続・紅夜叉《べにやしゃ》

菴 良介 <いおりりょうすけ>

一 空蝉《うつせみ》


 天空から一条の光が差し込み、濃い霧の中に立つ女人を照らしていた。

阿修羅が走った。大人の胸に届きそうな体高をした阿修羅は、奥州生まれの地犬だ。その精悍せいかん風貌ふうぼうには、澄み切った双眸が光っている。

「紅彦さん・・・」

「よく来られた・・・」

空齋くうさい様が私の背中を押して・・・」

「そうか、空齋が・・・」

 夕霧は徐々に薄らぎ、錦繍きんしゅうの山野が二人を優しく包み込んでいた。

「ここはどこかしら?」

「奥州一関だよ」


 鮮やかに色づいた雑木林を抜けると、薄いアスファルトが敷かれた小道に出た。

烏兎うとケ森の山頂に紅彦たちはいた。烏兎ヶ森は一関市と東山町の境に位置している。その山頂には規模は小さいが格式の高いやしろが建立されていた。

「もう少し行くと俺の家がある」

「どんなところかしら?」

「まるであばら屋かな」

紅彦の家は集落から離れた一軒家で、烏兎ケ森の裾にあった。

「ほら、あそこだよ」

母屋のほかに、軒下を車庫にした納屋と、申し訳程度の質素な門柱があった。

「あれっ、・・・」

「どうしたのですか?」

「うん、鍵がかかってる」

「開かないのですか?」

「大丈夫だ。タマさんのところに行こう」

「タマさんて・・・」

「大家さんだよ」

 タマの家は紅彦が住んでいる家の地主で、昔はこの辺一帯の大地主であったという。

 ゆるい勾配の下り坂が続いている。

 しばらく行くと、右手に立派な庄屋門があり、色褪せた表札には相澤卓三と枯れた筆致でしるされていた。

 二人が庄屋門をくぐると、姉さんかぶりをしたタマが納屋の軒下で大根を洗っていた。

「あんれまあ・・・、紅ちゃん、どこさ行ってたのよ?」

 被っていた手拭いをとり、それで手を拭きながらタマが驚いた顔をしていた。

「・・・」

「戸締まりもしねえで、黙って出かけたら物騒だんべよ。そっちのひとは?」

「おお、紹介が遅れてしまった。この女は霞さんというんだ。いろいろと込み入った事情があるから、後でゆっくりと話すよ」

「そうかい・・・」

  俯き加減で霞が頭を下げた。

「ところでタマさん、家の鍵を預かっていないかなあ。中に入れないんだよ」

「仕方が無い人だねえ。とにかく上がって、お茶でも飲んでいきなよ」

  大柄なタマが先になって玄関に向おうとしたとき、紅彦の横に阿修羅がのっそりと近寄って来た。

「こりゃあ、魂消たまげた・・・。でっけえ犬だなや」

「こいつは阿修羅というんだ」

  阿修羅が前に出て愛想よく尾を振ると、タマは動じる様子も無く、平然と阿修羅の頭をでた。

「賢い顔をしている犬だねえ」

  阿修羅がタマの手をペロリと舐めた。

「おおそうかい、腹がへってんのか」

  タマは勝手に早合点をしていた。

  玄関は土間になっており、その奥に囲炉裏を切った茶の間があった。

「父ちゃん、紅ちゃんが帰って来たぞ」

「おお、どこさ行ってたんだ?」

  小柄な卓三が心底驚いた顔をした。

「父ちゃん、こっちの女が霞さんだよ」

「まあ、お上がりなさい」

「紅ちゃん、さあさあ・・・」

  わが子が帰って来たときのような喜びをあらわにして、タマが妙にそわそわしている。卓三夫婦には三人の子供があるが、それぞれ独立して東京で暮らしており、盆か正月にしか帰って来ない。

「ほんとに、どこさ行ってたのよ」

「うむ、急用で東京に行ってたんだよ。なかなか用事が終んなくて参ったよ」

「心配していたんだよお。電話ぐらいくれればいいのに・・・」

「すみません」

「まあ、いいじゃねえか。無事に帰って来たんだし・・・」

「紅ちゃん、晩ご飯食べてってね」

「ああ、そうするよ。でもあいつは大飯食らいだよ」

 阿修羅が玄関の土間に腰を下ろしていた。

「でっけえ犬だなあ・・・。そう言えば、大昔、陸奥地方にはでっけえ犬がんでいたって、小さい頃に祖父じいさんから聞いたことがあったなあ」

  卓三が目を細めた。

「あっそうそう、紅ちゃんのこと宇多先生が随分心配していたよ」

 横合いからタマが口を挟んだ。

 宇多先生とは、一関市沢で老健施設朱雀苑を経営している医師宇多雅彦のことだ。

「先生、怒ってたかい?」

「俺に黙って出かけたって怒ってたけど、相当心配していたんだよお」

「あっちゃ・・・」

「今晩でも電話しておくんだよ」

「うん、そうするよ」

「霞さんはこれからどうするんだい?」

「私は紅彦さんと一緒におります」

「母ちゃんよ、そりゃあ、若い者同士が一番だべよ」

 卓三が笑った。

「タマさん、霞さんは事情があって着の身着のままでやって来たんで、明日、買物に付き合ってくれるかい」

「ああ、いいよ。んでも、和服が板に付いているねえ。いつも着物を着てるんかい。今どきの若い人にしちゃ珍しいねえ」

 大柄なタマが、いかにも嬉しそうな顔をした。久しぶりに華やいだタマの顔を、傍らでまぶしそうに卓三が眺めていた。

晩秋の夕暮れは早く、いつしか烏兎ケ森に闇が広がっていた。


 都心で謀議が行われていた。

 霞ヶ関の一隅にあるビルの一三階に、暗い雰囲気を湛えた男たちが集まっていた。

 重厚な雰囲気を漂わせている男が、静かな口調で話していた。

「黒木君、君に担当してもらおうか。この計画は、J作戦と名付ける」

「はい」

「あらためて言う必要はないと思うが、作戦には少人数で実行するようにな。それから、民間人と接触するときには、分かっておるだろうが、十分留意することだな」

「承知いたしております」

  黒いスーツに身を包んだ男が返答した。この男は黒木と呼ばれており、細面の彫りの深い顔立ちをしている。

「梶君、君は本部から黒木君をサポートするようにな。本部は銀座に設置する」

「承知いたしております」

「うむ」

「ボス、このプロジェクトは、ファイナルと考えてよろしいですね」

「黒木君、本計画は藤原に渡ったとされている物が、事実はどうであったのかを検証し、この案件に決着をつけることにある」

「その件は、七〇年の調査で結論が出ているものと聞いておりますが・・・?」

「あの調査ではJが特定されていない。ナサから取り寄せた写真を分析すると、この地点と、ここの二か所にそれらしきものが確認されておる」

黒木に古びた絵図が渡された。

「その卍と重なる位置だ」

七〇ななまるファイルには、Jは正史せいしから抹消された疑いがあると記されております」

「黒木君、君は闇を探るのが得意ではなかったのかね?」

「・・・」

「ボス、現地の指揮は、すべて黒木君に一任するということでよろしいですね?」

黙って聞いていた梶が口を開いた。

「それでいい。ただし、適宜、梶君を通じてJSRに報告しなさい。私はこれで失敬する。後は梶君に任せる」

無言のまま男たちは解散した。

雑踏を歩く黒木が立ち止まり、何かを気にするかのように北の空を見上げた。


 その頃、石蔵山に紅彦と霞が佇んでいた。

 番台川を越えた烏兎ヶ森の東方、川崎村との境界近くに石蔵山はある。

二人は山間広場で砂鉄川を眺めていた。

たちばなの屋敷はどの辺りだったのでしょう」

「今では、どこにも跡形がない」

「・・・」

「多分、あの辺りがそうだったのかな?」

 紅彦が指さした方角には、休耕田が雑草に覆われている場所があった。

  長い髪を無造作に後ろで束ね、セーターにGパン姿の霞が紅彦に腕をからめている。

「ねえ、タマさんって、弘忍こうにん様に何となく似ているように思わない?」

「そう言えば、体型も性格も似ているような気がするよ」

「そうでしょう。私、初めてあったときからそう思ってたの」

「弘忍が聞いたら怒るぞ」

「タマさんの方が怒るわよ」

  霞がうつむいて笑った。

「ところで、杖林寺じょうりんじが建っていたのは、あの辺りかな?」

紅彦が指差した方角には、烏兎ヶ森の後方に霞んで見える観音山があった。観音山は平泉町との境にあり、その中腹には舞草神社もくさじんじゃが建立されている。平安時代初期には、この地には刀鍛冶の屋敷が沢山あったという。ここで鍛造された太刀を舞草刀という。舞草刀は現在の日本刀の原型と言われているが、奥州藤原が滅亡すると共に、それは次第に忘れ去られた。今、それは厳美渓にある一関市博物館に常設されている。

