文乃ふみのってさ、たまによね」


 大学の女友達に指摘されたことが、どうしてだか忘れられない。

 彼女と知り合ったのは大学からで、だから私という人間を推し量るには早すぎるのではと思うが、彼女の言葉は古傷のようでいて、その言葉が過ぎるたびに心臓が手で握られるような痛さを放つ。


 堅い? 堅いって、なにが?


 私──真琴まこと文乃は、(自分でいうのは恥ずかしいけれど)今日こんにちまでおおらかで物腰柔らかく生きていたつもりだ。

 大学で所属している文学サークルで企画会議を行う際は我を貫こうとはせずその場で適任な案を出すし、友人から相談を受けたら一つの道を提示するのではなく複数の道を作る。

 あるいは全く別の意味合いを孕んでいたのだろうか?


 堅いというのは物の見方や性格ではなく、たとえば──。



「──文也ふみやはどう思う? 私、どこか堅いかな」


 大学近くのファミレスにて。 私はアイスコーヒーに刺さったストローを回しながら、男友達の文也に訊いてみた。 ぼんやりと過去の回想をしながら、何気なく。


「俺への相談って、それのこと?」


 視線をもたげて彼の表情を一瞥すると、窓から差し込む陽の光に照らされた文也は苦笑混じりに微笑んでいた。

 なんだか馬鹿にされたような気がして、私は片頬を膨らます。


「ずっと気になってるんだもん。 文也はさ、私のこと堅いって思ったことあるの」

「そうだなあ……」

「真剣な相談なんだからね。 私じゃ自問自答の堂々巡りで判断できないし、文也はセカンドオピニオンなんだよ」


 私の真剣さが伝わったのか、文也は腕を組んで思案顔をした。 彼の前に置かれているホットコーヒーは、既に冷め切っていた。


「そんな難しいかな」

「文乃に的確な答えを出してあげるのは、ある意味で難しいのかもしれないな。 ただ、分かりやすく噛み砕いて言えば文乃はマル──」

「あれ、文也と文乃じゃない! こんなところで何やってるの」


 と、私と文也の逢瀬おうせに割り込んだ明るい声。

 会話を中断して二人揃って声の方を見遣ると、件の悩みの発起人である女友達──舞香まいかが、こちらに歩み寄ってくるところであった。

 肩にかかるほどの栗色の髪を内側にウェーブさせ、名前の通り、なにか香水の香りを漂わせている。 彼女もまた私たちと同じ文学サークルの一人だ。

 一見して文学とは無縁そうなのに、彼女の描き出す世界は純粋清廉な恋愛小説だから面白い。 彼女もまた文章中と現実とで人相が変わるのだ。 私はそんな舞香の人柄を好んではいるのだけれど……。


 と、私の心臓がさざめいた。


 舞香は「ついでだし、あたしも一緒していい?」と告げて、文也の隣に腰を下ろした。 鼻先を甘い香りが掠めた。

 最近、舞香は何かと文也にベタついている。 ような気がする。 ほんの少し、怖いと思うくらいに。

 水を出しに来たウェイトレスにいつもと同じココアを注文した舞香は、改めて私たちを見比べ、


「ひょっとしてサークルの企画会議の延長戦でもやってたのかな」


 たしかに、テーブルの上にはA4サイズの用紙が数枚広げられている。 次回の文芸フリマに出版するアンソロジーについて、あれこれ考えていたのだ。 そうして、思考で煮詰まった頭を休憩させる雑談の中で(きっかけは忘れたけれど)私の相談が生まれたのである。


 舞香の乱入により文也は本来の目的を思い出したのか、「なかなか良いのが決まらなくて」と眉を八の字にして首筋を掻いた。

 私の相談が断ち切られてしまったのは不服だったけれど、ここは潔く諦めるしかない。


「あ、そういやさ」舞香は届いたココアをちびりと舐めるように飲んでから、私と文也の顔を交互に見た。 「気を付けたほうが良いよ」

「何を」と、訝しんだ声で文也。

「最近、大学構内で物騒なこと起きてるじゃん。 ……特に、窃盗事件とか」

「あー」


 彼が頷き、私も頷く。

 たしかに、大学構内に設置されているロッカーが、何者かによって荒らされる事件が何回か立て続いている。 大学側は警察に事を伝えているそうで、私たちにも注意勧告がなされていた。

 ロッカーは全て番号で割り振られているので、特定の誰かではなく無作為に被害を与えていると見られている。

 果たして犯人は捕まるのだろうか?


「にしても」私は舞香の提供した話題を不思議に思いつつ言葉を継いだ。 「今それを言うの」

「ほら、窃盗犯に便乗して企画会議の内容が紛失したらまずいでしょ」舞香はさもありなんといった様子だ。 「文芸フリマはサークル内の他の班も熱を上げているわけだし、自分たちの利益を獲得するために他者を引き摺り下ろそうとする輩がいてもおかしくない」


 ごもっともである。

 私はアイスコーヒーを一口飲んだ。


「だからせめて、あたしたちだけでも自分の使っているロッカーは施錠確認ちゃんとしようね。 さ、企画会議再開させよ」


 舞香がA4用紙の一枚を手元に引き寄せて、率先的にあれこれと意見を出し始める。 相談を掘り返す空気ではなくなったので、私は気がかりを意識の隅へ押しやった。


「あたしたちの企画命題は “本との出会い” だから、普段から読書しない若者に意見を頂戴する必要があるわね」


 舞香の真剣な発言から、私は “出会い” の単語を抜き取った。

 あの頃にはもう、桜も散り始めていたっけ。

 用紙に落とした視線を文也にやって、今年の四月のことを脳裡に炙った。

 記憶に生きる文也は、いま舞香に向けている屈託のない笑顔と同じ笑顔を浮かべていた。


 ※ ※ ※


 私と文也は、大学の文学サークルで出会った。

 とはいえ、アニメやドラマのような劇的な出会いではなく、なんとも華のない出会いだったことを記憶している。


 あの日、私は大学構内で迷っていた。


 目当てである文学サークルはどこにあるのか。 入学数日で気心の知れた友人を作れるわけもなく、大学構内の見取り図を把握しているわけでもなく、私はたった一人ジャングルに放り込まれた気分で右往左往していた。

 結果としてサークルの拠点──構内二階はどん詰まりにある講義室(サークルメンバーには “文屋” と呼ばれている)──を見つけられたものの、最後の一押しを躊躇っていた。 なぜなら、活気あふれる大学には似つかわしくない森閑とした空気が辺りに漂っていたからだ。


 果たして人はいるんだろうか?

