キリア -the Shadow Breaker-

岩井喬

第1話【第一章】

【第一章】


 がらんがらん、と荒っぽい鐘の音を立てて、店の扉が開いた。

 おかしい。連中が来るにはまだ早い。それは皆が承知しているはずだ。そして、その頃には全員がここをあとにしているはず。

 それがこの店、『ダーク・フラッグ』の不文律だ。このタイミングでのこのこ来店するなど、気がふれているとしか思えない。


 既に店内にいた客たちは、酔って焦点の合わなくなった目で珍客に睨みを利かせている。

 だがそれは、一方的にその人物を責め立てるものではない。一種の驚きを含んでいる。


 この店に何の用だ? こんな華奢な体躯のガキが?


 そう。一番の驚きは、戸口に立っていたのが子供だったことだ。巨漢でも武術者でもない、あどけなさを残した少年。

 俺はグラスを磨く手を止めて、じっとその姿に見入った。


 薄手だが動きやすそうな長ズボン。羽織っているのは革製のベスト。その下には軽装のプロテクターを纏い、その先から肘までは、細い腕にフィットした白いシャツが覗いている。


 ここまではいい。街中まで行けば、怪物狩りを生業にした連中がうじゃうじゃしている。珍しい格好じゃない。やや若すぎる感はあるが、それでもこの手の少年がいないわけじゃない。


 しかし――。


「マスター、ホットミルクを貰えるかな」


 俺の眼前、カウンター席に腰かけ、ガキはそう言った。


「は、はぁ⁉」


 反射的に、その要望を突っぱねる。


「ばっ、馬鹿言うんじゃねえ! ここは酒場だぞ! 頼むもんを間違えてんじゃねえのか?」


 俺のいつもの調子に、皆も安堵したらしい。ガキの背後のテーブル席から、嘲笑が湧き上がる。


「おめえ、そんなことも知らねえで今まで生きてきたのか? 頼む相手はちゃーんと選びな! 今の坊ちゃんには、ママのおっぱいがお似合いだ!」


 ゲラゲラと哄笑が起きる。しかし、俺はそのガキを前にして、何か只ならぬものを感じていた。

 俺だって、十数年前までは立派な怪物狩りだったんだ。相手がどれほど『ヤバい』奴なのかは、空気で分かる。それも、これだけ近づかれればな。


 俺に焦燥感を与えていたもの。それは、ガキが右目に付けた眼帯だった。

 大きな違和感がある。ただの負傷によるものではあるまい。何かを封印しているかのような、そんな感覚。

 このガキ、一体何者なんだ?


「あれ? おかしいな。マスター、メニューにはホットミルクがあるよ?」


 やや掠れた、しかし若々しい声が響き渡る。まるで、汚泥の中に落とされた一滴の浄化水のように。


 俺は呆けていた。このガキの異様な雰囲気に呑まれていたのだ。周囲の皆は囃し立てているが、それどころではない。今は、素直に注文に応じるしかないな。


「ホットミルクか。ちっと待ちな」

「っておいドン、注文取るのか? 相手はガキだぜ?」


 確かに。店主である俺、ドン・ゴルンとしては、面目丸つぶれと言われても仕方ない。

 だが、そんなちっぽけなプライドを消し飛ばすくらいの空気が、ガキ、いや、少年の周囲には漂っている。

 俺は久々にミルクの入ったケースを開け、匂いを確認。瓶に移してから湯煎した。その間、少年はじっと何かを考えている様子で、背後からのからかいの言葉を完全に無視していた。


「ほらよ、坊ちゃん。ホットミルクだ」

 

 俺はマグカップにミルクを注ぎ直し、勢いよく少年の前に置いた。


「ありがとう、マスター。悪いんだけど、もう一つ頼めるかな」

「あぁ?」


 できる限り低い声で唸ってみせる。俺のプライドの類はどうでもいいが、少年の器というものを、俺は確かめてみたかった。

 圧倒的アウェーなこの状況で、この少年、何を言い出すつもりか。


「カウンターにしゃがみ込んで、しばらく頭を上げないで。皆は勝手に逃げ出すから、心配要らないよ。でもマスターは、ちょっと苦労しそうだから」

「なっ!」


 今度こそ、俺は心の底からおったまげた。


「お、お前、いや、あんた……」

「理由を尋ねるつもりはないよ。でも、足が悪いのは分かる。左足の膝から下、なかなか動かないんでしょう?」

「どうしてそれを……」


 少年は目を上げ、微かに頬を緩めた。


「さっきミルクを取りに行った時、億劫だったみたいだから」


 俺の過去が読まれている。そんな錯覚に陥った。いや、錯覚なのか?