「あの頃の物は何も残っていないのねえ」

「一千年が過ぎてしまったんだよ。自称宇多源氏の子孫が言ってたよ。この世の真理は移ろうということ、だってね」

「移ろう・・・?」

「ああ、人も老いてゆくし、物は変化していく。変化しないのは金だけかな」

「だから、夕霧城の砂金は価値があるのね」

「一度探しに行ってみるか・・・」

二人のところに阿修羅が走って来た。

砂鉄川の上空にとびが舞っている。

先ほどまで遠くで聞こえていたオートバイの爆音が七曲峠を越え、茶髪の若者たちが四〇〇CCにまたがって、二人のいる広場にやって来た。八台のオートバイは広場を蛇行し、紅彦たちの横に移動して来た。

「グルル・・・」

阿修羅が口吻こうふんしわをよせた。

「いいよ、阿修羅、放っておけ」

「すごい、髪の色が茶色だわ」

「あれに驚いちゃ駄目だよ」

若者たちはオートバイを降りて、二人の側にやって来た。

「ここで何やってんだよ。ここは俺んちのシマなんだけどよお」

二十歳前後と思われる童顔の男が、紅彦に因縁をつけた。後ろに控えている連中も肩を怒らせ、下卑た笑いを浮かべている。

「そうか、それは知らなかった。君らはどこから来たんだい?」

「通行料をもらうべ」

横合いから、下卑た笑いをしていた金髪が口を挟んだ。

生憎あいにくだがそんな持ち合わせはない」

「そんじゃ、その姉ちゃんを貸せや」

「それも困るなあ・・・」

間延びした声で紅彦が言った。

「ごちゃごちゃ言ってんじゃねえよ」

金髪が霞に向かって来た。

「グルルル・・・」

「よした方がいいぞ。こいつは腕の一本ぐらい噛み切るぞ」

「タツ、どけっ」

リーダーの茶髪がチェーンを振り回し、紅彦に迫って来た。

「よせよ、怪我するぞ」

「うるせーっ」

 チェーンが紅彦の顔面を襲った。

紅彦は一寸の差でこれをかわし、右手刀でリーダーの手首を打った。次の瞬間には、リーダー倒していた。茶髪は後頭部を打ったと見えて、脳震盪を起こしていた。

「サブ・・・、この野郎」

金髪がいきなり回し蹴りを放ってきた。僅かに腰を落とした紅彦は、左掌底で顔面を軽く突いた。金髪頭のタツがひっくり返り、顔面から鼻血がほとばしり出た。

このとき、紅彦の脛を狙ってサブがチェーンを振り回わした。紅彦は地を蹴り、サブの首を挟むように着地し、両足首でサブの首を絞めた。

「グルルルウ・・・」

「お前らよせよ。その犬は、平気で人を噛み殺すぞ」

霞に向かっていた二人の足が止まった。

「よし、阿修羅、少し遊んでやれ」

 霞に向かっていた二人が、後ずさりをしながら頬を強ばらせた。

「ピューイ」

紅彦の鋭い口笛を合図に、阿修羅が六人の暴走族に襲いかかった。

 オートバイで逃げようとしていた若者が、阿修羅の頭突きで倒され、四方に走った者が次々と阿修羅に襲われて、恐怖で立ち上がれなくなっていた。

「もうマイッタよ。勘弁してくれよ」

紅彦の足もとで、サブが降参した。

「阿修羅、来い」

阿修羅を伴って霞のところに歩み寄り、紅彦は何事も無かったように眼下の風景に目をやった。後ろで暴走族が、こそこそと隠れるように遠ざかろうとしていた。何を考えているのか、阿修羅が紅彦のもとを離れ、のっそりとした動きでオートバイに向かっていた。

「ウワーッ」

「ウオーッ」

暴走族が慌てふためいて逃げ出した。

紅彦が振り返ると、阿修羅が並足で暴走族を追いかけていた。

「阿修羅は遊び相手がほしいのですね」

霞も笑っている。

「さあ、帰ろうか」

「阿修羅はどうするのですか?」

「あいつはほっといても帰ってくるさ」

「大丈夫かしら・・・?」

「ああ、案ずることはないよ」

アマゾネスが重いエンジン音を響かせ、曲がりくねった峠を下っている。紅彦はこのブラジル製の一三〇〇㏄のオートバイが気に入っていた。二人はお揃いの黒いフルフェースのヘルメットをかぶり、紅彦に身体を密着させた霞が後部座席に跨っていた。

 紅彦の前方を八台のオートバイが走っている。その後ろには、阿修羅が時折紅彦の方を振り返りながら、余裕のある走りで暴走族を追いかけていた。


紅彦と霞は平穏な日々の中にいた。

晩秋の烏兎ヶ森に朝霧が立ちこめ、それは静かに北に向かって流れていた。

 阿修羅が遠鼻をして虚空を見つめている。

「鹿谷でもこのように濃い霧が出ましたよねえ。覚えていますか?」

早朝から彫金の細工をしていた紅彦が手を休め、縁側のガラス越しに外を眺めている霞に目を移した。

鬼魅きびをやっつけて、馬鬼羅と初めて出会った日だった。随分と昔のような気がする」

「あれから色々なことがありましたもの」

「弘忍はどうしているかなあ」

「父上も弘忍様も馬鬼羅ばきらさんも・・・」

 一瞬、霞の横顔にかげりが見えた。

「気晴らしに散歩でも行くか」

紅彦が背伸びをした。

「あれ、誰かしら?」

庭に車が入って来た。

 玄関の土間にいた阿修羅が、耳を立てて僅かに尾を振っている。

「あら、タマさんよ。それに、若い男の人が一緒よ」

縁側に立った霞が紅彦の方を見た。

庭に敷いてある山砂を踏む微かな音が聞こえ、間もなく玄関の引き戸を開けてタマが顔を出した。

「紅ちゃん、いるかい?」

「ああ、朝からどうしたの。珍しいなあ」

「ほら、こっちにきな」

後ろを向いて、タマが若い男を促した。

「なにをぐずぐずしてるんだよ、日頃の元気はどこへいっちまったんだよ」

タマの後ろから茶髪の若者が姿を現した。

「三郎、ちゃんと挨拶しな」

「どうも・・・」

頭を掻き掻き、罰悪そうな顔で茶髪が頭を下げた。あの石蔵山で出会った暴走族のリーダーのサブだった。

「紅ちゃん、こいつがこの前迷惑をかけたんだってねえ。いつまでも子供じゃねえんだから、まともな挨拶はできねえのかい」

「すいませんでした」

もう一度、サブがペコリと頭を下げた。後ろで阿修羅がとぼけた顔をして見上げているので、サブはそわそわして落ち着きのない目をしていた。

「仕様がねえな。まったく・・・」

タマがあきれた顔でサブを睨みつけた。

「タマさん、いいんだよ。ちょっとした退屈しのぎになったし、そこにいる阿修羅も楽しんだようだから・・・・」

「こいつはね、あたしの姉の子で、甥っ子なんだよ。根は優しいんだけど、ガキの頃から悪さばかりしまくってねえ。また、よりによって霞さんを冷やかすなんて、まったくとんでもねえ奴だよ」

「もういいよ、タマさん。それより、いつまでもそこに立っていないで、こっちに上がりなよ」

「散らかしていますけど、どうぞ・・・」

 霞が促した。

「霞さんはいつ見ても綺麗だねえ」

「タマさんは口がお上手だこと・・・」

「いや、ほんとだよ」

 サブが横から口を挟んだ。

「そういうことは、お前が言わなくてもいいんだよ」

軽率なサブをたしなめる言葉で、久しぶりに明るい笑い声が紅彦の家に満ちた。

ちょうどその頃、三人の男たちが烏兎ヶ森を歩いていた。

一行はゆったりとした足取りで、時折立ち止まっては辺りの風景を眺め回し、薄汚れた一片の地図を確認している。

「平岩君は右側から、松田君は左側から進んでくれ。山頂で合流しよう」

「はい」

「合流時刻は一一三〇ひとひとさんまる

「はい」

リーダーらしき男は都会的な雰囲気を漂わせ、洗練された身のこなしをしているが、その彫りの深い理知的な顔には、容易に人を寄せ付けない冷酷な双眸が光っていた。三人は分散し、それぞれのルートを辿って山頂を目指していた。ハイカー姿の平岩は、紅葉が散り始めた雑木林を歩いていた。枯れ木を杖にして、コースをジグザグにとって山頂に向かっていた。時折、胸ポケットから地図のコピーを取りだしては、辺りの風景と見比べて確認している。その地図は虫食いの痕まで鮮明にコピーされており、かなり古い年代を思わせるものであった。地図は絵図面になっており、山が描かれた中腹に卍と霧という文字が読みとれた。

