第二十話

 

 エドワードの書斎は、いつ来ても鬱蒼とした神秘的な森を思わせる。

 重厚なカーテンの隙間から溢れる微かな光。部屋の中心を覆うように壁一面に立つ本棚。そこには、古今東西、多額なお金を費やし集められた物語や詩集、シェイクスピアやマーロウ、ベンジョンソンの戯曲など、あらゆる書物が整然と並べられている。

 ジャンはこのエドワードの書斎が大好きで、足を踏みいれるたびに心が弾むのだが、今回ばかりは違っていた。


「ジャン!君は一体どういうつもりなんだ!僕が推薦したビリーを降ろし、素性のわからない素人をアリアンにするなんて!正気の沙汰とは思えないぞ!」

「違うんだエドワード、降ろしたんじゃない、ビリー自らもう耐えられないとやめてしまったんだ。それについては僕も深く反省している」


 すべての肉を削ぎ落としたような細い身体を震わせ、怒りも露わに抗議するエドワードを宥めようと、ジャンはできるだけ丁寧に事情を説明する。


「お願いだエドワード、どうか僕の話を聞いてくれ。今回のことに関して、多分君は誤解していると思うんだ」

「誤解?ビリーかやめたのも、君がど素人の少年を舞台にあげようとしてるのも紛れもない事実だろう!」


 エドワードがここまで憤るのも無理はない。

 実は、ジャンがロイとヘッドヴァン家に行っている間、トーマスがエドワードに呼びだされ、直ちにジャンを報告に寄越すよう命じられていたのだ。にもかかわらず、ジャンがエドワードを訪れたのは、その日から一週間以上過ぎた公演三日前。

 ジャンのパトロンという立場になってからも、努めて慇懃な態度を崩さなかったエドワードも、今回ばかりはさすがに腹の虫が収まらなかったのだろう。


「本当は劇場に乗り込んでやりたいくらいだったが、僕は君との友情から君が来てくれるのを待った!だがもう限界だ!信頼している人間にないがしろにされる辛さがどれほどのものか!君にわかるか!」


 ジャンにはジャンの思惑や理由があったのだが、それを今エドワードに話すのは得策ではない。エドワードの罵りを黙って一通り聞き終えたジャンは、乱暴な口調にならないよう細心の注意を払い言葉を発する。


「全て貴方の言う通りだエドワード。舞台をより良いものにしたいと必死だったとはいえ、ビリーにはとても可哀想なことをしてしまった」

「ジャン!僕が最も嘆かわしいと思ってるのはビリーのことじゃない!共に演劇を愛してきたはずの君が、素人の少年を我がオーク座の舞台に立たせようとしていることに失望しているんだ!」


 エドワードの言葉に頷きながらも、ジャンは朗々と語りかけるように反論する。


「エドワード、確かに僕が見つけてきた少年は素人だ。だが、僕の厳しい指導に決して折れない精神力と、素人とはとても思えない演技力、そして何より、月の女神アリアンを演じるのに申し分ない美しい容姿を持っている。貴方も一目見れば必ず彼を気にいるはずだ」

「…」

「だいたいこの僕が、何の才能も見出せない少年を、貴方が愛と情熱を持って大切に作り上げてきたオーク座の舞台に立たせるわけがないだろう?お願いだエドワード、どうか僕を信頼して欲しい!」


 ジャンの熱弁に心動かされたのか、エドワードは深く考えこむように押し黙る。

 ジャンの言葉は、エドワードを懐柔するために誇張したものではない。実際ロイは想像以上に飲み込みが早く、真っさらな素人で癖がないことも幸いし、その演技はみるみる上達していった。

 

 ジャンを信じ、女役という羞恥心も捨て、真摯にヒロインを演じようとするロイの姿はジャンの心を打ち、自分の目に狂いはなかったのだと、深い喜びで胸が満たされる。

 そして、同時にジャンは、益々強く確信していくのだ。恋の自覚は、Venusでロイの涙を目にした時だったが、おそらく初めて、アポロンの窓から地上を見下ろすロイを見た時から、自分はすでに、恋に堕ちていたのだということを…


