すき焼き

桜海暁月

積乱を喰らう

「ねえ」

 私は目の前のミイナへ目配せをした。

 自分の意思通りに動かない体が面白いという、自分でもよくわからない気持ちを共有したい。多分そんな感覚だったんだろう。


 私の立つここは上空四千メートル。腕を伸ばして……。──伸ばして、伸ばしたら雲に手が届きそうなくらい雲が近くにある。腕を伸ばした方向はもちろん真向かいにまっすぐ、飛行機の翼と上から見ても後ろから見ても平行になっている。


 私の小さい頃の夢は『もくもく雲』を食べること。

ソフトクリームのようにくるくる渦を巻き、綿あめのようにふわふわしている。小さい頃の私は、この雲を食べられると思っていた。

 だが、中学生の時この雲は『積乱雲』だと知った。局所的に豪雨を降らせて街や田畑を水没させ、電車を止めてもお金を払わないわ、地盤を緩くして土砂を崩し、高速道路をぶっ壊すわ、とんだ悪党だった。


 でもそれがどうした。

 勝手に子供の夢を奪うな。

 私はもくもく雲を食べたいんだ。


 そう思っていたのをミイナが知って、私はミイナに連れられてスカイダイビングへやってきた。

 私の目の前には、視界いっぱいにもくもく雲が広がっている。

「どうかした? 今更怖くなった?」

「かもね」

 ミイナの言葉に肯定の意を示す。まぁ、私の姿を見れば聞かなくたって一目瞭然だろう。なんて言ったって腰と足が引けている。開け放たれているドアから渾身の力で伸ばしてはいるが、現状は腕が機内に止まったままで、手の先が僅かに出ているだけなのだ。

 どうしてだろうか。このプロペラ機が離陸するときも窓から広大な海原を見た時も、恐怖なんて感じなかった。

 すごく『もくもく雲』に触ってみたいのに、なぜか今の私の体は怖がっている。これなら飛ぶことなんて到底叶う状態ではないだろう。

「誰にだって恐怖を感じる瞬間くらい、あるよ。怖いならやめたっていい」

 しかし、こんな上空でやめる事なんかできない。リゾートバイトをしているミイナに割引価格にしてもらい、それでもなお貯蓄をがっつり削って、やっとここまで来たんだ。


「でもやらなくちゃ、ね」

「そうか」

 

 私は意を決してドアの前に立った。ミイナも私の隣に来る。

 しかし私は往生際が悪いようで、飛ぶ前に、ミイナへ一言声をかけた。


「ねえ、もし過去に戻ってやり直せるとしたら、君はどうしたい?」

「……過去に?」

「そ、過去に。いろいろあるじゃん? あの時ああしといたらなあとか、そういうの」

「そだね。ボクにもいろいろある」

「ウチもさ、もうちょっと遊んでたらよかったなーとか、親孝行してあげればよかった

なーとか」

 私はあの時――

「結構遊んでたけどね」

 ん? 遊んでいた?

 私は頭にない言葉を返され一瞬思考が停止した。

 結構真面目をしているのに、揚げ足を取ってくるのは上等なセンスですねミイナさん。いや本当のことだけどもさ。確かに高校時代は遊びに遊びまくってはいたけどさ。もし生きて帰えることができたら覚えとけよ。

「それはそうだけど、もー調子狂うな。まあそんなわけで、ちょっと気になっただけ。いろいろ後悔したことはあるけど、それでも今の自分をちゃんと褒めてあげたいし」

「トウカらしいな」

「はい、この話おしまい。それじゃあ」


 飛ぼうとカラビナと呼ばれる金具を外そうとしたその時、横でミイナが呟いた。

「――ボクは、ボクはすき焼きが食べたいな」

「ん、どうかした? というかなしてすき焼き?」

 トウカは何かすき焼きに思い残していることがあるっていうのか。修学旅行ですき焼きパーティーやろうとしたら鍋がひっくり返っておじゃんになったとか、いざ食べようとしたら肉が鳥だったとかがあったのかもしれない。もし鳥で作ってしまったら硬くなって食べられず作り直しになるだろう。いや、もしかしたらすき焼きに恨みが? 食中毒で一週間入院したとか鍋下のガスボンベが爆発したとかがあったのかもしれない——。