平岩が後ろを振り返った。

何かの気配を感じたのだが、辺りにはそれらしき姿は見えなかった。

社の裏に、樹齢千年と言われている老杉がある。その太い枝に白頭の烏が留まっていた。いつ頃から棲み着いたのか、白頭は孤高を保っており、他の烏を社に寄せ付けなかった。

白頭が社を見下ろしていた。

結界を犯したものを見据えているのだ。


番台川から沸き上がった霧は嘘のように晴れ、晩秋の陽が天心に到ろうとしていた。

烏兎ヶ森山頂に虹がかかっていた。

社に続く間道を紅彦と霞が歩いている。

阿修羅はいつものように好奇心旺盛な眼をして森の中に走り込み、子牛のような図体を躍動させていた。

「あの虹を渡ればサクドガに行けるような気がしますね」

この辺りでは、霧がはれた後に決まったように美しい虹が湧き出る。

「阿修羅は、一人で何をやっているんでしょうねえ」

「あっはっはは、犬に一人はないだろう」

「でも、阿修羅は、自分では紅彦さんの仲間だと思っていますよ」

「そうだなあ。あいつは躊躇ためらわずに俺についてきてしまったからなあ」

「紅彦さんが消えた後、すごい勢いで渦の中に跳躍したのですよ」

「あいつは弘忍に似ているから・・・」

「うっふっふふ」

霞が俯いて可笑しさをこらえている。

いつしか二人は山頂の鳥居をくぐっていた。

「あれ・・・」

「こんなところへ・・・、珍しいわねえ」

社の濡れ縁で、三人の男たちが昼食をとっていた。

 男たちの粘っこい視線が、ねっとりと霞にからみついていた。

「何か、変な感じのする人ですねえ」

「気にすることはないさ」

「でも、暗そうな目をしてたわ」

「・・・」

社の裏は小高い丘になっており、その頂上には、天狗岩と呼ばれている風化した大きな岩が屹立きつりつしていた。

紅彦たちは、そこに向かっていた。

「あら、阿修羅が先回りしている」

「あいつは妙に勘がいいからなあ」

  阿修羅が天狗岩の前で腰を下ろしていた。

「杖林寺はどこに建っていたのかしら。そこが分かれば夕霧城も見つかるのに・・・」

「うむ、多分、観音山じゃないかと睨んでいるだけど、こんど行ってみようか」

「ええ、行きましょう。ここにいると、サクドガの天女岩を思い出しますわねえ」

「今は、すべてが夢の跡になってしまった」

「どうしたの、阿修羅?」

阿修羅が四肢を踏ん張り、社に続く小道を睨んでいる。待つほどもなく、先ほどの男たちが姿を現した。

「この辺りにお住まいですか?」

男が紅彦に尋ねた。

「ええ、すぐ近くに家があります。どちらから来られたのですか?」

「東京から史跡調査に来ました。この辺り一帯は奥州藤原の以前に安倍一族が統治していたのですが、その痕跡を調べています」

「随分昔のことですねえ」

霞の隣ではまだ警戒を解かずに、阿修羅が身構えている。

「私たちの調査では、かつて、この辺りに杖林寺じょうりんじと呼ばれる寺があったということが判明しているのですが、その所在が特定できないので、今回はそれを調査に来ました。杖林寺のことを聞いたことがありませんか?」

「杖林寺・・・、さあ、初めて耳にする名前ですねえ」

「そうですか・・・」

「どうも歴史にはうとくて・・・」

「この辺りの方で、昔のことに詳しい人はおられませんか?」

「そうですねえ・・・。今すぐには思いつきませんねえ」

紅彦は小首を傾げた。

「ところで、奥さんの横にいる犬は、随分大きいですねえ。日本犬のようですが?」

先ほどから、阿修羅のことが気になっていたのだ。

「元々は秋田犬なのですが、先祖帰りというのか、突然変異なのか、こんなに馬鹿でかくなってしまいまして・・・」

「そうですか、秋田犬ですか」

男たちはそれ以上の会話を避けるようにして、社の方に戻った。

「どうして、杖林寺を知らないと言ったのですか?」

霞が不振そうな面もちで尋ねた。

「あいつら胡散臭うさんくさいから・・・」

「阿修羅が警戒していたし、やっぱり怪しい人でしたわねえ」

「あいつらも修羅の臭いがしていた」

「それを抜かないでくださいね」

このところ持ち歩いていなかった仕込杖無双宗綱を、今日は珍しく手にしていた。色白の霞の顔が一瞬翳かげりを帯びた。

その日は、何事もなく過ぎた。

翌日、紅彦の屋敷が騒がしかった。

サブが彫金師になりたいと言い出し、紅彦の家に押しかけたのだ。勝手に弟子になるつもりでいるのだが紅彦が相手にしないので、サブは阿修羅相手に庭で取っ組み合いをしている。どういう訳か、妙に阿修羅と親しくなって、サブは一向に帰る素振りを見せていない。

「ねえ、サブちゃんを弟子にしてあげたら・・・」

「そうは言っても、あいつに給料を払えるほど稼いではいないしなあ・・・」

「でも、可哀想・・・」

突然、庭先で阿修羅が野太い声で吠えた。

ベンツが走り込んで来て、聞き覚えのある声がした。

「こら、じゃれるんじゃねえ」

阿修羅が来訪者にからみついているらしい。

足音の主が玄関に着いた。

「よお、元気だったか?」

一関市沢で老健施設朱雀苑を経営している宇多雅彦がのっそりと顔を出した。宇多は医科大学の耳鼻咽喉科学講座の講師をしていたが、自分の目指す医療をやると言って独立したのだった。

「先生、珍しいなあ。今日は何の用・・・」

「おめえ、せっかく来てやったのに、何の用だは、ねえだろう」

毛虫のように太い眉の下で、涼やかな瞳が笑っている。

「その風呂敷の中身が本題だな?」

「おめえ、そうやって先走んじゃねえよ。まだお茶が出ていねえだろう」

「あら、すみません。すぐに・・・」

霞に笑いかけながら、宇多は風呂敷を紅彦に手渡した。

「その鎧通よろいどおしの銘を見てくれ」

一尺未満の刀を短刀という。短刀にもいくつかの種類があって、身幅が狭く、重ねが厚いものを鎧通という。合戦の組み打ちの際、敵の腋の下から刺し通したり、討ち取った敵の首を掻き切るときに用いられたものだという。

「どうだ、奥州鍛冶も捨てたものじゃねえだろう」

宇多が珍しくまじめな顔をして、じっと紅彦を見つめている。

「これは・・・」

「いいなかごだろう。化粧鑢けしょうやすりも綺麗なものだ。けんども、紅綱という刀匠は聞いたことがねえなあ。おめえに心あたりはねえかい?」

「・・・」

佩裏はきうら奥州鹿谷狼居おうしゅうししだにろうきょとあるだろう。これがまったく分からねえ」

「・・・」

「あら美しい刃紋はもんですわねえ」

霞が茶を運んできた。

「そうだ、霞さんは刀匠の娘だったよなあ。その造りが分かるかい?」

「紅彦さん、ちょっと見せてください」

「うむ」

「あら、これは・・・、父上の作風にとてもよく似ているわ」

怪訝そうな眼差しで紅彦を見ながら呟き、霞は再び鎧通に目をやった。

「もしかしたら・・・」

「なんだい」

宇多が霞を促した。

「もしかしたら、宗の一字は宗綱の宗で、紅綱は紅彦と宗綱を足したのかしら・・・」

「なんだ、そりゃあ」

よく事情を飲み込めていない宇多が、すっとんきょうな声を上げた。

「先生、私の父は宗綱といいます。先生は知らないだろうけれど、紅彦さんは父上の弟子として刀鍛冶の修行をしていたのですよ。でも、変ですよねえ。紅彦さんはこっちに戻ってしまったし・・・」