 確かに本人の言う通り、少年が気づいたのは、俺の左足が不自由だということだけ。何があったのかは知らない様子だ。

 だが、あの右目からは、今や尋常ではない『気力』のようなものが発せられている。

 心なしか、店内が少し静まり返ったように思われた。


 その微妙な緊張感を破ったのは、客の一人が上げた奇声だった。


「お、おいマスター!」


 それだけで、俺は状況を察した。


「連中、もう来やがったのか!」


 ざわめく店内。いや、さっきから騒がしかったが、その質が違う。

 陽気に盛り上がっていたのが一気に落ち込み、恐怖の色に染め変えられていく。


「わっ、悪いなマスター、今日はツケにしといてくれ!」

「おいドアの前を空けろ! 早く逃げるぞ!」

「また来るからよ、死ぬなよマスター!」


 どやどやと皆が押しくらまんじゅうを繰り広げた結果、当店唯一の出入り口は無惨にも打ち破られた。

 今度修繕する時は、木製じゃなくて鉄製にするべきかな。本気でそう考える。


「大変そうだね、皆」

「ああそうだよ、ここはこれから酒場じゃんなくて、取引場に変わるんだ。『四つ手の親分』たち盗賊連中の、獲物の交換会ってところだ」


 って、俺は少年に何を説明しているんだか。

 俺の店、『ダーク・フラッグ』のもう一つの顔は、今説明した通り、ならず者たちの集会所だ。

 まあ、さっきまでの客たちが気質かと訊かれると困るんだが。とにかく、彼らとは比較にならない悪党共がやってくる。


 この店の地理的に、魔獣の出る『闇の森』に近く、ひとけは少ない。だから、荒くれ者たちの恰好の飲み場であり、取引場であり、時には密談所に化ける。

 そうして周囲の野蛮な連中たちとの共存を図ってきたのだ。


 そんな事情を知ってか知らずか(いや、知らないに違いない)、少年は静まり返った店内を見渡した。蹴破られた窓、ひっくり返ったテーブル、あちこちでガラス片となった酒瓶。

 少年はそれを、何故か興味深そうに眺めている。興味? いや、違うな。まるで、完全に物体の位置関係を把握するかのように、じっくりと見つめている。


「っておい、あんた!」


 俺は少年の両肩を掴み、無理やり振り返らせた。


「どうしたんだい、マスター? 血相変えて」

「これから来るのは怪物だ、あんたも逃げろ!」

「え?」


 いや、そんなきょとん、とした目で見つめ返されても。こんな無垢な瞳を見たのは何年ぶりか。って、今はどうでもいい。


「大体座る場所が悪いんだよあんた! そこは『四つ手の親分』の指定席だ、命が惜しけりゃさっさと――」

「だぁ~れが怪物だってぇ?」


 少年の肩の上で、ぴくり、と俺の両腕が跳ねる。

 俺と少年の間に上半身を割り込ませてきたのは、二メートル半近い身長の、筋骨隆々とした大男だった。上半身は裸で、両腰にはリボルバーをぶら提げ、背後には大鉈を装備している。ドラゴンの脳天さえ一撃でかち割ったと噂の代物だ。


「お、親分……」

「よう、ドン。景気はどうだ?」

「まあまあだ、そっちは?」

「ちと予定が変わってな」


 すると親分は器用に腕を動かし始めた。何故か二本ずつ両肩から生えた、合計四本の腕を。

 そのうち二つは指を鳴らした。片方は、下っ端に店内に入って来るようにという合図。そしてもう片方は、俺にいつもの酒を出せという指示だ。

 残り二本の腕のうち、一本はカウンターに肘をつき、残る一本は悠々と少年の肩に載せられた。


 これでは最早、救いようがない。少年は即座に頭蓋を粉砕されるだろう。既に死んだも同然だ。本当に何者なんだか。


 そんな諦念に囚われつつ、俺は酒を棚から引き出し、振り返る。すると親分が、少年から腕を離すところだった。

 すっと上がったその腕には、すぐさま血管と筋組織が浮き出てきて、拳からはパキパキと関節の鳴る音が響く。


 ああ神よ、どうか来世では、この少年に幸あらんことを。

 そう思って目を閉じた俺の耳を、轟音が震わせた。親分の代名詞たる必殺技、拳骨の炸裂した音だ。


「ッ!」


 俺は目を閉じ、肉片と化した少年を視界に入れまいとした。しかし、状況は俺の予想を裏切っていた。

 拳骨が落ちるのと同時に聞こえるであろう、骨肉の破砕音が聞こえない。

 いやそもそも、拳骨の音自体妙だ。俺の面前で振り下ろされたはずなのに、打撃音が遠い。

 まるで、腕が瞬間移動したかのように。


 俺が目を薄く開けるのと、親分の奇声が響くのは同時だった。

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