 いつもは何に対しても楽観視してきた私だけど、彼女といると難解な考察をしてしまう。

 そもそもなんで女の子なのに一人称が『ボク』なんだ。

「いや、過去に戻って何がしたいかって。ボクはすき焼きが食べたい。君と一緒にハフハフ言いながらすき焼きが食べたいなって。脂がのった肉をとろっとろの卵に絡めて食べるの。とってもあまじょっぱくておいしいのを、一緒に食べておいしいねっていうんだ」

「……いいね、それ」

 風が強く吹き付けてくる。目の前は一向に真っ白な『積乱雲』である。いつの間にか足の竦みも取れて、いつでも飛べる。

「デザートはゆずと抹茶のアイス。口の中ちょっとやけどしたところにしみるんだ。そして、そしてさ」

「うん、うん。わかるよ、それ」

「そんなこと、してみたかったなあ」

 私はカラビナを手すりから外し、ミイナへ正対する。

「……なんかごめんね、あとありがと。そう言ってくれて」

 そして、私は『もくもく雲』へ向かって、横に倒れるように飛び出していった。

「トウカ!」

 すぐさま私の名前を叫ぶミイナ。

「あはは、そんじゃあねー。さよなら」

 私は空中で仰向けになってそう言い、どんどん上に離れていくミイナへ手を振った。



 これでいいんだ。



 ――――――――

 ――――――

 ――――

 ――

 私の家族は、この雲に食べられた。


 中学校初めての夏休み。快晴と言える晴れわたる空に、突如『もくもく雲』が現れた。それは青いキャンパスに直に飛び出す白い絵具のよう。現実はずっと向こうで『積乱雲』をしているだけなんだろうが、見る限りずっと向こうにあるしここになんて来ないだろう、そう思っていた。



 お父さんは仕事で鉄道会社へ。

 お母さんはパートで百貨店へ。

 弟、カケルはサッカーをしに公園へ。

 今日の私は何もすることがないので、家の二階から空を眺めていた。時々スケッチブックに鉛筆を走らせたり、扇風機の風に当たりに行ったり、水を飲みに一階へ降りて、この暇な時間を全力で潰す。今日はお母さんとお父さん両方とも昼勤務だし、弟は多分夕方まで帰ってこない。まだ先が長い夏休みなのに友達との予定が一切ない私は大丈夫だろうか。

 時計を見ると午前十一時。まだ三分の一しか経っていないことに腹の底からたまった息を吐き出して一人カラオケ行くかと身支度を整え始めた。そしていざ玄関を出ようとした時、何故かお父さんが帰ってきた。お父さんは、午前しか勤務していない割にはひどくやつれていて、私を見るや、行かない方がいいと言ってきた。そしてテレビをつけ、珍しく”ニュース番組”にチャンネルを合わせた。

 隣町がゲリラ豪雨によって浸水している。それが真っ先にテレビに映るや父が鋭い眼光を飛ばす。何かの因果か私の一人カラオケ計画は無惨に潰えてしまった。


 そのまま時は過ぎ、いつの間にか夜の7時になっていた。

 とっくに仕事は終わっているはずの母、門限を過ぎても帰ってこないカケル。いつもならもう食卓を囲んで四人で夕飯を食べている頃だが、今は私一人だけ。停電で暗い食卓には半ば伸び切っているカップラーメンがある。

 ベランダの窓に赫う雷光は私の焦燥をじわじわと掻き立てていた。

 お父さんは車で二人を捜索しに出かけた。何度も一緒に行きたいと懇願したが、お父さんは頑なに私を家から出さなかった。


 3人の死が頭をよぎる。母の仕事場は地下二階。弟の行った公園は河川敷のすぐそば。いずれの場所に行くにも車だとアンダーパスを通る必要がある。

 