霞が小首を傾げた。

「へーえ、そんなことがあったのか」

宇多の瞳が輝いてきた。

「でも、これは父上の鍛えと瓜二つだわ」

浮かない顔つきをしている紅彦に、霞が同意を求めている。

「それを初めて見たとき、どうしてだか分からないけど、なんだか懐かしいものに触れたような気がしたんだよ。どうしてかなあ?」

「紅彦さんもなの。私もこれを見るのは初めてではないような気がしていたの」

「こりゃあ、えらいことになったぞ」

宇多が嬉しそうな顔をしていた。

「先生、今のは何の根拠もないことだ。でも、これは実戦向きの出来のいい短刀だ」

「まあ、その内、おいおい分かるだろう。しかし、おめえから褒められると重みがあるぞ。やっぱりなあ、修羅場をくぐってきた奴の言うことは違う」

「先生、紅彦さんは、何も好んで人を斬ったのではありませんよ」

むきになって、霞が紅彦を弁護した。

「そりゃあ分かってるさ。霞さんを守るためだったんだろう」

「まあ、先生は・・・」

そこに阿修羅が走り込んで来た。

阿修羅の様子が普通ではなかった。

紅彦を見て、一緒に来いといっている。

「何だろう。さっきまでサブと一緒にいたはずだが・・・。ちょっと行って来る」

「私も一緒に行きます」

「いや、霞さんは残っていてくれ」

「サブちゃんに何かあったのかしら?」

霞の顔が曇った。

「俺も行くか?」

宇多が興味深げな顔つきをしている。

「先生はここにいてください」

「気をつけてね・・・」

霞の声を背に紅彦が玄関を飛び出すと、アマゾネスの重い排気音が聞こえ、その音は烏兎ヶ森の山頂に向かって遠ざかった。

阿修羅は、紅彦を天狗岩へと導いた。

 山頂は閑散としており、社には人の気配が無く、サブの姿はどこにも見当たらない。

「おい、阿修羅、何があった?」

阿修羅は仏頂面で紅彦を見つめ、天狗岩の裏側に回り込んだ。天狗岩は傾斜面にもたれ、天空にそびえていた。その斜面にはつたが生い茂っており、それに隠れるかのように、斜面の中ほどにポッカリと穴が開いていた。

「あいつは、あそこに落ちたのか?」

穴に向かう阿修羅の後に紅彦が続いた。

「おーい、そこにいるのか?」

大人がやっと入れるくらいの空洞に顔を入れ、サブの名前を数回呼んでみた。

「ウムムムム・・・」

「サブか?」

「うーん」

思いのほか、近くでうめき声がした。

「少し待ってろ」

紅彦はアマゾネスに戻り、ロープを持ってきた。オートバイを単独で乗る者は、緊急時に備えて一通りの物は準備してある。

「阿修羅、俺がゴーと言ったら、思い切り引っ張れよ。いいな」

阿修羅の首にロープを結わえ、紅彦は人一人がやっと通れる洞穴に潜り込んだ。

洞穴は中に進むほど広くなっており、緩やかに曲がりながら下降していた。入口から五メートルほどの所に、サブが倒れていた。

「おい、大丈夫か?」

「あっ、紅彦さん・・・」

「よし、もう大丈夫だ。今からお前を引き上げる。どこか痛いところはあるか?」

「腰が・・・」

「よし、少し辛抱しろよ」

サブの身体にロープを巻き付け、阿修羅に合図を送った。

二人が地上に出ると、霞と宇多が心配そうな顔で待ち構えていた。

「あれっ、先生も来ていたのか?」

「あれはねえだろう。霞さんが胸騒ぎがするというんで、車を飛ばして来たんだぞ」

「よくここが分かりましたね?」

「あの馬鹿でかい爆音を聞けば、どこにいったかすぐに分かるだろうよ」

サブの身体に巻き付けたロープを解いて、霞がサブを介抱していた。

「先生、サブを診てやってよ」

「おお、忘れてた」

笑いながらサブに近づいた。

「先生、打ち身だと思います」

穏やかな顔で霞が言い切った。

「どれ・・・。ああ、これは単なる打撲だ。霞さんの診断どおりだ」

「ほんでも、だいぶ痛えぞ。ほんとかよ?」

不安そうな表情でサブが宇多を見た。

「俺の診立てに不服でもあんのか?」

「いや、疑ってはいねえけどよお」

「まあ、とにかく一旦紅彦の家に戻ろう。サブは念のためにレントゲンを撮っておくか」

宇多が霞の方を向いてウィンクをした。

「紅彦、その犬はたいした奴だなあ」

「ああ、少し単純なとこを除けばね。先生、霞さんを連れて先に戻ってください。俺はあの穴を塞いでから帰ります」

大げさに痛がっているサブをベンツに乗せ、霞たちは烏兎ヶ森を下っていった。

何を思ったのか、阿修羅はベンツを護衛するかのように霞の後を追いかけていた。


一関市田村町に、黒野組という土建会社がある。社長は後藤進といい、先代の女婿じょせいである。年齢は五十代半ば、かなり灰汁あくの強い男で、不動産から建築まで手広い商売をしており、地元ではり手と言われている。

事務所に千葉景子という、二十代半ばの事務員がいる。景子はサブの姉で、地元の高校を卒業してから二年ほど仙台市内のブティックに勤めていたが、店の女社長の紹介により黒野組に就職したのだ。

事務所では、いつものように昼食後の雑談が花を咲かせていた。

「・・・それでねえ、あいつは背中と腰を嫌と言うほど打って、気絶したんだって。元暴走族もだらしないわよねえ」

「サブちゃん大丈夫なの?」

相川美紀が心配そうな顔をしていた。

「平気よう。青痣あおあざをこしらえただけよ」

「骨は折れていなかったの?」

「あいつは悪運が強いのよ。それよりもね、あいつが落ちた穴が、なんか怪しいらしいのよね」

景子は話し出すと止まらなくなるのだ。

「怪しいって?」

二つ年下の美紀は、好奇心の固まりのような顔で次を急かせた。

「うん、美紀は烏兎ヶ森って知ってる?」

「聞いたことがありそうな気がするけど、どの辺りかしら・・・」

「舞草中学校は知ってるでしょう?」

「ええ・・・」

「それよりももう少し東の方にね、鎮守の杜のような山があるのね、それが烏兎ヶ森よ」

景子は一息ついて美紀を見た。

「ああ、それなら知ってるわ」

「そこの山頂に天狗岩と呼ばれている大きな岩があってね、あいつは馬鹿だからそこに登ったんですって。そしたら足を滑らせて落ちたところが、何とポッカリと穴が開いたんですって。あいつはそこに吸い込まれたんですってよ。ほんとに馬鹿でしょう」

景子は、面白くて仕方がないという風に話している。

「あの森は神聖なところなんでしょう?」

美紀は小さい頃、祖母にあそこには近づくなと教えられていたのを思い出した。

「そうよ」

「でも、どうしてそんなところに行ったのかしら?」

美紀が首を捻った。

「烏兎ヶ森の麓に、藤原さんという彫金師が住んでいるんですって。何を考えているのか、あいつは藤原さんの弟子になりたくて、毎日そこに通っているらしいわ」

「彫金師、かっこいい。それでサブちゃんは弟子入りしたの?」

美紀が目を輝かせている。

「それがねえ、全然許可がおりないんですって。でもね、そこの奥さんが美人で、とても優しいんですってよ。どうも、あいつは、その奥さんのファンになったらしいわ」

景子が口を尖らせた。

「ふーん、でも、どうしてその穴が怪しいのかしら?」

思い出したように美紀が話を元に戻した。

「それよ。その穴に落ちたときにねえ、一瞬だけど黄金の観音像を見たような気がしたんだって。目から出た火花のせいかどうか、分かったものじゃないけれど、昔からあの杜には蝦夷えみしの財宝が眠っていると伝えられていたから、もしかしたら、そう考えてもおかしくないでしょう」