 よもやとっくにサークルは消滅していて、ただのがらんどうが鎮座しているのではないか?


 そうした不安が顔をもたげてしまい、文屋の前方にある扉をノックできずにいた。 入学早々恥をかきたくないという、謎の矜持きょうじも手伝っていたのだ。

 そんなとき、


「ひょっとして、サークルの関係者ですか」


 すっと耳に透き通った男性の声。 思いがけないことに私は、情けなくも頓狂な声を出して背後を振り返った。

 薄暗い廊下の先。 未だ垢抜けない顔で立っていたのが、文也だったわけである。

 後から聞いた話によれば、どうやら文也も迷っていたらしい。 あまつさえ新入生の顔触れを知っているわけもなく、私をサークル関係者だと勘違いしたそう。

 だから、そう。 文也にとって私とのファーストコンタクトは、誰よりも印象強く残ったのだ。


「同じ迷い者同士、仲良くしましょうか」


 彼はそう言って笑っていた。 私も笑い返したけれど、頭の隅では落胆もしていた。

 それまでの人生、私は恋愛と程遠い日々を重ねており、良くて親友止まりの男友達しか作ってこれなかった。 彼氏なんてもっての外。 だから文也との関係も、例に違わないと思っていた。


 ※


「文乃はさ、どうして文也と距離取ってるの?」


 一度、舞香にそんなことを訊かれたことがある。


「どうしてって……うーん。 過去を顧みてっていう理由かな。 どうせ私は、親友以上になる男友達を作れないからさ。」

「そうなの? まあ、無理に距離を縮めろとはあたしは言わないけど」

「もちろん彼が嫌いってわけじゃないよ? ただ、その、うん。 舞香は気にしないで」

「……分かった。 ごめんね、お節介だったね」


 そこで私はちゃんと笑えていられただろうか。

 文也とは距離を置きたい。 容姿も仕草も私の好みだけど、過去の経験が鎖となっている。 私には到底無理だ。 だからこうしていればいつか、文也の方からも近付かなくなるだろう。


 そう思っていたのに、文也は私の意思に反したのだ。


 サークルで顔を合わせると積極的に会話をしてくれるし、一緒にファミレスで食事を摂るときも爽やかな笑顔を向けてくれるし、帰り道も一緒に電車に乗ってくれたし……。


 するとやがて、本当の気持ち(文也が好きだ)を封じて文也と接せられなくなった。 彼を前にするとつい口に出してしまいかねなかった。

 一度真剣に考えたことがある。

 もしかすると文也なら、過去の全てを薙ぎ払ってくれるかもしれない。 他の男性と恋人関係にまでならなかったのは、単純に運命ではなかったからなのかもしれない。 全ては文也と出会うための布石だったのでは───。


 そう考えていたときにを聞いてしまったものだから、余計に私は背中を押された気分になったのだ。

 たしか、大学に併設されている図書館でのことだった。

 私が窓側のよく陽の当たる席で講義の履修ノートを作成していたとき、周りの利用者にはばかってひそひそと会話している女性の声が耳朶に流れ込んできたのだ。

 その声に聞き覚えがあったのは、同じサークルに所属している同級生だったから。 この図書館は専ら、“第二の文屋” として利用されることもある。


「……そうなの? やっぱり、あの二人」

「らしいの。 最近、すごく仲良さそうでしょう。 文也くんもきっと気があるのよ。 ただ、文乃さんは気付いてるのかな……」

「どうなんだろうね。 ひょっとしたら気付いてないのかもしれないわ。 それにしても……」

「いじらしいわよね。 もう早いところくっつけば良いのにって」

「さすが純愛小説を愛しているアンタなだけあるわ。 ま、かく言うわたしも同じなんだけどさ……」


 それきり会話は聞こえなくなった。 なにやら用事を思い出したらしい彼女らが、席を離れてしまったためだ。

 私は聞こえてしまった(或いは聞こうとした)会話を反芻しながら、右手のシャープペンシルをくるくる回す。


 ──ああ、やっぱり文也は私のことを!


 自然と口許が緩んだ。 肌に当たる陽光はさしずめ、神に捧ぐ讃美歌のようである。 私の胸裡はとてもくすぐったく、そして昂りを滲ませていた。

 まさか今この歳になって両想いの関係性を築けるとは、いったい誰が予想できただろう。


「そっか……私と、文也は」


 小声で呟いて広がり始める喜びを噛み締める。

 この日はもう、私はノートをまとめる余裕なんて無くて、すぐさま図書館を出るとスキップしたい足取りで駅まで向かった。

 帰りの電車を待つ間、私の頭の中は文也に対して我慢していた感情で溢れかえっていた。 文也の声や、笑顔や、仕草が、シャンデリアの明かりに煌々と灯されているかのように浮かぶ。 それだけ私は、無意識的に彼への好意を膨らませ続けていたのだ。

 暴走しているな、と自覚はあるけれど、少しぐらいは良いじゃないと自分を許容する。


 なぜって、文也は、私の運命の人なのだから──。


 ※ ※ ※


「──で、焼き担当は文乃で……って、文乃。 あたしの話聞こえてる?」


 舞香の、戸惑いと呆れを綯交ぜにした声で、私は文也と出会った過去から現実へ引き戻された。 いつの間にか企画会議は終わっていて、今は近々サークルで催される親睦会(という名のバーベキュー)について話し合われているらしかった。

