シュゼットとチョコレート工場
如月姫蝶
第1話
携帯端末のディスプレイが、暗がりの中で、男の横顔を照らし出す。彼が、少しばかり口の端を吊り上げたのは、執拗にコールを重ねるうち、ついに観念したように相手が応答した瞬間だった。
「よう、社長さん、えらくご無沙汰だねえ、淋しかったぜ」
飄々とした口ぶりであったが、男の声には、裏社会に生きる者ならではの凄みが滲み出していた。
「あんだけ多額の成功報酬を約束しておきながら、どんだけ支払いを先延ばしにしやがる気だあ?
はあ?この俺様がくたばったと思っていただと!?
やだねえ、オッサン相手にハートブレイクだぜ。ギャラには、利子だけじゃなく慰謝料もたんまりと上乗せさせてもらうから、そのつもりでな。
近いうちに、またこっちから連絡するぜ。そっちこそ、健康と長寿に気をつけながら待っていやがれ!
そうそう、一つ忠告しておいてやるがなあ、商売熱心なのは結構なことだが、自分だけでなく、お子ちゃまの身の安全にも目配りしてやれよ!」
相手の社長の追い縋るような声を無視して、電話を切る。
男は、足元で忠実に座しているロボット犬の頭を撫でた。愛用の拳銃よりも好ましい手触りは、唯一、このロボット犬くらいしか心当たりがなかった。
「ようし、グレイ。今の通話のデータは、しっかりと保存しておけ」
裏社会を生きる男の双眸には、揺るぎない信念の光が灯っていた。
AD1100年——
人類が人工の島を数多く天空へと浮かべて、生活の基盤をその地の面に築くようになってから、既に100年以上の時が経過していた。しかし、人工の浮遊島であれ、有毒物質に汚染されて見捨てられた大地であれ、夜の訪れにより、世界が闇に沈むという自然の摂理に変わりはない。
深夜ともなると、有機物も無機物も等しく眠りについたかのようで、アースフーズが経営するチョコレート工場でも、ごく一部の工程を除いて、操業は休止していた。
その工場の一角で、突如、紅蓮の火柱が立ち昇ったのである。
「人的な被害が出なかったことは、不幸中の幸いだったかもしれませんね」
COAのエージェントが工場を訪れてそう言ったのは、日の出から数時間経過して後のことである。トレンチコートをマントのように羽織った、ブロンドの女性——レンリである。彼女は、工場を経営するアースフーズの社長秘書が操作するモニターで、事件当時の防犯カメラの映像をチェックしていた。
合成人間が二体、それらの人間の成人よりも大柄な、メタリックシルバーのボディーがはっきりと見て取れた。彼らは、爆発物を使用して、外壁に必要最小限の穴を開けて工場内へと侵入。真夜中でも稼働していた数少ない設備をやはり爆破したかと思うと、速やかに逃走したのだった。
食品工場に軍需産業ばりの警備システムを期待するわけにもゆかない。火の手に反応したスプリンクラーは速やかに火災を消し止めたが、警備用のロボットが現場に到着するころには、既に敷地内に合成人間たちの存在を検知することはできなかったのである。
モニターの前で、社長秘書は嘆息した。
「当工場では、極めて希少な天然カカオ豆を使用して、それを72時間かけてグラインドすることによって、より一層品質を高めていたのです。それを……」
言葉を詰まらせて唇を噛んだ彼女の顔色は冴えない。
グラインドとは、要は粒子を細かく砕くことであり、この作業を丁寧に行うことで、チョコレートの舌触りはより滑らかなものとなるのだ。
合成人間は、夜中も稼働していたグラインダーを破壊したのだ。おかげで、希少な天然カカオの粉末が大量に、汚泥のように床へとぶちまけられたことが、映像でもはっきりと確認できる。
女性二人の溜息は、その瞬間、ぴったりとシンクロしたのである。
社長秘書は、自慢の自社製品になり損ねた汚泥を惜しんでいるのだろう。
COAのエージェントたるレンリもまた、無類の甘党であり、高級チョコレートが台無しにされたことを嘆かずにはいられないのだった。
「レンリ捜査官だな?天下のCOAが、ご苦労なことで」
そこへ、男が入室してきた。そんな物言いをするのは、EGPDの警察官だと相場が決まっている。
市井の治安を守っているのは自分たちだと自負するEGPDと、司政官直属で、諜報機関としての性質が色濃いCOAとの間には、同じ警察組織とはいえ、不毛な軋轢がしばしば発生する。
「オーミ班長ですね。本件は、大企業が標的となったこと、また、合成人間の関与が疑われることを鑑みて、司政官が両組織での情報の共有を決定されました。ご協力に感謝します」
レンリは、髪も不精髭も白茶けた壮年の男性へと向き直った。