「なんか胸がラクワクしてくるわ」

美紀が興味を示してきた。

「随分賑やかだねえ」

事務室に営業部長の山科浩二が姿を現した。

「何だって、財宝がどうしたって?」

「部長、誰も財宝が見つかったなんて言ってませんよ」

景子が二人の間に割って入った。

「なんかロマンを感じさせる話だねえ」

美紀を見つめながら、山科が話の仲間に入ってきた。

「へーえ、部長もロマンティストのところがあるんだあ・・・」

景子が山科をからかった。

「これでも、若い頃は色々なものに夢を描いていたんだぞ」

「それは、お見それいたしました」

「それで景子ちゃん、その穴がどうしたっていうの?」

「どうもね、その穴の奥には何か曰くがありそうなのよね」

「ふーん、それじゃ美紀ちゃん、今度の休みにそこに行ってみようか?」

「部長、二人だけというのは、そっちの方こそ怪しいですね。何か、不倫の臭いがしてきますよ」

「おーっと、そんな風に聞こえた。それはまずかったなあ。俺が景子ちゃんを置いてけぼりにする筈がなかろう。勿論、三人でハイキングだよ」

「部長はいつもお上手なんだから・・・」

「よーし、そうと決まったら、役割分担だ。俺はビール当番で、二人は手作り弁当当番だな。楽しくなってきたぞ」

山科が嬉しそうな表情をした。

そのとき、山科の携帯電話が音を立て、話はそこで中断された。

景子が席に戻ると、応接室にコーヒーを運ぶようにと、後藤から内線電話が入った。応接室には、あまり上等とは言えないレザー張りのソファーが二組置かれている。そこで、四十歳前後の女性が、後藤と向かい合って談笑していた。

「元気だったかしら?」

部屋に入るなり、景子に声がかけられた。

客は安東恵だった。景子が仙台市にいたとき勤めていたブティックの女社長だ。

「千葉君、安東さんがこちらに来たのは、商売だそうだ。君は烏兎ヶ森の草庵そうあんを知っているかね?」

「草庵ですか?」

「草庵って屋号のようなものよねえ。藤原さんという彫金師を知ってる?」 

恵が後藤の後を引き継いだ。

「お会いしたことはありませんけど、お名前だけは存じております」

たった今、事務室で口にしていた名前を忘れる筈がない。

「すまないがねえ、安東さんを草庵まで案内してくれるかい」

後藤が景子を呼んだのは、恵を紅彦の家に案内させるためだった。

「今すぐですか?」

「うん、今晩には仙台まで戻らなくてはならないそうだ」

「そうですか、では、車の用意をして参りますのでしばらくお待ちください」

景子が応接室を出た後、後藤と恵は声を落として二、三言話し、お互いの目を見て含み笑いをした。

番台川沿いの道をアウディが走っていた。

「景子さん、今の仕事に代わってから何年になるかしらねえ?」

「その節はお世話になりました。あれから二年になります」

「そう、早いわねえ。私もおばあちゃんになるわけよねえ」

「あら、社長さんは若いですよ。私たち圧倒されますもの」

「それはいい意味で?」

「はい」

「ほっほっほほ」

アウディは静かなエンジン音を響かせ、紅彦の屋敷の粗末な門を潜った。

 納屋の横にある楓の大木が、夕陽を浴びて色鮮やかに葉をそよがせ、秋の終わりを告げていた。


男女三人が烏兎ヶ森にいた。

晩秋の陽が柔らかく社の屋根を照らし、冬の装いを始めた広葉樹が一枚一枚と静かに葉を落としている。

今日も白頭烏が老杉の梢から来客を見下ろしていた。

「美紀ちゃん、天狗岩はこの裏の方かな?」

「部長、景子さんに聞かなくては駄目じゃないですか」

「ああ、そうだったか」

山科が頭を掻いた。

「部長は、美紀ちゃんしか目にはいらないんだから、仕様がないわねえ」

景子を先頭に、三人は社の裏に続く道を進んでいた。

「おお、あれだ」

天狗岩は辺りを睥睨へいげいするように、毅然とした姿で屹立していた。

「部長、ここはサンクチャリなんですよ。ちゃんと神様にお参りしませんと、どんな天罰が下るか分かりませんよ。おばあちゃんがよく言ってたわ。仏様は人を罰しないけど、神様は怖いって・・・」