 文也と舞香の視線が痛い。


「あ、ああ、うん! 聞こえてた。 任せてよ!」

「んもう、ぼうっとしちゃって。 今から当日忘れ物しそうで怖い」

「大丈夫、大丈夫」


 私は笑って誤魔化し、残っていたアイスコーヒーを全て飲み干した。 家に帰ったら必要な物をリストアップしておこう。



「それじゃあ、また明日ね」


 企画会議を終えた頃にはすっかり陽も沈みかけていて、辺りは燃えるような紅色に染まっていた。

 一人暮らしをしているアパートの位置関係上、電車を降りた駅前で舞香と別れた私たちは、前方に長く伸びる影を見ながら帰路を歩いていた。

 会話の無い気不味さから逃れようと、私は文也に思い切って訊く。 ずばり、彼の意中にある異性の存在を。


「文也は、さ」

「うん」

「……その、好きな人とか、いるの」

「え?」

「あのっ、えっと、なんとなく気になってさ! ごめん、突然すぎるよね」


 口から乾いた笑いをこぼして、奇妙な空気になりかけたのを執り成そうとした。 どうせ答えは一つなのだし、無理に会話を引き伸ばすつもりはなかった。 のだが、


「好きな人は、いるよ。 でもね、同時に困ったこともあるんだ」

「困ったこと?」

「どう表現するのが適当かな。 ああ、現物を見てくれた方が早いか」


 言って文也は立ち止まり、肩に担いでいた鞄から一枚の封筒を抜き出した。


「これなんだけど、見覚えあるかな」

「ちょっと見せて」


 文也の手から封筒を抜き取り、私はそれをまじまじと観察する。 何の飾りっけもない、A5サイズの茶封筒だ。 宛名には文也の名が記されているが、差出人の表記は無い。


「見覚えはないけど……。 いつ貰ったの」

「いつ、は断定できないんだ。 気付いたら鞄に入っていてさ」

「へえ。 何が書いてあるのか、見ても?」

「良いよ」


 私は封筒から折り畳まれた便箋を出し、書き連ねられている文章を斜め読みした。


『突然のお手紙、ごめんなさい。 だけどもう、伝えずにはいられないのです。

 私はあなたに恋をしています。

 初めて己の感情と向き合ったのはいつだったでしょうか。 とかく、日々の生活の中でいつの間にかあなたを視線で追うようになっていました。

 さすがに直接的な言葉を口で伝えるのは恥ずかしいので、こうして文章にしたためている所存です。 多分あなたは、私が普段からあなたに向けている恋心には微塵も気付いていないでしょう。

 それがとても苦しくて、だけど諦念を抱けなくて……。

 お返事を頂けるとは思いません。 ですが先に書き上げた通り、想いをどうしても伝えたくて、お手紙を記しました。』


 私は文也に視線を投げて、不穏な声を漏らす。


「ぱっと見、恋文よね」

「そう、なんだけど。 文乃に俺の言わんとすること、伝わってるかな」

「ええ。 なんというか、流麗な文字並びなんだけど狂気じみてる。 心当たりはあるわけ?」

「あったら相談なんてしないよ。 文乃の目から見てさ、誰か心当たりないかな」


 私にそれを訊くのか。


「その前に、私の質問にもう少し詳しく答えてよ。 好きな人に告白はするつもりなの?」


 私は手紙を文也に返して、歩みを再開させた。

 

「俺はまだその人に想いは告げられないんだ。 というのも、もっと関係を深めてからじゃないと。 それに雰囲気も大事だろう」

「そ、そうなんだ」


 トク、トク、トク、と胸が小さく疼いた。

 もっと、関係を深めてからじゃないと。


 果たしていつになるのだろう?


 私は今すぐに想いを告げたくなった。

 それでも自制心を働かせたのは、私もまた彼と同じで、今より親交を深めた上で関係を発展させたいからだ。 他人ひとのことは言えない。

 その間、どうか彼の想いの方向性が変わりませんように……。


「で、文乃は手紙の主に心当たりありそう?」


 さっと横に並んだ文也に訊かれ、私は考えた。

 人の形を成していた影はすっかり地面に溶け込んで、二人が一つになったように見えた。


「文言的にさ、件の女の子──きっと異性で間違いない──は、文也の近くにいる子よね」

「なるほど?」

「ほら、『日々の生活の中でいつの間にかあなたを視線で追うようになって』ってあったじゃない。 文也から遠い存在だと、日々の生活の中で視線で追うなんて無理だと思う。 中学高校ならさにあらず大学は人も多いわけだし、文也の近くにいるからこそ可能なのよ」

「本当は遠い存在だけど、敢えて近くにいることを匂わせるために書いた、とかは?」

「そんなことして何の意味があるのよ。 そも、本当に文也から遠い存在なのだとしたら、のは難しくないかしら。 特に今は窃盗事件も発生しているから、みんな注意してる。 それと逐一行動を把握しているとも考えにくいし。 やっぱり、犯人は近くにいるのよ」

「犯人……は、文学サークルの子なのかな」

「あり得ない話ではないよね。 むしろ一番あり得る話かも。 手紙の他に、何か変わったことはあった?」

「さあ。 でもひょっとしたら俺が気付いてないだけで、あるのかもしれない」


 現状を不安がっているのかそうでないのか、はっきりしない物言いだ。


「とかく、もう少し周りに注意して行動した方が良いよ。 文也の何気ない言動が、相手にとっては冷たくあしらってるように見えてるかも知れない」

「まるで差出人の子が俺に危害を加えかねないって言いたそうだな」

「恋に盲目になってると危なくなる人はいるもんだよ」

「そうかそうか。 ん、じゃあ文乃の忠告をしかと受け止めておくよ」


 ちょうどそこで文也のアパートが右手に見えた。

 もっと彼と一緒な時間を過ごしていたかったけれど、仕方がない。 私は改めて「注意してよね」と釘を刺して文也に手を振って別れた。

 どこまでも太平楽な構えでいることに嫌な予感を覚えながら、私は街灯の無い残りの帰路を歩いた。


 そして翌週、文也の元に立て続けに手紙が送り付けられた。 のみならず、コスメや手作りの菓子も登場するようになり、文也の泰然とした雰囲気は次第に崩れ始めていった──。


