第九話
「奥様、ジャン様がお帰りになられました」
部屋に入るなり、母リディアは、共にやってきたアンナやリリーには目もくれず、一心不乱にジャンの元へ走りより我が息子を抱きしめる。
「ジャン!よかった!帰ってきてくれたのね!」
母に会うのはおよそ1か月ぶりだったが、葬儀の日よりもさらに血色のなくなった顔と、鎖骨が浮き出るほど痩せこけてしまった身体は痛々しく、ジャンは、もっと早く母に会いにくるべきだったと後悔する。
母が憔悴していることは、アンナからの手紙でわかっていたのに、父への反抗心と仕事にかまけ目を逸らしてしまった。その上やっと顔を出したかと思えば、自分が今からするのは金の無心。
「母さんごめん、実は今、新しい舞台の公演を控えていて忙しくて、中々この家に顔を出すことができなかったんだ」
「まあ、そうだったの。相変わらずお仕事頑張ってるのね。私もまた是非観に行きたいわ」
頭ごなしに反対する父と違い、元々演劇好きの母は、ジャンの仕事に理解を示してくれている。そんな母に後ろめたさを覚えながらも、ジャンは、今日きた本来の目的を口にした。
「それが、実は今色々と問題が山積みで、公演できるかどうかの瀬戸際なんだ。こんなことを母さんに頼むのは本当に心苦しいのだけど、50ポンドほどお金を貸してほしい」
言った後、母の目に失望が宿るのを覚悟していたジャンだったが、なぜかその瞳には安堵が滲み出ており、ジャンは意外に思いながら母を見つめる。
「ジャン、あなたがエドワード伯爵ではなく私を頼ってくれてとても嬉しいわ。フランシスともよく話しあったのだけど、あなたがヘッドヴァン家の正式な後継者になった以上、あなたにきちんと伝えておかなくてはいけないことがあるの…」
だがその言葉で、母の態度が、父に何かしら吹き込まれたゆえのものであることに気づき、ジャンは嫌な予感しかせず身構える。
「あなた今、エドワード伯爵と懇意にしているわよね?」
「それはもう、あの人は僕の作品を世に出してくれた恩人だ」
「そう。でもねジャン、どうかエドワード伯爵とはなるべく早く縁を切ってほしいの。
その約束さえ守ってくれれば、私はいくらでもお金を貸すし、あなたの活動の支援だってするわ!お願いよジャン!私の言う事を聞いてエドワード伯爵から離れてちょうだい!」
只事ではない母の様子に困惑しながらも、ジャンは、自分にお金を貸す条件が、演劇をやめることではなく、エドワードと縁を切ることであることに疑問を抱く。
(どういうことだ?母は、父が俺に劇作家をやめさせ、家に戻そうとしているのを知っているはずだ。なのに、エドワードと縁を切れば金を貸して俺の支援まですると?)
舞台を公演するにはパトロンである貴族の支援が必要不可欠だが、ジャンは今まで、演劇関係で母からお金を借りたことは一度もなかった。といっても、基本的に使える武器は最大限に生かそうという性格なので、ヘッドヴァン家の名は頻繁に利用しているし、親の脛を齧ってないとは言えない。しかしジャンは、昔から演劇を見下す父への反発から、劇作家としての金銭的援助や後ろ盾を、なるべくヘッドヴァン家には頼らないようにしていたのだ。
今回はエドワードが推薦した少年をジャンがやめさせてしまった事情が事情なだけに、母に頼る苦渋の選択をしたが、劇作家を続けるための継続的な支援まで申し出る母に、戸惑いを隠せない。
「母さんの支援の申し出はとても嬉しいよ。だけどエドワードは僕の恩人なんだ。理由もなくそんな約束はできないよ」
ジャンの言い分は最もであり、先ほどより幾分落ち着きを取り戻した母は、ジャンに理由を語り始める。
「貴方には言っていなかったけど、私達は前々から、女王陛下の不興を買って宮廷から追いやられたエドワード伯爵とあなたの親しい関係をよく思っていなかったの。だけどアランが、ジャンは彼と組んで政治的に何かしようとする奴じゃない、純粋に演劇を愛してるだけだと言っていて、だから私達も、今までは口出ししないようにしていたの」
ジャンは、自分の自由を守ってくれていた今は亡き兄に心からの感謝を覚えたが、ヘッドヴァン家がエドワードとジャンの関係を警戒していたことに驚愕する。
エドワードが、かつてエリザベス女王の寵臣として宮廷政治の中枢にいたことも、今から10年ほど前、女王の侍女を妊娠させ失脚した事も、勿論ジャンは知っていた。
初めてその話を聞いた時、なぜそんな馬鹿な事をしたのか尋ねるジャンにエドワードが語ったのは、想像をはるかに超えた、女王への深く歪んだ想い。それまで男しか愛することができなかったエドワードが、一方的ではあるものの、初めて恋に落ち、心から愛した女性が、恐れ多くもエリザベス女王その人だったのである。
女王について語る時のエドワードの口調には、常に尊敬と情愛が溢れていた。
特に、スペインの無敵艦隊との戦いを前に、危険な前戦に立った女王が、兵士達の前で行ったティルベリーの演説を一言一句漏らさずジャンに伝える時のエドワードの瞳は、まさに恋する少年そのもので、ジャンはいつもその熱量に圧倒される。
しかしどんなに足掻いても、女王という女神を手に入れることなど絶対にできるはずがない。悩み苦しみ、女性に対して初めて抱く劣情を抑えられなくなったエドワードは、女王に仕えている侍女を、女王を思って抱くことで、自分の欲望を満たそうとしてしまったのだという。
『人間というのは、神が創造した中で一番愚かな生き物なのかもしれない…』
破滅するとわかっていながら、欲望に支配され突き進んでしまったエドワードの気持ちを、ジャンは全く理解することができない。ただ確実に言えるのは、今のエドワードに、政治的な下心など一切ないということ。
「母さん、俺は勿論、エドワードだって政治的な企みなんて持っていない。あの人は女王を心から崇拝しているし、純粋に演劇を愛してるだけだ」
だが、ジャンの確信に満ちた言葉に首を振り、母は、ジャン以上に強く決然とした声で言い放つ。
「ジャン、あなたはまだ若いからわからないのかもしれないけど、巧妙に人を騙すことができる人間というのは、善良な人の皮を被っているものなのよ」
この時、ジャンはようやく、母のエドワードへの嫌悪感が、ただの誤解からくるものではないことに気がついた。
そして、この後語られる母の言葉の中にこそ、ジャンに演劇をやめさせるための父の策略が隠されていたのだ。
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