(全く、まさかこの俺が、こんな事で悩むことになるとはな)



「ジャン、その少年は本当に、ビリーよりもアリアンにふさわしいのか?」


 と、エドワードがおもむろに沈黙を破り、ジャンに尋ねてくる。


「ああ、もちろんだエドワード、僕の目に狂いはない!どうか僕を信じてくれ!」


 心が動きかけているエドワードを逃すまいと、ジャンはエドワードの手を握りはっきりと断言した。エドワードは、ジャンを見つめる目に一瞬だけ迷いを見せたが、すぐに頷き、ジャンの手を握り返す。


「わかったよジャン、君の直感を信じる。その代わり、アリアンを必ず成功させてくれ」

「ありがとうエドワード!やっぱり君は、僕を誰よりも理解してくれる大切な人だ!」


 ジャンが飛び上がらんばかりの勢いで大袈裟に喜びエドワードを抱きしめると、エドワードは微かに頬を染め嬉しそうに笑う。


(この人はわかりやすくていい)


 エドワードの自分に対する好意に最初から気づいていたジャンは、過剰なスキンシップと優しい言葉でエドワードを期待させ、微妙な距離を保ちながら、彼の気持ちを存分に利用してきた。恋に焦がれる気持ちを知ってしまった今、ジャンはほんの少しだけ、エドワードに罪悪感を抱いたが、エドワードがジャンの背中に腕を回し胸に顔を埋めてきた途端、そんな罪悪感はすぐに吹き飛ぶ。


「僕にとっても君は大切な人だよ、ジャン!」

「ああ、ありがとう」


(まあ、この人の場合俺に恋してるというより、自分の性的趣向を満たそうとしてる感じだからな、お互い様か)


 冷めた心でエドワードの言動を受け止めながらも、ジャンは今日、オーク座で通し稽古を行っているであろうロイに想いを馳せる。


(もしこの腕の中にいるのがロイだったら、こんな風にロイを抱きしめることができたら、俺は一体どうなってしまうんだろう…)


 想像しただけで胸が高鳴ったが、ジャンは、自分の恋心をロイに伝えることはしないと心に決めていた。なぜなら既にジャンの中には、純粋な愛だけではない、歪んだ欲望も同時に芽生え始めていたから。


『汝姦淫するなかれ』


 今までジャンは、そんな聖書の教えなど糞食らえ、自分はとっくに汚れた罪人だが、神に許しを請うつもりなど毛頭ないと開き直って生きてきた。しかし、ロイに恋をし、自分が彼に情欲を抱いていることに気づいた時、ジャンは生まれてはじめて、自分が罪人であることに絶望したのだ。


 ロイをアポロンから買った自分が恋を成就させようとすることは、ロイに自らの欲望を押し付け、服従を強いることと同じ。

 ジャンを信頼し、頻繁に笑顔も見せてくれるようになったロイに、そんなこと絶対にしたくはなかった。


(なぜ恋と欲望は一体となってしまうのだろう?騎士道のように、愛する人との精神的繋がりだけを追求することができれば、この苦しみから解放されるのか?)


 高級娼館で、恋より先に肉欲を満たすことを知ってしまったジャンには、どんなに考えても、その答えを導き出すことはできない。



「ジャン、今日これから時間はあるかい?実は面白い作品を手に入れたんだ。作者ははっきりわかっていないんだが、君にも是非見て欲しくて」


 しばらくの間、ジャンとの抱擁を堪能しているようだったエドワードが、不意に顔を上げ口を開く。


「エドワード、あなたとこの書斎で文学について語り合えることは僕にとって何よりも代えがたいことだ。そのためなら、時間なんていくらでもあるようにするさ」


 白々しいほど甘い言葉を囁き、ジャンはエドワードを抱きしめる腕に力を込める。

 その脳裏には、もはやどこにいても何をしていても考えてしまう、ロイの姿が鮮明に浮かんでいた。

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