 2


「さすがに変だよっ! 文也」


 私は堪え切れなくなってとうとう口を挟まずにはいられなくなった。

 文屋で文也と二人きりになったのを機に、彼の身の回りで起こり始めた数々のことを論う。 文也は私の心配も他所に、「大丈夫だよ」とばかり繰り返す。


「どこが。 明らかにストーカーじゃないの。 早く誰の仕業か特定しないと……」

「特定っていっても手掛かりは」

「手紙から始まって、コスメ、お菓子、他にも色々。 全部、文也の鞄かロッカーに入れられているんだよね」


 私はもう「心配だね」なぞ、形の無い不安に怯えるような態度は取らない。 徹底的にストーカーの正体を洗い出して、状況からの脱却のみを目指すつもりだ。 そのために思考をフル回転させる。 その上で取っ掛かりとなるのが、


「特定の手掛かりの一番は、それらがという点にあるわ」


 私は席を立ち、部屋の後方隅──ロッカーが立ち並んでいる──へ向かった。 文学サークルで用いているロッカーは、大概の学生がそうであるように私物でまみれている。 文学を冠しているサークル故、中身はお気に入りの小説や執筆に用いる筆記具ばかりだが。

 私の指摘に文也はきょとんとしていた。


「一番の手掛かりなのかな。 ロッカーなんてどこにあるかさえ分かれば開けられそうなんだけど」

「ほぼ不可能よ」私は言ってのける。 「個人ロッカーは全てじゃない。 つまり、。 番号なんて第三者は知る由も無いし、そもそも文学サークル以外にロッカーの鍵を借りる権利はない。 以前私が言及した通り、ストーカーはサークル内にいる」

「俺がロッカーを開けているのをたまたま見ていたのかも知れないよ」

なのよ。 ここは廊下のどん詰まりで、基本学生は前方の扉から出入りしている。 あそこからじゃあ、文也がロッカーを開けていたとしても正確な場所までは分からないわ」

「……ああ」


 たとえ後方にある扉から室内を覗こうにも、扉には曇りガラスが嵌められているので明瞭に見渡せない。 そこは普段から鍵もかかっているし、やはり第三者には文也のロッカーは把握できないのだ。

 どうも文也は危機管理能力が乏しいきらいがある。

 もっと注意力のアンテナを伸ばしてほしいものだ。


 というのも。


 依然として私は、彼に想いを告げられないでいるのだ。 だからその時が来るまで文也に降りかかる火の粉は払ってやらなければならず、私が彼に対して、まるで幼児に注視する母親のようになるのも無理はなかった。

 私はこちらへ歩み寄る文也に言った。


「一旦、内部に嫌疑をかけてみようよ。 私も協力するからさ」

「サークル部員は何十人もいるんだ。 そう簡単に尻尾を掴めるかな」

「部員の内、女子は半数でしょう。 加えて普段から文也と交流のありそうなのをピックアップすれば絞れる」


 例えば──、とか。

 私の交友関係を漁って一番文也に近いのは彼女だ。 無論、舞香はそんなことしないが……。

 文也は私の協力姿勢にたじろいでいる様子だったけれど、やがて根負けしたように「分かった」と承諾してくれた。 表情には、微かに怯えが滲んでいた。 あからさまにとはいかずとも、神経が擦り減っているのだろう。

 私の胸が、鋭い針で突き刺されたように痛む。


「とはいえ、一人一人に聞き回ってるんじゃあ時間が足りないわね。 文也の元に届いた物証から判断できないか確かめよう。 ロッカーに、保管しているよね」


 私は事前に、証拠品として捨てないことを文也に釘を刺しておいたのだ。

 文也はこくりと頷き、ロッカー側に下げられている鍵板から自分の鍵を摘む。 開けられた彼のロッカー内は比較的整然としており、それが故に証拠品の異様さは際立っていた。

 刹那、私の鼻先を良い香りが掠めた。


「文也。 最近、体臭とか気にしてる?」

「は」

「いや、いや。 ロッカーの中、ちょっと良い香りしてるから」

「そうかな」文也はロッカーに鼻を近付けて匂いを嗅ぎ、「言われてみれば……」

「私、この香りを知っているような気がするんだけど」

「……へえ、俺もだよ」


 文也は痛いものを堪えるように眉間にしわを寄せていた。

 お互いにそこから先をあえて言及しなかったのは、決めつけるのは早計だと自制したからだろう。 だいたい、私はついさっきが犯人であることを否定したばかりではないか。


「ま、罪を被せている可能性もあるからな」

「そうね。 にしても」


 私はロッカーに手を入れ、証拠品の一つ一つを取り出していく。

 手紙、コスメ、お菓子(中身は捨ててある)の包装、隠し撮りされた写真──。


「最近になって頻繁になったわよね。 我慢してた感情が爆発したみたいに」


 そういや最近、文也が舞香と親しくしている姿を何度か目撃したことがある。 と、なぜか突然思い出した。


「俺は何もやっていないんだけどな。 ごく普通の、当たり障りない毎日だったんだけど」文也は皮肉混じりに肩をすくめる。

「うーん。 こればっかりは犯人のみぞ知る、かな。 ところでさ、文也は手紙の文字に見覚えは」

「筆跡から犯人の特定か。 俺もそれは考えたんだが……判断できない。 文乃は見覚えがあるのか」

「私はある、けど」

「けど?」

「先走りは良くないわね。 香りと同様、筆跡も真似ができる」

「ちょっと待ってくれ」文也は額に手を当てて思案げな声を漏らす。 「コスメも、お菓子も、写真も、やろうと思えばアイツ──誰かに罪を被せるのは容易じゃないか。 とすれば、単なる嫌がらせの可能性もある。 あんまり気にしない方がいいのかもしれないな」


 私を諭すような、安心させるような口調だった。

 帰納した文也の楽天的な態度の一貫性に、反駁が口をついて出る。


「可能性があるってだけでしょう。 逆に、文也の油断を誘うことが目的かもしれない」

「油断を誘ったところで槍を突いてくるわけか。 しかしなあ、証拠品だけで正体を判断できないんだろう。 常に気を張ってなきゃいけないのは、俺としても辛いんだが」

「たしかに間接的な物証じゃあ突き止められないわね。 もういっそ強硬手段に出るしかないのかもしれないね」私は唇を舌で潤して、「現場に張り込もう。 それしかない」


 文也はぽかんとしていた。 その表情がおかしくって、思わず吹き出しそうになった。


「張り込む? 推理小説っぽい流れになると思いきや、途端に刑事小説みたいになったな」

「あのね、私たちは颯爽と現れて切れやかな推論を披露する探偵じゃないの。 現実で探偵ごっこやるにも限界がある。 その中で張り込みなんて一番手っ取り早いじゃない。 要はストーカーさえ捕まればいいのよ」