 母は、電車が止まっているせいで帰れないだけなのかもしれない。

 弟は、友達の家に泊まらせてもらっているのかもしれない。

 父は、アンダーパスを避けてうまく遠回りをしているのかもしれない。

 私は心配で埋まる心をこじつけで被せ、平静をたもとうと努力していた。


 三日が過ぎた。

 その間玄関の扉は開かれることなく、そしてまたまた四日が過ぎた。

 家族はやはり帰らなかった。

 

 だが、死体が発見されることもなかった。

 三人とも別々の場所にいるはずなのにだ。

 カケルはわかる。河川敷のそばでサッカーをしていたのだから、そのまま濁流に飲まれ川に流されて海に行ってもおかしくはないだろう。しかし、車に乗って行ったはずの父が車ごと見つからず、デパートの地下にいたはずの母が荷物ごと全て消えてしまったのは異常と考えるのが妥当だろう。

 まるで存在そのものが消えてしまったようだ。

 

そのまま行方不明者となった家族は、七年が経過して死亡したことになった。法律上そうできるらしい。

 お骨として戻ってきてもいないのに、この目で死んだところを見たわけではないのに、家族は何故か死んでしまった。

 父や母の遺産は私が全て引き継ぎ、高二だった私は、クラスの中ではお金持ちになっていた。

 心の中から消えていく家族。

 それを追いかけたかったのか、私は遠くの地方に行っては少し遊んで帰ってくるを繰り返した。

 気付けば遺産はとうに底をついていた。



――

――――

――――――

――――――――

 いつかこの手で『積乱雲』に触れれば、なんで家族が死んだのかわかるんじゃないか。そのまま積乱雲に食べられればもしかしたらみんな中にいて、会えるんじゃないのか。本当は、そう思っていたからスカイダイビングに参加したのだ。

 大学の同期であるミイナには悪いと思っている。

 でも、もう『積乱雲』に食べられてしまったよ。


 辺りは陽光をほとんど遮ってしまっていて暗い。しかも所々に稲妻が駆け巡り、いつ私の体を通ってもおかしくない状態だ。

 それでも私は家族を探し続ける。

 暴風に飲まれながら上がったり下がったりを繰り返し、本来のスカイダイビングではありえない時間を空中で彷徨っている。でもここにあるのは氷の礫や水滴だけだ。


 ふと、上の方から声が聞こえた。

 私の名前を叫んでいる。

 お母さんかな?

 そう思ってよく目を凝らすが、残念と言うべきか大変と言うべきか、その正体はなんとミイナだったのだ。

 そして私を見つけるやまっすぐに降りてきた。私の胸にそのまま飛び込み、何も言わずに私を強く抱きしめる。ミイナは目にたくさんの涙を浮かべ、何してるの! と、私に心から激怒した。


 私はミイナに誘導されながら『積乱雲』の中から脱出した。


 私はとても勝手な女だ。外の景色を見ると、ブワッっと涙が目尻にたまる。太陽は沈み始めてはいるがまだ力強くあたりを照らし、海面を赤い銀色に輝かせる。三日月の弧線を描く砂浜とどこまでも続く草原。

 世界は、私が思っていたより綺麗だった。



 家に帰って次の日の朝。ミイナは鍋をもって私の前に現れた。手提げにコンビニの袋をつるし、なにやらいろいろ買ってきたようだ。

 朝食はすき焼きになった。あっつあつの牛肉を卵に絡め、口の中へ放り込む。すると彼女は、袋からソフトクリームを取り出すのだった。『積乱雲』の形状をしたそれは、いつの日か夢見ていた『もくもく雲』を食べる事のようで不思議な感覚を覚えた。

 ソフトクリームを食べた私の心は軽かった。家族が私のお腹の中にいるようで、いつでも内から元気をくれる気がする。目の前ではミイナがゆずと抹茶味のアイスを頬張り、頭を抱えていた。そのしぐさが、どこか弟に似ている気がした。

 

 そういえば、カケルってぼくっ子だった気が——

  


 

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