半ば真面目とも受け取れる表情で、景子は山科をたしなめた。

「おいおい、景子ちゃん、おどかしっこなしだよ」

 山科は天狗岩に近づいていた。

「おお・・・」

山科が思わず仰け反った。

白頭が山科の頭上を<かすめ、天狗岩の頂上に降り立ち、三人を見下ろしている。

「なんか不吉な感じねえ・・・」

「なんだ、たかが烏じゃねえか。驚かすんじゃねえよ」

気を取り直すように、山科はベランメエな口調で白頭を罵った。

社の方から軽い足音がした。

「あれっ、ここで何やってんだ?」

サブがやって来たのだ。

「サブ、会社の部長さんよ。挨拶ぐらいしなさいよ」

「どうも・・・」

「すみません。弟の三郎です。世間知らずでろくな挨拶も・・・」

景子が恐縮して山科に頭を下げた。

「君が三郎君か。腰の打撲は大丈夫なの?」

「うん、もう大丈夫みてえだ」

「そうか、若いって事はいいなあ。ところで三郎君が落ちた穴はどの辺だったの?」

山科が天狗岩を振り返った。

「キャーッ」

美紀が黄色い声を上げた。

「どうした美紀ちゃん・・・。おおーっ」

またもや山科が仰け反った。

社の方から、子牛ほどもある犬がのっそりと姿を現したのだ。

「心配ねえよ。阿修羅って言うんだ。俺の師匠とこの犬だよ」

阿修羅はサブの横に来て、三人をかわるがわる眺めた。

「こいつが俺を助けてくれたんだ」

「大きい犬ねえ。こんなに大きいのは初めて見るわ」

美紀は、まだ心臓の動悸が治まっていないような顔をしていた。

「紅彦さんから、あまり人に教えるなと言われているんだけど、まあ、姉ちゃんなら仕方がねえか・・・」

そう言いながら、天狗岩の裏側に山科たちを連れて行った。

「ほら、あそこだよ。紅彦さんが蔦で入口を隠してあるから、よく見ねえと分かんねえけど・・・」

サブが指さす方向に、それらしきものがあった。

山科がそこに行こうとしたとき、サブの横にいた阿修羅がいきなり走り出し、躊躇わずに穴の中に消えてしまった。

しばらくすると、奥の方から阿修羅の唸り声が微かに聞こえてきた。

「どうしたんだんべ?」

サブが不安そうな声を出した。

「中に熊でもいたのかな?」

山科も度肝を抜かれたような表情をして、かたわらのサブを見つめた。

「まあだ冬眠には早かんべ。それにここには月の輪はいねえぞ」

「どうしたのかしら?」

美紀がサブの横に並んだ。

四人が注視する中、入口の辺りで石が崩れる音がして、阿修羅に追い立てられるように男がい出してきた。

「キャーッ」

美紀が仰け反り、サブにすがりついてきた。

「何だおめえは?」

  サブも元暴走族の沽券こけんがかかっていた。

「驚かせてすいません。いきなり大きな獣がやってきて・・・。まだ中にいる・・・」

よほど驚いたと見えて、平岩は肩で大きく息をしている。

「獣なんかじゃねえよ。あいつは犬だよ」

「しかし、べらぼうに大きかったぞ。あっ、あのときの・・・」

待つほどもなく、穴から阿修羅がのっそりと這い出てきた。走り込んだときの獰猛そうな顔つきは影を潜め、時折見せるあの呆けた表情をしていた。

「なあんだ、あんたは阿修羅と会ったことがあったんかよ?」

「ええ、一度だけ。以前この場所で・・・」

「へー、そうだったのか。どおりで阿修羅が噛みつかねえ訳だ」

サブが一人で納得していた。

「ところで、あの中に何かありましたか?」

二人の会話を黙って聞いていた山科が、横から割り込んできた。

「中はどうなっているのですか?」

とうとう堪えきれずに景子が口を挟んだ。

  四人の目が平岩に注がれていた。

「いやあ、いきなりあの中に落ちてしまったので、無我夢中でそんなことは思いもしませんでした」

「ここにはお一人で来られたのですか?」

山科は営業部長らしく、実にソフトな口調で話しかけていた。

「ええ、今回は一人です」

「私は山科と申しますが、お名前は?」

「申し遅れました。平岩と申します」

「大変な目に合われましたねえ」

山科に余裕が出てきた。

「さあ、私はこれで失礼します」

平岩はさりげなく阿修羅を見て、足早に社に続く小道の中に姿を消した。

「姉ちゃん、何しに来たんだよ?」

「今日はピクニックなのよ」

「それは分かっているけれど、何もこんな所にわざわざ来なくてもいいじゃねえか」

「三郎君が落ちた穴に何かあるんじゃないかということになってね、それで興味津々で見に来た訳なんだよ」

山科がサブをなだめた。

「姉ちゃんはおしゃべりなんだから・・・」

「まあ、いいじゃない」

「よかねえよ。紅彦さんたちは、何か真剣だったんだからさあ」

「ますます興味をひくなあ」

山科がやんわりと二人を取りなした。

「せっかく来たんだから、ほんのちょっとだけ中を見ようか」

柔らかな物腰とは裏腹に、山科は結構図太いものをもっている。

「ええーっ、危険ですよ。部長さん」

美紀が後込しりごみした。

「ちょっとだけならいいじゃないか」

「私たちはここで待っていますから、部長さんだけどうぞ」

景子も中に入る度胸はなかった。

山科が洞穴に向かって斜面を登り始めたとき、阿修羅が行く手を塞ぐように立ちはだかり、牙を剥いて阻止しようとした。

「おい、何だよ」

山科が立ち往生している。

「ピューイ」

鋭い口笛が境内から発せられた。

皆が一斉に振り返ると、総髪を無造作に後ろで束ねた紅彦が作務衣姿で立っていた。その横には霞が寄り添っており、静かな瞳で四人を見つめていた。

「阿修羅、もういいぞ」

阿修羅が霞の側に来て尾を振った。

「綺麗はひとねえ・・・」

「先日お会いしたときは和服を着ていたけど、洋服姿も素敵だわ」

景子と美紀の目が霞に注がれた。

「こんにちは。私は山科と申します。ここにいる三郎君のお姉さんと同じ会社で働いております」

「私は藤原です」

「師匠、こんな時間に散歩ですか?」

サブが話に割り込んできた。

「その、師匠というのはよせよ。まだお前のことを弟子にした覚えはないんだがなあ」

「そりゃあないよ、師匠。奥さんは弟子になってもいいと言ってくれたんだから・・・」

サブがふくれっ面をした。

「すみません。弟がご迷惑をおかけいたしまして・・・」

景子が頭を下げた。

「先日は失礼しました」

紅彦は、景子が安東恵と一緒に草庵を訪ねてきたときのことを言ったのだ。

「いえ、あの節は、こちらこそ失礼いたしました」

景子が軽く会釈した。

「なかなか面白い弟さんですよ。今どき珍しく覇気があるし・・・」

紅彦は穏やかな笑顔を浮かべていた。

「よろしくお願いいたします」

眩しそうな目で紅彦と霞を交互に見て、景子が頭を下げた。

「サブ、洞窟の入口を元通りにして来いよ」

「洞窟・・・、ヨッシャー」

紅彦から初めて指示らしき言葉をもらったサブは、意味不明な言葉を発して斜面を一気にかけ登った。その後ろに阿修羅がくっついて行った。

「私たちはこれからお昼にしますが、もしよろしければご一緒にいかがですか?」

「沢山ありますから・・・」

美紀は一目見たときから霞のファンになってしまった。

「先生、たまには気晴らしにそうすんべよ」

斜面の中腹からサブが声を張り上げた。

「せっかくですが、これから用がありますので・・・」

「師匠、いいべよ」

 サブが慌てて斜面をかけ降りて来た。

「せっかくだから、サブちゃんがお付き合いをしてあげたら・・・。私は紅彦さんとタマさんの家に行かなければならないの」

霞が助け船を出した。

「そうかあ、そんじゃあ仕方がねえな。そんじゃ、俺がゴチになるか」

サブは霞に言われると弱いのだ。

「サブ、その言い方はないでしょう。まったくガキなんだから・・・」

「まあ、いいじゃないか」

鷹揚な言い方をした山科が、阿修羅を伴って社の境内に去っていく紅彦と霞の後ろ姿を見つめていた。

 景子と美紀もそれぞれの思いを込め、二人を見送っていた。


仙台駅近くのホテルに黒木と平岩がいた。

古ぼけた絵図面の傍らに、航空写真を拡大して作製した精巧な地図が置かれており、そこには以前調査したときの記号が朱で書き込まれてあった。

天狗岩の西北に×印が付され、それを起点に卍の印までの間を曲がりくねった朱色の線が引かれてあった。卍のところは池のように大きな空間が描かれている。

「平岩君、ここのスペースはどれくらいあるのかね?」

「はい、武道場の約五分の一程度だろうと思いますが、その地点で邪魔が入りまして・・・」

「邪魔・・・?」

「はい、以前、馬鹿でかい犬に出会ったのを覚えておられますか?」

「うむ」

「あいつが暗がりからいきなり現れまして、正直言って驚きました。熊が出たのかと思いましたよ」

「そうだったのか。しかし、偶然にしては出来過ぎた話だな」

黒木が宙を仰いだ。

「あんなにでかい秋田犬がいますかねえ?」

「あの男はいなかったのか?」

「はい、どこにも。ハイキングの男女が四人おりましたが、あの男とは無関係のように思います」

「調べてみたのか?」

「これから・・・」

平岩の顔色が変わった。

「うむ、あいつは、何度も修羅場をくぐった面をしていた」

黒木は紅彦のことを考えていたのだ。

「はい、私もそのように見ました」

平岩が相槌を打った。

「それらしき物は発見できたのか?」

黒木がモンブランの万年筆で、卍の地点を指した。

「はい、そこは激しい落盤があったようでして、一番奥に漢音像が刻まれておりましたが、それは金で象眼されたもので、なかなかのものでした。それを調べようとしたとき、あの犬に邪魔されたのです」

「あの男を探っておいてくれないか。どうも嫌な予感がする」

「黒木さん、百舌もずはいつ決行しますか。準備が出来次第やった方がいいと思います」

「まず、初めは烏兎ヶ森、それから次にここを捜索だ」

平泉との境界辺りを指し示した。

黒木たちは、今回の作戦を百舌と名付けていた。J作戦というのは、黒木と梶たちの間で決められたもので、平岩たちには教えられていなかった。

「そっちの方は俺に任せておけ。ボスに連絡したから、間もなく発掘許可が下りるよう手筈は整えてある。本省を通して県の担当課には話が通じている」

「あの男が変な動きをしたときは、逮捕してしばらくぶち込んでおきますか?」

平岩が口を歪めた。

「それは君の判断に任せるが、あの男は下手に刺激すると危険かもしれないぞ」

背筋が凍りつきそうな冷たい目で、黒木が平岩を睨んだ。


その頃、紅彦と霞も仙台にいた。

阿修羅は目立ちすぎるので、サブに任せて一関に置いてきた。

 宗雅堂という骨董屋で、主人の水澤宗夫と会っていたのだ。水澤は六十歳を幾つか過ぎた年齢で、三十年前から、仙台駅に近い花京院の一角に粗末な店を構えている。店には従業員はおらず、一人で切り盛りしていた。

「水澤さん、面白い物が出たって言ってたのは、どんな物ですか?」

紅彦の隣では、霞が物珍しそうに飾り棚を眺め回していた。

「これを見てごらん」

奥から古びた小さな箱を持ってきた。

「随分古そうな物ですねえ」

長い年月を経て、風格を帯びた木箱の蓋の裏には、墨痕鮮やかに揮毫<きごう>されていた。


蝦夷首長阿手流為あてるい遺物

遊霧山杖林寺 第九世住職 弘忍

    恵心院    僧侶     空齋


中には、絹織物に包まれた純金の首飾りが入っていた。それは、いかにも蝦夷を思わせるような黒百合を形取っていた。

「これは・・・」

 紅彦が絶句した。

「まあ・・・」

霞の顔が青ざめている。

「どうしたんだ。それに何かあるのかい?」

二人の愕然とした顔を、水澤が怪訝そうに見つめた。

「紅彦さん・・・」

「うむ、奇遇きぐうだ」

霞が紅彦の腕をしっかりとつかんでいた。

「紅ちゃん、訳を話してごらんよ」

水澤は、二人のただならぬ様子が気になっていた。

「水澤さん、これをどこで手に入れたの?」

「うん、どうしようかなあ。骨董屋は仕入先に関しては秘密なんだけど・・・。紅ちゃんとは長いつき合いだし、信用のおける人だから、隠さずに教えてあげるよ」

「すみません」

「これは、ある老人ホームで亡くなった女が持ってたのさ。その女は旧家の生まれでね、戦前は一関市郊外に大きな屋敷を構えて、格式の高い家柄だったそうだが、終戦後の農地解放で没落の一途を辿ったそうです。お子さんが一人もなく、屋敷を人手に渡して老人ホームに入ったそうです。ご本人は、自分はその箱書きにある弘忍に縁がある者の末裔で、それも自分で絶えてしまうと言っていたそうですよ。その首飾りは家宝で、先祖代々当主が相続したということで、どんなことがあっても手放すことはならん、いずれの日にか、それと同じ物を持った女が現れるから、その人にそれを渡すようにという遺訓が伝えられていたそうです。その女も、それが心残りだったのでしょう。ヘルパーの方にそれを託して息を引き取ったそうです。そのヘルパーは私の縁戚でして・・・。そのような訳で、好事家が集まる私のことに置いておけば、そう言う機会もあろうかということで、頼まれている物なのですよ」