「そいつはなんともまあ……」

「現実にフィクションを交えないで。 思い立ったが吉日。 善は急げ。旨い物は宵に食え。 さ、ほら、作戦会議立てるよ」


 私は文也の背中を叩いた。


 ※


 と意気込んだものの、張り込むにも限度がある。

 講義を受けている最中はもちろん文屋を空にするし、サークル時間の間、私たちが目を光らせていればストーカーも行動し辛いだろう。 その中で妥当的な解決策は次の通りである。

 前者の問題は、文也がサークル活動時間になるまで自分の鍵を手元に置き、代わりによく似た鍵を板にかけておくことにした。 そうすることで、たとえストーカーが空の文屋に赴いたとしても、偽物の鍵では文也のロッカーは開けられない。

 後者の問題は、私と文也が図書館に行くことで解決できると踏んだ。 図書館も第二の文屋であるからして私たちがいても不自然に思われないし、あそこの二階テラス席からなら文屋を窺うことが可能なのだ。

 こうすることでストーカーの行動可能時間をかなり限定できる。 後はいつ尻尾を掴ませてくれるか、だ。


「本当に上手くいくかな」


 よく陽の入るテラスを細目で窺いながら、文也は不安を滲ませた。 私はサークルの活動をしているていを崩さず、頻りに二階の角部屋を一瞥していた。 今のところ大きな動きはない。


「私たちの行動に勘付かれていなければ、ね。 運を天に任せるしかない」

「仮に正体が分かったとして、どうする」

「文也が問い詰めるか、嫌なら私がやるかよ」


 時折、念のため持参した双眼鏡でも観察する。

 サークルメンバーが、遂行せねばならない企画に対してああだこうだと議論しているのが見てとれた。


「まったくとんでもない話だよな。 俺にストーカーだなんて」

「私は文也にストーカーが現れてもおかしくないと思ってるけど」

「褒め言葉として受け取っておこうか」

「ええ、そうしてくださる?」私はにやりと頰を歪めた。

「けど、文乃がこんなにも協力してくれるのが俺は不思議だよ」

「どういう意味」

「言葉にするのは難しいんだけどさ」


 文也の言葉に続いた一言は図書館であっても聞き逃しそうなほど小さかったけれど、私の耳は捉えていた。


 ──絶対にそう、とも言えないし。


 何がだろう。

 真意を図りあぐねる私に文也は、「企画の方も滞りなく進めようか」とシャープペンシルをノックした。

 自分で振っておきながら半ば無理やり中断されたのは不服だったが、どっちにしろ彼に協力する理由を有りのまま言えるわけないのだ。


 文也が好きだから協力するのよ。


 そんな告白をするには、図書館はどうも華やかさに欠ける。 雰囲気も大事なのだ。

 私は大人しく拠点の観察も怠らないよう注意しながら作業を再開させた。



 ストーカーを捉えるための地道な作戦を決行してから幾日。 依然として芳しい成果を上げられていない。 大学が休みの土曜日でさえ、図書館で文也と作業しつつ半ば意欲の削がれかけている観察作業をしていた。

 空模様は曇りで、双眼鏡越しの視界は明瞭といえない。

 よもや初日から私たちの行動に気付いたストーカーが、ずっとなりを潜めているのか。 だが、そこでこちらが隙を見せれば向こうにとっては思う壺だ。 このまま観察を緩めてはならないのである。 特に休日は、誰からも見咎められることなく出入りし放題なのだから。

 時刻は正午を過ぎ、一時、二時、三時と時は刻まれる。 せめて小さな動きでもあれば──そう、思った矢先だった。


「……あっ」


 思わず双眼鏡を取り落とすところだった。

 まさか小さな動きを望んだところ、脳を揺さぶられるほどの大きな衝撃を得ることになろうとは。


「どうしたの。 文乃」文也は瞳をもたげて上目遣いにたずねた。

「いるっ。 文也のロッカー前に、いるの」

「なんだって!?」


 文也が私の手元から双眼鏡をもぎ取る。 レンズを覗き込んだ彼は私と同じように驚嘆し、だらんと腕を下ろして信じられないと言わんばかりに呆然としていた。


「私、行ってくる」


 悄然とする文也を置き去りに手早く荷物をまとめ、逃してなるものかと慌てて図書館を出た。 窓越しに判然としなかったが、ぽつりぽつりと雨が降り始めていた。

 が現場を立ち去る前に、なんとしても辿り着かなければ。

 その思いに突き動かされながら文屋まで戻って来ると、室内はがらんとしていた。 それだけに、逃げずに残っていた彼女の雰囲気は容易に感じ取れた。


「……ふ、文乃」


 彼女は躰を強張らせ、私の名を呼んだ。

 私も、それに呼応するように彼女の名を呼んだ。


「来てくれてありがとう。


 3


 間違っていたのかもしれない。

 私の行動は軽率で、他人を巻き込むだけの迷惑でしかなかったのかもしれない。


 あの日──静まり返った文屋で舞香と顔を合わせた日、私は意気消沈として帰路を歩いていた。 鈍色の重たい空から降り注ぐ冷たい雨は、今の私の心情を反映しているかのよう。 アスファルトの水溜りは世界も心も歪ませる。


 


「……舞香、許してよね」


 大学生活において舞香が一番の友人であっただけに、私の受けたショックは大きかった。 心に負った、傷は深くてはち切れんばかりに痛い。

 ヒトは、ああも簡単に普通に生きる道を踏み外してしまうのだ。


「ん」


 水濡れのアスファルトを俯きがちに歩き続けていると、やがて前方から誰かが走って来る気配があった。 傘を少し持ち上げた視線の先にあったのは、ばしゃばしゃばしゃと激しい音を立て、水飛沫を上げ、勢いを崩さずに走る “誰か” の姿。 どことなく切羽詰まった様子もある。