彼女は、EGPDから捜査の主導権を奪う気など毛頭無いことを示すために、彼らの初動捜査が一段落する頃合いを見計らってやって来たのだ。警察組織同士の軋轢で時間を浪費することはばかばかしい限りだと、常々考えているのだ。
オーミもまた、レンリが差し出した手を無視するようなことはせず、ふんと鼻を鳴らしながらも握手に応じた。
かつて、人間にとっては唐突に発生した合成人間の叛乱により、広大な工業都市が廃墟と化して、無残な姿を晒したまま現在に至っている。そんな廃墟が一層広がりかねない事案は、一見小規模な破壊工作であっても、人間社会の治安を守るためには、見過ごすわけにはゆかないのだ。
オーミは、レンリを伴い、犯行現場を一通り案内した。レンリが防犯カメラの映像から得ていた印象の通り、二体の合成人間は、ほぼ最短距離で工場内を移動して、爆破を遂行したようだ。おそらく、標的をグラインダーとすることも、事前に決定していたのではないだろうか。
「この工場の構造は、広く一般に知られているものなのですか?」
レンリは、同行している社長秘書に質問した。
秘書は、改めて大きく嘆息したのである。
「当工場は、嗜好品を生産する民生用の施設ですから、軍需産業のように、工場の構造自体が機密情報の扱いではございません。近日中に、お子さんたちを対象とした工場見学も予定しておりましたので、施設の見取り図を掲載したパンフレットも、既に市中に出回っております」
「要は、合成人間が街中をぶらぶらお散歩してただけでも、この工場の構造を知りえたってこったな?」
オーミは茶化すように言ったが、それも、可能性としては否定できないだろう。誰が工場の構造を知りえたか、という点から有意義な線を描くことは容易ではなさそうだ。
「秘書さんのいらっしゃる前でなんだが、アースフーズの社長さんは、過去に他社を買収する過程で、黒い噂が絶えなかった御仁じゃないか。人間だけではなく、合成人間にまで恨みを買うとは流石だねえ」
「すべては噂でしかありませんわ!あなたがた警察だって、証拠の一つも見つけられなかったではないですか!弊社を誹謗中傷するのはおやめください!」
秘書は、相変わらず顔色が悪いなりに、怒気を孕んで言い返した。
アースフーズは、天然食材を扱う他社をいくつか吸収合併して、大企業へとのしあがった。
しかし、その過程でいろいろと拗れて、不審な事故死までもが発生したことにより、アースフーズ社長の依頼で裏社会の組織が暗躍したという疑惑が生まれたのだ。
状況証拠なら無いではなかった。レンリ個人の心証も真っ黒。しかし、裁判で立証できるほどではなかったのである。
「オーミ班長、使用された爆発物については?」
レンリは、険悪な空気に包まれた二人のどちらに味方するわけでもなく、新しい質問を投げ掛けた。
オーミは、肩をすくめて応じる。
「さんざスプリンクラーの放水に晒されはしたが、爆発物の残渣は、一応は検出できたぜ。今、成分を鑑定中だが、結果が出たらCOAにも送ろう。過去の犯罪で使用された爆発物との類似性も調べて送ると約束しよう」
「お願いします」
レンリは一礼した。
物言いはいかにもであり、いかがなものかと思うが、それでも、今まで遭遇してきたEGPDの中では、実務的な人物だと素朴な好感が湧いたのである。
「ところで、COAのレンリ捜査官といやあ、上の不興を買って、ガキの使いじみた雑用ばかりやらされてるって、もっぱらの噂だ。が、その一方で、司法取引を餌にして、大物の犯罪者を一本釣りした実績もあるんだろ?
今日はどっちのあんただ?またぞろ大物のヌシでも狙っているのか?」
前言撤回。素朴な好感だのなんだの、口に出していなくて本当に良かった。
仮に大物の逮捕を画策していたとしても、それはさすがにEGPDと共有できる類の情報ではない。オーミも、そのくらいは弁えたうえでまぜっ返しているのだろうが。
レンリは、バーチャルアイドルのような作り笑いを満面に張りつけた。
「そんなことより、オーミ班長、先ほどモニターから目を逸らしていましたね。どうかしたんですか?」
それは、現場を歩いた後で、改めて防犯カメラの映像を見直していたときのことだった。
ふと、オーミがよそ見をしたのだ。
レンリに見咎められていたと知り、彼は苦笑する。
「なんでもねえよ。俺は、一連の映像はもう見飽きてるってだけのことさ」
オーミはそう言ったが、レンリはなぜか言葉通りに受け取ることができなかった。
オーミが映像から目を背けたのは、火災に反応したスプリンクラーが放水を開始した、まさにその瞬間だった。
そしてその瞬間、レンリ自身もまた違和感を覚えることとなったのである。
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