ゆっくりとした口調で水澤が語り終えた。そして、その穏やかな瞳は、霞に柔らかく注がれていた。

「そうだったのですか・・・」

紅彦は霞を見た。

「弘忍様の姉上の子孫かもしれませんわね」

誰にともなく霞が呟いた。

「さあ、次は紅ちゃんの番だぞ。さっきの驚きは普通じゃなかったぞ」

「霞さん、それを・・・」

意を決したように、霞が首に下げていたペンダントをはずして、それを水澤に差し出した。濃紫色の組紐がついたそれは、目の前の首飾りとまったく同じ形をしていた。

「おおっ、これは・・・」

水澤も言葉を失っていた。

「水澤さん、それは双子のようでしょう」

「・・・」

「水澤さん、心当たりはありませんか?」

紅彦は水澤の顔色をうかがった。

「あっ、・・・」

「思い出しましたか。その首飾りの裏に、文字が刻んであります。未来転生贈霞殿という意味が、お分かりでしょうか?」

「・・・」

水澤の目が先を急がせている。

「その意味は、現代に現れる霞にそれを渡すようにということなのです」

「・・・」

「つまり、弘忍と空齋は、霞さんが必ず出現することを知っていたのです」

「どういうことですか、それは・・・?」

「これから話すことはすべて真実です」

「紅ちゃん、中に入って座ろう。私は立ちくらみがしてきたよ」

紅彦は隠さずに話した。

「すぐには信じられないような話だ。でも、目の前にいる霞さんを見ると、これは疑うものではない・・・」

紅彦は、水澤が冷静さを取り戻すまで静かに待った。霞は終始無言で、紅彦の話しを聞いていた。

「そうか、そういうことだったのか。一千年以上これを守ってきたのは、自分たちのことを伝えるためだったんだ。それにしても、よく遺訓を守ってきたもんだ」

「照れ屋の弘忍様らしいわ」

ポツリと霞がつぶやいた。

「では、これは霞さんにお返ししよう」

水澤が木箱を霞に差し出した。

「これで漸く謎が解けたよ。宇多先生が妙なことを言ってたのが・・・」

「宇多先生は何を言ったのですか?」

「紅彦さんは、この世の者とは思えないほどの美人を連れ帰って一緒に住んでいる。私にも一度会っておけと言うんですよ」

「先生らしい言い方ですねえ」

「紅ちゃん、一度無双宗綱を見せてくれないかい。奥州鍛冶宗綱の太刀は、まったく残っていないんだよ。多分、江戸時代に茎を大磨上げにされて、銘が落ちてしまったのだろうと思っていたんだが、これでまた楽しみが増えたよ」

努めて冷静さを装っている水澤と別れ、アマゾネスは青葉城址に向かっていた。タマさんの土産にズンダ餅を買い求めるため、寄り道をすることにしたのだ。真っ黒いフルフェースのヘルメットをつけた二人が、青葉通りを走り抜けて行った。


一関市田村町の黒野組では、後藤社長が山科の話に聞き入っていた。

「それで、そこには、ほんとに財宝が眠っているのかね?」

「調べてみなければ分かりませんが、かなり確実性のある話だと思います」

「その藤原という男は何者なんだね?」

「彫金師です」

「何でその男が関係があるのかね?」

「千葉から聞いたところによると、藤原は半年ぐらい行方不明になっていたそうでして、ひょっこり帰ってきたときには、霞という女が一緒だったというんですが、その女には何か謎めいたものがあるそうです」

「謎めいた・・・?」

「記憶喪失とかで、ここに来る前のことが一切分からないと言うんですが、どうもどこまで信用できるものやら・・・」

「それは誰に聞いたのかね?」

「千葉の叔母が、藤原の住んでいる屋敷の家主でだそうでして、その叔母がそのようなことを言っていたそうです」

「ふーん」

「ですが、社長、その女は滅法美人なんですよ。なかなかあの手の女には、めったにお目にかかれませんよ」

「一度会ってみたいもんだな」

後藤が下卑た笑みを浮かべていた。

「その女が一風変わった、なにやら意味のあるペンダントをいつも首に下げているそうです。何となくそれが気になりますねえ」

「ペンダントなあ・・・」

後藤は、昨日、恵にプレゼントしたネックレスを思い浮かべていた。

「千葉も、あのペンダントは相当古いものだと言ってました」

「そりゃあ、値打ちがあるのかね?」

「純金のような輝きをしているというのですが、手に取ってみたわけではありませんから、真否のほどは判明しません」

「それじゃあ、ただのペンダントだろう?」

「それがですねえ、どうも蝦夷の隠し金山に結びつく代物らしいということなんです」

「そりゃあ、いい加減な話じゃねえのか?」

「いいえ、千葉の叔母がそんなことを言ってたらしいですよ」

「それを譲ってもらおうか?」

後藤が貪欲そうに眼を光らせた。

「社長、あまり手荒いことは避けておいた方がいいですよ。会社も軌道に乗ってきたところですし・・・」

「鉄門を使うか・・・」

後藤が呟いた。

鉄門とは、佐藤誠之助が組長をしている暴力団鉄門一家のことだ。

「よし、明日仙台に行ったとき、ちょっと寄ってくる」

山科は後藤の性格を熟知しているので、歯止めをかけるつもりが、かえって逆の結果を導いてしまったことに気づいた。

「社長、自重してください」

「ああ、分かってる」

山科は社長室を後にした。


烏兎ヶ森に霞とタマがいた。

二人は竹籠を腰に結わえており、その中には木株茸が沢山入っていた。奥州の秋もいよいよ押し詰まり、初冬を迎える山肌には霜が降るようになっていた。楢茸ならたけや山取シメジなどが、秋の終わりを告げている。

  森は広葉樹が葉を落とし、随分と見通しが良くなっていた。

タマの大きな声が森に響き渡り、二人から離れた場所で、兎の穴を悪戯している阿修羅が聞き耳を立てていた。

「霞さん、昔の方が沢山採れたんべ?」

「ええ、沢山ありましたよ」

「茸はよく採ったのかい?」

「ええ、大事な食料でしたから・・・」

「そうだよねえ。今の奴らは、食べ物を粗末にするから、罰が当たるよ、ほんとに。まったく、自分勝手な連中が多くて、厭になっちまうよ」

烏兎ヶ森は、この地域では神域とされているので、流石に粗大ゴミを捨てに来る者はいなかったが、それでも近隣の林には、テレビや冷蔵庫などあらゆるゴミを捨てに来る者が後を絶たなかった。

「今日は紅ちゃんは何をしてるんだい?」

「先だって頼まれた物が、約束の期限に間に合わないと言って、家で捻り鉢巻で仕事をしています」

「そうかい。そんじゃ、仕事は順調なんだ。そんで、サブは真面目にやってるんかい?」

タマは、ずっと気になっていたのだ。

「サブちゃんは以外と器用だし、本当は気が優しいのですよ」

「あの子は、学校の勉強が嫌いで暴走族になったんだっちゃ」

「学校のことはよく分からないけど、色々教えてもらえるなんて面白いと思うけど・・・」

「霞さんは聡明だからねえ・・・」

二人が中腹から山頂に向かっているとき、山頂近くで、阿修羅の怒号が聞こえた。

「どうしたんだんべ?」

「何があったのかしら・・・」

二人は急斜面を斜めに進み、激しい息遣いが交錯している場所へと急いだ。

「霞さん、あれは・・・」

タマの指差す方角に、阿修羅と二頭のドーベルマンが対峙していた。

「阿修羅・・・」

思わず霞が呟いた。

ドーベルマンは阿修羅の気迫に押さえられて、双眸に恐怖の色を浮かべ、動きが止まっていた。ライオンにさえ襲いかかるように訓練されているドーベルマンも、幾多の修羅場を潜ってきた阿修羅の前では、格の違いが明らかであり、身動きがとれないのだ。