 何をそんなに急ぐことがあるのだろう……。 危ないな。


 溜息を吐きつつ “誰か” とぶつかってしまわぬよう、私は道脇に寄った。 せめてもの鬱憤晴らしに、いっそ傍迷惑な “誰か” の顔を拝んでやろうと瞳を動かして──どきりと心臓が跳ねた。


 文也だ。


 傘も差さず、服が濡れるのにも構わず、文也が走っていたのだ。 彼にランニングの趣味はないはずだ。 あったとしても、次第に雨脚の強くなる外を走るとも思えない。

 不思議がってつい立ち止まった私と、動きを緩めない彼の視線とが刹那重なる。 文也の双眸には怯懦きょうだが孕んでいるようだった。

 しかし文也は私の横を突っ切ると、こちらを振り向きもせずに真っ直ぐ走り去ってしまった。 雨の白さも相まって瞬く間に小さくなる背中を消した文也。 私は一度首を傾げ、歩みを再開させた。


 やがて右手を行き過ぎる駅前ロータリーで、夕方の五時を報せるチャイム──ふるさとだ──が流れるのを聞いた。

 このとき何故か、私はもう故郷には帰れないんだろうな、という漠然とした不安を抱いた。 いや、正確に不安を紐解けば自ずと理由は分かるかもしれないけれど、私にそんな余裕は無かった。

 今は何より、心を落ち着かせることの方が重要だったからだ。


 帰宅して風呂に浸かり、すっかり汚れの落ちた躰で眠りに就く。 このまま清々しい朝を迎えれば気持ちも穏やかになるだろうという私の考えは、どうやらあんまり安易だったらしい。


 翌日になって、舞香の訃報を受け取った。


 ※


 通夜も葬式も、私たちの悲しみを置き去りにして粛々と進められていった。 生前の彼女の人望が色濃く反映されていたのだろう。 私の鼓膜を、絶えず友人らの嗚咽が震わせていた。 舞香は皆に愛される存在だった。

 隣に座る文也も、目に隈を作って悄然としている。 場違いにも明るい舞香の遺影に虚ろな瞳を向けながら、時折「どうして」とか「そんなことする奴だとは……」と呟いていた。 周りにいる他の友人も「話、聞いてあげれば良かった」とか「いつもと変わりなかったのに」と後悔の海に溺れていた。

 極め付けは、葬儀の後で誰かが漏らした一言だった。


「なんで、自殺なんかしちゃったの」


 そう。 のだ。

 密閉したバスルームで練炭を燃やして──。

 発見者はあろうことか文也だった。 彼はすぐさま救急車を呼んだが間に合わなかったそうだ。 バスルームには自殺を裏付ける遺書が置かれており、『私は過ちを犯しました。 懺悔いたします。』と流麗な字でしたためられていたらしい。

 もうもうと立ち登る煙の先に、舞香は何を感じただろう。 この世にどれだけの未練を残して逝っただろう。 苦しかった? それとも眠るようだった?

 やはりあの日、私は間違っていただろうか。

 私も彼女の死を悼んだ。


「……文乃。 後で話したいことがあるんだ。 時間、あるか」


 式場から哀惜が散り散りになる中、文也は鈍色の空を仰いで言った。 一呼吸するたびに魂が吸い取られているかのようだった。


「あるけど。 今じゃだめなの」

「駄目なんだ。 文乃のためにもな」

「私のためって……何それ」

「話せば分かる。 また、連絡するから」


 文也は私と一度も目を合わさず、そそくさと哀しみに混じって離れていった。 彼の言動を怪訝に思っていた私だったが、不意に肩を叩かれてそちらに意識が引っ張られた。


「ね。 文也くんになに言われたの」


 声をかけてきた女性──同じサークル所属の中馬なかまさん──は文也の去った方を見ながら、耳打ちするような小さい声で訊いた。


「ん、特に変なことは言われてないけど」

「そう……」中馬さんは訝しげに眉をひそめ、「実はさ、わたし。 文也くんからメッセージ受け取ったの。 『俺が、舞香を殺したようなものだ。 本当にごめん。』って」

「どういうこと」

「わたしもよく分かってないの。 今日、式が始まる前に彼に訊いたんだけど「中馬さんは舞香と親しかったから、謝りたくて」としか言ってくれなくて……。 だから文乃さんにも同じようなこと伝えてたのかなあと」

「私には一言も無かったよ」

「そ、そっか。 ……ひょっとしたら文也くんにも考えがあったのかもしれないね。 ごめん、わたしが言ったこと忘れて」


 中馬さんは申し訳なさそうに掌を合わせ、去り際にさも取って付けたかのように「舞香のぶんも生きようね」と一つ涙をこぼした。


 ──俺が殺したようなもの、か。


 ふと脳裡に過ったのは、私とすれ違ったときの文也の表情だった。 怯懦と焦燥に駆られていた、あの……。



 夜になって、文也から連絡が入った。


『大通りにある公園で、待ってる。』


 素っ気ないたった一言のメッセージ。

 私は身支度を済ませて家を出る。

 朝から天候が優れなかったせいか、夜の闇は一層深さを増していた。 街に沈澱するじめっとした空気を纏いながら、私は不安に背中を押されていた。

 文也は私に何を伝えるのだろう。


 ──でも、まだ、その人に想いは告げられないんだ。 もっと関係を深めてからじゃないと。


 いつか文也が口にしていたことを思い出し、即座にかぶりを振った。

 

 これは嫌な現実から目を背けるために、私が希望的観測に縋ろうとしているだけだ。 彼は──文也は、怪しげな手紙から始まる一連の事柄について、私に打ち明けようとしているのだ。 脳が早鐘を打っていた。 歩みを進めてはならないと直感が叫んでいた。 それでも私は逆らって公園を目指す。


 文也、あなたは、何を知っているの。

 俺が殺したようなものだって、そんなはずはない。

 あなたが罪の意識に苛まれる必要なんて、どこにもない。

 んだ。 自殺する者の意思なんて、私たちに汲み取れない。 思い悩んで、憂いて、あまつさえ自分の責任だったなんて決め込むんじゃあ誰も報われない。

 事実を事実として受け止めて、そうして進むしかないの。



 激しい衝突音がした。

 文也が、信号無視した横断歩道で、自動車に撥ねられたのだ。


 私は、私は、私は──。



 彼のための行動が全て間違っていたのだとしたら、正解はどこにあったというの?


