第八話

(母に会うのは、兄の葬儀以来だな)


 屋敷に入ってからも、相変わらず子どものようにキョロキョロしながら感嘆の声を漏らす素直なリリーに心癒される。

 だが同時にジャンは、父との決別を決意した日の、心臓を乱暴に鷲掴みされるような胸の痛みまでも鮮明に蘇っていた。



「なぜアランなんだ、せめてジャンなら」

「あなた!なんてことを!」


 あの日、ヘッドヴァン家の輝かしい太陽だった兄アランが、乗馬中過って転落するという不慮の事故で、嘘のように呆気なく亡くなった悪夢の日。知らせを受け、矢も盾もたまらず屋敷に駆けつけたジャンは、偶然にも父の本音を耳にした。


 ジャンは閉ざされたドアの前から自室に戻り、兄を失った悲しみと父への憎悪で混乱する気持ちを抱えたまま、声をあげて号泣する。


【主は、アベルとその供え物を顧みられた。

しかし、カインとその供え物は顧みられなかったのでカインは大いに憤って顔を伏せた】

 

 幼い頃、心に引っかかった聖書の一節。

 なぜ神はカインの供物は顧みず、アベルの供え物だけを顧みたのか?答えは簡単だ。神はアベルを愛し、カインを愛していなかった。

 ドア越しに聞いた父の言葉は、とっくにわかっていた事実を、確信に変えただけ。


(まあでも、脚本としてはありきたりだな。人間が起こした最初の殺人が兄弟殺し、しかも理由は自分よりアベルの方が愛されていたからなんて、動機としては陳腐すぎる)


 悲劇の主人公のように泣いていた自分を心の中で皮肉ると、ありし日の兄の声が聞こえてくる。


『ジャンの作る話は面白いな』


 子供の頃から空想好きで、自分で考えた物語を夢中で話すジャンを、父はくだらないと貶し切り捨てるだけだったが、兄はいつも楽しそうに聞いてくれた。思い出の中の兄がジャンに向ける瞳にはいつも、年の離れた弟に対する愛と慈しみが滲み出ていた。


 そう、確かに自分は父に愛されていなかったが、その寂しさや孤独を超えるほどに、ジャンにとって兄は、かけがえのない存在だったのだ。

 いつでも会えるなどど思わずに、もっと沢山会っておけばよかった。もっと生きて、いつか劇作家として成功する自分を見てほしかった。


 その日、兄への憧憬を胸に、父との決別を決意したジャンは、兄の葬儀が粛々と行われた後、両親に何も告げず屋敷から出て行った。

 見るからに弱り果て、悲しみにくれる母のことは心配だったが、父の本心を聞いてしまった以上、ヘッドヴァン家に止まる理由など何もない。しかしこの兄の死こそ、ジャンが父と対峙せざる負えなくなる始まりだったのだ。


 厳格な長子相続制のイングランドでは、家名も財産も長男が全て引き継ぐものであり、次男は聖職者や法律家になるのが常とはいえ、長男ほど将来を束縛されることはない。

 だからこそジャンは今まで、ひたすら脚本を書いて劇場に自分を売り込み、独自のコネクションを作ってきた。そんな地道な活動が身を結び、エドワード伯爵というパトロンも得たジャンは、昨年ついに、カインとアベルをモチーフにした愛憎劇、ディアフォトスが成功し、ようやく仕事が軌道に乗ってきたところだったのだ。


 だが、兄アランが亡くなり、後継者がジャンのみになった途端、父はジャンに、今すぐ屋敷に戻って来いと命令し、兄の婚約者だった、女王の重鎮セシルの娘と結婚しろとまで言ってきた。

 ジャンを愛してもいないのに、お前は兄の代わりだと言わんばかりに自分の意のままにしようとする父に吐き気がする。


 頻繁に下宿先に訪れてくるようになった使者から伝えられる、父の命令や脅しに心底うんざりしたジャンは、トーマスの家に転がり込んだのだが、そんなジャンに、トーマスは冷ややかな言葉を投げかけた。


『でもさあ、俺からしたらお前の悩みは贅沢に感じるぜ、お前だって散々ヘッドヴァン家の名を使っていいとこどりしてきたわけだし、お兄さんが亡くなったからには、逃げずに父親と話し合うべきじゃないのか?』


 トーマスはあの男の本性を知らない。少しでも隙を見せれば、あの男はどんな手を使ってでも、ジャンを自らの操り人形にしようとするだろう。

 しかしジャンは、これから先、たとえ父にヘッドヴァン家から勘当されることになったとしても、絶対に劇作家をやめず、一生作品を書き続けていくのだと決めていた。それだけ、劇作家として成功する夢は、ジャンにそとって生半可なものではないのだ。



「リディア様、ジャン様がお帰りになられました」


 母の部屋の前にたどりつき、アンナが恭しく声をかける。

 全ては、アリアン公演を成功させるため。ジャンは大きく深呼吸をし、母の待つ扉の奥へと進んで行った。


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