この光景を太いブナの木の陰に佇んで見つめている男がいた。

男は口に犬笛をくわえていた。

長い対峙の後、ドーベルマンが二手に分かれて、阿修羅の左右から素早い攻撃を仕掛けた。一瞬の動きは阿修羅の首筋を狙い、禍々まがまがしく獰猛な牙は、阿修羅の頸動脈を噛み切ったかのように見えたが、そのとき阿修羅は地上高く跳躍してドーベルマンを飛び越し、社の境内の片隅に着地していた。

逆上したドーベルマンは、充血した双眸で阿修羅を睨み、二頭同時に阿修羅に向かって襲いかかった。

これを迎え撃つ阿修羅は、自分の間合いギリギリまで引きつけ、結界を越えたときに身体を沈め、低い体勢で左から来る敵に体当たりしてぶっ飛ばし、その位置から右捻りに跳躍して敵の後ろ首を噛み、一瞬のうちに投げ飛ばした。

勝敗は、明らかであった。

そのとき、白頭の烏が男の潜むブナの木に向かって滑空し、男の被っていた帽子を奪って天空に舞い上がっていった。

空を仰いだ男は、以前、黒木や平岩と一緒にいた松田だった。その松田が阿修羅から逃れるように、急斜面の樹林に姿を消した。二頭のドーベルマンは弱々しく立ち上がり、蹌踉<よろ>めきながら、松田の後を追うように森の中に消え去った。


数日後、タマの家が華やいでいた。

顔を朱に染めたサブが気勢を上げている。

 タマが紅彦と霞を晩餐に招いたのだが、サブがくっついてきてしまった。

「このところ、紅ちゃんの周りが騒がしいんでねえかい」

そう言った卓三の顔も、いい加減朱く染まっていた。

「霞さんが綺麗過ぎんだんべや」

ビールを一気に飲んだサブが茶々を入れた。

「皆に迷惑をかけてしまって悪いねえ」

「紅ちゃん、そんな水臭いことは言いっこなしだよ」

「そうだよ。俺たちは仲間なんだから遠慮すっことはなかんべよ」

「サブ、おめえの仲間にされたんじゃかなわねえなあ」

卓三の言葉にサブが頭を掻いた。

「お待ちどうさま。サブ、あんたもうその辺にしときなよ」

タマが山盛りの御馳走を運んできた。

「まあ、サブちゃん茹で蛸みたい」

霞が微笑んだ。

「こりゃあ、すげえや。うちのお袋はこんなの作れねえぞ」

「それはあんたが悪ガキだからだよ」

「そんなことはねえよ」

「そうかねえ・・・」

サブは叔母のタマには、小さい頃から遠慮無しに言いたい放題だった。

「紅ちゃん、この間のこと、霞さんから聞いたかい?」

「ウワン」

土間で阿修羅が遠慮気味に吠えた。

「そうだ、忘れてたよ」

阿修羅にも料理を運んでから、タマは卓三の隣に座った。

「あのひとは何なんだろうねえ、阿修羅にあんな黒お化けのような犬をけしかけて、どこが面白いんだろうねえ。大体がうちの阿修羅にかなう訳がなかろうが」

一気にタマがまくし立てた。いつの間にか、阿修羅はタマの家の犬にされてしまっていた。普段は無口な卓三と二人暮らしなので、誰かと話したくて仕様がなかったのだ。

「夕霧城に関係があるのかもしれないな」

ぼそりと紅彦が呟いた。

「そうだ、この前、仙台の宗雅堂に寄ったとき、霞さんのペンダントと同じものがあったんだって?」

タマには詳しいことを話していなかった。

「あれは、弘忍から霞さんへのメッセージなんだよ」

「へー、実際そんなドラマみたいなものがあるんだ・・・」

二人の会話についていけず、サブがポカンとした顔で、紅彦とタマと霞の顔を代わる代わる眺めている。

「ああ、弘忍らしいやり方だよ」

「弘忍様は紅彦さんと別れるのが寂しかったのだと思うわ」

霞が遠くを見ていた。

「何がなんだか、分かんねえぞ」

サブが口を挟んだ。

「あんたのぼんくら頭で、分かろうっていうことが、無理っちゅうもんだね」

「叔母さん、それはなかんべえ」

サブが角口になっている。

「そんだ、急に思い出したんだけどさあ、私は小っちゃい頃から夕霧のことが気になっていたんだけれどね、歳はとりたくないねえ。すっかり忘れっちまっていたよ。青春時代のことさねえ」

「とうとう、うちの母ちゃんも惚けが入いっちまったか」

「何言ってんだよ。ちょっと待ってな」

タマが奥の部屋から桐匣きりばこを持ってきた。

「これなんだけどさあ、紅ちゃん」

蓋を開けると、中から錦紗きんしゃの袋に入った短刀が出てきた。

「これどうしたの」

紅彦はタマの顔を眺めた。

「それは安倍の家に代々伝わっていたのを、ここに嫁に来るとき持って来たんだよ」

「そんなのあったっけ?」

「なんだ、父ちゃんも惚けちまったのかい」

タマが逆襲した。

「どれ・・・」

紅彦は目釘を抜いて茎を見た。

佩表はきおもてには宗綱の銘が、佩裏はきうらには次のような字句が刻まれていた。


夕霧之光奉納天女之地


「これを見てごらん」

紅彦は短刀を霞に手渡した。

「これは父上の・・・、サクドガの天女岩のことかしら・・・?」

「うん、夕霧城の光輝く物を、天女岩の地に移したことを記録したんだろうと思う」

「やっぱり、これにも弘忍様の臭いがしますわね」

卓三、タマ、サブの三人は、二人の会話を狐につままれたような顔をして聞いていた。

「どうして、この短刀を持ってたの?」

紅彦は話を元に戻した。

「いやあ、なんだかねえ・・・」

「なんだかねえでは、分かんねえべ」

卓三も早く聞きたいのだ。

「自分ではよく覚えていないんだけどもね、爺さんから聞いた話では、物心つかない内からその短刀は自分の物だと言って、離さなかったらしいんだわ。爺さんがこいつは男に生まれ損なったって、いつも嘆いていたって。そんで、それは私が貰ったってことなんだよ」

「先祖代々伝わる物をかい・・・」

この話を初めて聞いた卓三は、呆れた顔でタマを眺めた。

「爺さんの話ではね、何でもね、この短刀は持ち主が現れるまで、自分が預かっておくって言っていたんだってさ」

「宗雅堂のペンダントといい、その短刀といい、妙に因縁めいた話しだなや」

卓三が考え込んでいる。

「その短刀を作ったのが霞さんのお父さんだと、今初めて知ったんだけどさあ、ほんとうに奇遇だねえ」

タマが誰にともなく言った。

「私、サクドガに行ってみたいわ」

「ああ、一度は行かなければと思っていたんだ、あの天女岩に・・・」

「弘忍様は、きっと、紅彦さんに伝えたかったのよね」

「多分、これは空齋の考えだろう」

「そうかもしれませんね」

二人の会話にタマたちは耳を傾けていた。

「タマさん、この短刀は大事にしておいた方がいいよ」

紅彦が短刀をタマに返した。

「なんか、紅ちゃんが謎めいた人になっちまったねえ。遠くに行っちまった気がするよ」

タマがため息を漏らした。

「遠くなもんかい。霞さんを連れてここまで戻って来たがのう」

そう言った卓三も、妙に寂しそうな顔をしていた。

「なんのことだい?」

サブは何にでも興味を示した。

「そうさねえ、サブには時期がきたら話してやっから、それまで待ってな」

タマはいつもの顔に戻っていた。

「そりゃあ、なかんべよ」

「さあさあ、今日は久しぶりの御馳走なんだから、楽しく食べましょ。霞さんも沢山食べねえと丈夫な赤ちゃん産めねえぞ」

「えっ、霞さん妊娠してんのか?」

サブが驚いた声を出した。

「まだよ・・・」

「そうだろう」

「何がそうだろうだよ、サブには十年早い話だよ」

タマの言葉にサブが頭を掻きながら、ビールを一気に飲み干した。この晩は、タマの家には遅くまで明かりが灯り、家の外までタマの豪快な笑い声が響いていた。






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