 4


 真っ白な病室のベッドで、文也は静かな寝息を立てていた。

 枕元には無骨な機械が定期的な心電図音を発し、彼の躰にはよく分からない管が数本繋がっていた。 どうにかしてあの世へ向かってしまうのを押さえつけている様子だった。 文也は多分、どこまでも暗い意識の底で彷徨っていることだろう。

 私は、彼の大きな手のひらを握った。 僅かな温もりが、生きているのだと主張している。


「……文乃さん、いつも傍に居てくれてありがとう」


 ベッド側の丸椅子に腰掛ける私の隣で、文也のお母さんが目尻に涙を浮かべて言った。 彼女の、疲れ果てて痛々しくなった横顔を私は直視できなかった。


「私にできるのはこれくらいしかありませんから……。 早く、意識が戻ってくるのを待つばかりです。」

「文也はきっと、貴女みたいな子に出会えて幸せだと思う。 目を覚ましても、永く連れ添ってあげてくれるかしら」

「……もちろんです。」


 今日はどんな言葉を選んでも、絶えず私の心臓はざわざわと騒ぎ立てていた。

 文也が昏昏こんこんと眠って三日が経つ。

 交通事故に遭い、奇跡的に命を取り留めたものの未だ予断を許さない。 文也は生と死の綱渡りを行なっているのだ。 私が軽々しく傍を離れられるわけがなかった。

 病室には私の他に文也の両親がいて、二人とも文也がいつ目を覚ますか気を揉んでいる。 愛情を注いで育てた息子の生還を望むのは、親として当たり前と言うべきか。

 しかし私は、文也の目覚めは私の人生の終わりだと思っている。 言うなれば彼には目を覚ましてほしくなかった。 仮にそうならずとも、記憶だけは失くしていてほしい。 私の存在を、綺麗さっぱり忘れて。


「ねえ、文也」私は彼の耳元にそっと唇を近付けた。 両親に聞こえない程度の声量で続ける。 「



 ♦︎


「なあ、教えてくれ。 文乃なんだろう? 全部、文乃がやったことなんだろう」


 夜半の公園。 俺の前に、文乃が立っている。 辺りに街灯はあるが光が乏しく、彼女の鮮明な表情を窺えなかった。 文乃は小首を傾げ、「話って、それ?」と怪訝に問いかけてくる。


「それしか、ないだろ。 ストーカーは文乃の自作自演で、舞香を自殺に見せかけて殺したんだろう? 違うか」

「いや、いや。 え? ちょっと待って。 唐突すぎるよ。 なに、私が、舞香を?」

「ああ。 俺はそう思ってる」

「やだなあ。 たしかな証拠も無いのに」

「言う通り、たしかな証拠は無いよ。 全部、俺の直感だ。 なぜって、からな」


 文乃は息を呑んでいた。 面白くないこと言われて気分を害したのかもしれない。 俺は続ける。


「最初に俺の元に届いた手紙。 実はその数日前に、俺は図書館でこんな会話を聞いたんだ」


 とっくに過去の産物となっていたはずが、今でも鮮明に思い出すことができる。 それは、俺にとって深く印象に残っていたからだろう。


『……そうなの? やっぱり、あの二人』

『らしいの。 最近、すごく仲良さそうでしょう。 文也くんもきっと気があるのよ。 ただ、文乃さんは気付いてるのかな。 だってことに』

『どうなんだろうね。 ひょっとしたら気付いてないのかもしれないわ。 それにしても、お互いに本音を伝えないなんてね』

『いじらしいわよね。 もう早いところくっつけば良いのにって』


 そうして彼女らの会話をそらんじると、文乃が狼狽えるのが伝わった。


「……は。 なに、それ。 私が聞いたのはそんなじゃないっ!」

「文乃もいたんだな、その場所に。 だったら尚更、俺の文乃に対する疑いは増すことになる」

「嘘よ。 だって文也は私のことを……」文乃は肩口で切り揃えた髪をくしゃりとさせた。 「サークルで顔を合わせたら積極的に会話をしてくれたし、一緒にファミレスで食事を摂ったときも笑顔を向けてくれたし、帰り道も一緒に電車に乗ってくれて……」

「違う。 違うんだよ。 そのとき、一緒に舞香もいただろ」


 文乃は勘違いをしている。

 それらを正して言い直すなら、こうだ。

 俺はサークルで積極的に彼女と会話を交わした。 自然と笑みが溢れた。 帰宅の際は一緒に電車に乗った。

 文乃が同じ場に居合わせることも多々あったけれど、俺が目をかけていたのは舞香の方だった。 文乃はあくまで、仲の良い友達という位置にいた。


「そんな……」

「文乃の期待に応えられなかったのは申し訳ない。 でも、俺には許せないことがある」話を本題に戻す。 「例の会話を聞いてから数日後に手紙が届いた。 あの時点で俺はまだ、ただの手紙という認識しかなかった。 文乃に相談したのは、純粋に差出人を探したかっただけなんだ。 それなのに文乃は、差出人を “犯人” だと言ったよな」

「言ったかしら、そんなこと。」

「言ったさ。 文乃は手紙の差出人を完全悪だと決めつけていた。 そこから俺は文乃に少なからず疑問を抱くようになったんだよ」


 文乃は何も言わない。

 俺は自分の推察を述べるしかなかった。

 本当は反論してほしかった。


「手紙の一件以来、俺のロッカーや鞄には色んな物が詰め込まれるようになった。 コスメ、手作り菓子、隠し撮りの写真──、入れられる物が酷くなっていったんだ。 舞香が犯人であれば行動に矛盾が生じている。 特に、隠し撮りなんてもっての外だ。 俺はすぐさま、と思った」


 周りの人間にとって俺が憔悴しているように見えたなら、それは舞香へ実害が出てしまわないか憂慮していたのだ。 今となってはもう、手遅れなのだが……。

 文乃は俺の確信に鼻で笑って返した。


「なかなか文也が振り向いてくれないから、そうしちゃったのかもしれないよ。 というか、文也のロッカーを開けたときに漂った香りって舞香のだったよね」

「あれだけで犯人は決められない……俺たちの総意だったじゃないか。 元より、文乃は、犯人は舞香だと言下に滲ませていたけどな。 犯人も、サークル内にいると言って憚らなかったし。

 気付いてるか? “犯人はサークル内にいる” と断定すれば、必然と文乃も犯人候補に含まれることになるんだ。 今となっては自分で自分の首を絞めていたってわけさ」

「そりゃあ、私は……」

「犯人じゃないから、と? やっていないことを証明するのは難しいんだよ」


 無論、俺の話も物的証拠がないわけだから、第三者が聞けば「文乃が犯人だなんて、そんなはずない」と声を上げる者もいるだろう。 しかし、それでも俺には、文乃が犯人であると信じるに値すること事実がある。


「改めて手紙を検分したとき、筆跡に関して文乃は見覚えがあると言った。 だが、確証は持てていなかったよな。 あれは単純に、文乃が舞香の筆跡を真似て書いたから意識的に話題を避けたんじゃないのか」

「馬鹿馬鹿しい……。 言ったじゃない、筆跡も香りと同じで誤魔化しが効くって。 私以外にもできたはずよ」

「そうだな。 これだけの話じゃあ核心までは迫れない。 もっと具体的に──そう、文乃がロッカーの前に立つ舞香を発見した日のことを思い返そうか」


 バスルームでぐったり倒れた舞香の姿が瞼の裏にちらついた。 自然と呼吸が浅くなって、涙が溢れそうになる。 数時間前に執り行われた葬儀が、遠い過去のように思えた。


「一つ訊きたいんだがな。 文乃はあの日、大学から自宅まで真っ直ぐ帰ったか」

「ええ、帰ったわ。」

「そうか……」聞きたくなかった、と溜息を吐く。 「


 帰宅してから、ずっと焦燥に駆られていた。

 文乃は舞香を犯人だと糾弾して何をしでかすのだろうと、と。

 嫌な予感は拭っても拭いきれず、はたして俺は居ても立っても居られず舞香のアパートへ走り、そして……。


「…………」

「舞香に睡眠薬飲ませて、練炭を燃やしたんだろう」

「練炭なんて私持ってないよ。 もとよりアウトドアの趣味は無いし」

「アウトドアの趣味が無くても、練炭の一つくらいは買っていたんじゃないか?」

「何のためによ」

。 舞香に当日忘れないように釘を刺されていたから、その後に買っていたとしてもおかしくない」


 文乃は黙り込む。

 俺はやり切れなさに押し潰されそうだった。


「頼むから……嘘を吐かないでくれ」

「嘘なんか吐いてない。 あの日のことは今まで忘れてただけ。 私、あの辺りに用事があった帰りだったんだ。 舞香のアパートには行ってない。 私はやってない。」

「あくまで自分は無関係だとしらを切るつもりか」

「舞香は自殺だったの。 文也はきっと、現実を受け入れられなくて混乱してるだけよ! ねえ、こんなことをしていても舞香は悲しむだけだよ」

「けどな」俺は反駁はんばくしようとして、だらんと気力を失った。 掠れた声が漏れる。 「いや、もうよそう」


 これ以上、やったやらないの水掛け論は互いに傷付くだけだ。

 文乃を良い親友だと思っていただけに、尚のこと傷が深くなる。 不毛だ。 いっそ堂々と自白してくれた方が、どれだけ苦しまなかったか。


「俺がちゃんとしていれば、舞香は死なずに済んだんだ。 俺が殺したようなものさ。 まったく……最低な男だよ。 ひょっとしたら、文乃が道を踏み外してしまうのも防げたかもしれない」


 身勝手に命を奪われた舞香は、文乃の言う通り、俺たちが言い争うのを望んでいないはずだ。 本当に、俺が混乱していて有りもしない事を捏造しているだけかもしれない。

 物的証拠は無い。 あるのは、目に見えない事実だけ。

 俺は去り際、その事実だけは文乃に突き付けてやった。


 今後どうすべきか。 舞香の死をどうやって乗り越えるべきか。


 そんなことばかり考えながら赤信号の横断歩道を待っていると、突然、背中を強く押された。 体勢を立て直そうとたたらを踏んで咄嗟に振り返る──間際、すぐ横で眩く光るヘッドライトが視界に入り込んだ。

 

 ♦︎


 文也の躰が弾き飛ばされた映像が、何度も脳内で再生されていた。

 そう。 手紙から始まる一連の事象は全ては私が引き起こしたことだ。

 いっそ死んでくれれば良かった。 彼はもう、私の手中からは転がり落ちたのだ。

 せっかく運命の人だと思ったのに。 私は運命の人を周りの脅威からまもろうとしただけなのに。


 睡眠薬で眠らせた舞香をバスルームに転がし練炭を燃やしたとき、私は悪を倒す正義のヒーローの気分だった。

 舞香は文也にベタつきすぎたのだ。 あんなの、文也が困るだけ。 そもそも文也の運命の人は私だったのだ。 私以外に恋人の関係になるようなことは許さない。 例え手を汚してでも──。


 しかし、今となっては全て台無しだ。 何もかも間違っていた。 そうして積み重ねられた間違いの残骸から私が守らねばならないのは、ということだけだ。


「……文也」


 私はいま一度彼の名を呼び、己が心臓の鼓動を押さえ付ける。

 もしいつか文也が目を覚ますようなことがあれば、私はこの手で文也を──。

 いけない、いけない。 つい感情に呑み込まれてしまいそうになった。 文也の両親がいる手前、私は演じなければならないのだ。 どこまでも献身的な彼女を。

 一つ息を吸い、両親の耳にしかと届くよう、声のトーンを上げた。

 瞬間、眼前でストロボを焚かれたように文也の言葉が──公園を去る直前、私でさえ知らなかった私の本質を鋭く射抜いた──蘇る。


 ──文乃は自分を誤魔化して物を言うとき、文の最後にマル……。だから、んだよ。 これだけは事実なんだ。


「私たち、これからもずぅっと一緒だよ。」


 私は、文也にそう囁いた。

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彼女のイミテーション・ラブ。 三編柚菜 @mitsu_yuzuna

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