短編(読み切り)置き場

梶原

▼午前4時29分、屋上

 気がつくと、コンクリートジャングルの崖から、あと一息で飛び降りられる場所にいた。

 足は裸足のまま、屋上の、いつできたかもよく分からない、ほんのり生温い水たまりに半分浸っている。衣服は一応は纏っていたが、首が締まるような息苦しさを覚えたので、たぶんTシャツの前後ろを逆に着ている。微かに匂う血と汗の匂い。まぶたは重たい。耳元では、ごうごうと風が鳴る。湿った、誰かの吐息のようなその風は、乱暴に僕の頬を殴り、髪を搔き乱す。

 ふと、まだ仄暗い空を見上げ『気がつくとここにいた』というのは正しくないな、と思う。

 今朝未明、ホテルの一室で目が覚めた僕は、疲れ果てた体で力を振り絞り、非常階段を昇っていた。自分の人生を振り返り、『飛び降りていい根拠』を一つずつ拾いながら。

 人間は死を目前にすると走馬灯を見るという。それは今までの経験や記憶から、死を回避できる方法を探すためらしい、と聞いたことがあるが、今朝の僕に関しては逆だなと思う。

 いいや、逆ではないかもしれない。いくら考えても『飛び降りてはいけない根拠』しか見つからなかったのだから。

 物事を俯瞰で合理的に考えようとする性格は、こんな状況でも覆ることはないらしい。この衝動のまま行動してしまえば、その後の周囲はどういう反応をして、誰がどう困るのか、手に取るように想像ができてしまった。とはいえ、同時に、僕がこのまま生きていることで周りにかける迷惑も、想像がついてしまうから、困ってしまうのだが。

 僕が死のうが生きようが、周りが迷惑を被ることには、変わらないわけだ。

 非常階段の最後の一段を昇り終えた時に浮かんだのは、父の少し寂しそうな笑顔だった。


   ▼


 物心つく前に、母を亡くしている。

 だから母との記憶は一切ない。

 少し大人になってから、昔から知る人に、母の葬儀の時の話を聞いた。まだろくに歩けもせず、何が起きてるかも理解してない僕を抱きながら、父は一滴たりとも涙をこぼすことなく、口を固く結んで、母の棺に寄り添っていたそうだ。それはたぶん、普段の父とさほど変わらない姿だっただろうが、逆にその「普段どおり」の様子が、参列者には痛々しく見えたらしい。

 遺伝子の半分が父親のものでできているからか(いや、正直なところ、似すぎていてクローンじゃないかと思うことは時々ある)、僕は、その時の父の考えは想像できた。『泣いても喚いても仕方がなった』のだ。最愛の妻を亡くしているのに薄情だ、と言われてしまえば、否定できないけれど。

 どこまでも論理的に物事を考え、時に非情な運命さえ平気な顔をして受け入れてしまう父だったが、唯一、それができなかったことがあった。

 僕を手放すことだ。

 父は、かなり若くして父親になっていた。賢い人だから、その当時、お金さえあれば大学に通っていたであろう年齢だ。更に言うと、父も母も、正真正銘、天涯孤独の身だった。二人でならば、支え合ってなんとかなったのかも知れないが、一人親となり『経済力もなく、頼れる身内もいないなら』と、周囲は、子どもを施設へ預けるよう父に薦めた。

 それに対して、父は納得した。自身も施設で育っていて、年下の子の面倒はたくさん見てきたから、子どもを育てることが如何に大変か、よく理解していたのだろう。それに、その当時していた仕事も、僕を育てることになれば辞めなくてはならなかったから、食べるものにすら困るようになる状況だった。

 父は、僕を手放すことが『合理的』で、僕の命を確実に守れる『最善の道』だと考えたそうだ。

 すやすやと眠る僕を抱き、僕を預けるための荷物を背負い、施設までの道を父は黙々と歩いた。その日は、桜がほころぶ少し前の季節で、雲ひとつない青空が広がっていて、こんなシチュエーションでなければ『気持ちのいい日』と素直に思える陽気だったそうだ。通りすがりのご老人に「兄弟? 散歩かな? 気をつけてね」なんて、声もかけられたらしい。

 合理的かつ最善の道を選んだはずの父だったが、父にもずっと『我が子を手放したくない』という親心は渦巻いていた。施設までの道すがら、その『ワガママ』と『理性』は戦い続けたのだろう。

 結局、父が僕を手放さないことを決意し、やっぱり預けるのはやめますと言ったのは、施設の玄関でスリッパに履き替える直前のことだった。周囲は、父が一人で子どもを育てることの大変さを丁寧に説明したが、その後の父は、頑として決意を覆さなかった。

 きっと、父の人生の唯一のワガママは、僕と生きることだった。


   ▼


 ふと思い出したあの寂しげな笑顔は、いつ見せられた顔だったかな、と考える。実家を出る僕を見送ってくれた時か、それとも中学生の頃「一人部屋が欲しい」と僕が言った時か。

 あの人、寂しがり屋なんだよな。

 にっちもさっちもいかなくなった僕は、その場に座り込む。

 日の出の時間が迫っていた。雲に覆われた東京の空が、少しずつ白んでいる。ビルの屋上と言っても、10階の高さもないビルだ。周囲にはもっと高さのある建物も多く、空は依然狭い。

 膝と頭を、自分の腕で抱え込み、誰に言うでもなく呟いてみる。

「……どうしたらいいかな」

 本当は、答えはもう決まってることは分かっていた。

 少なくとも、僕は、父に会いに行かなくてはいけない。

 父はきっと、いつもと同じように、少しだけ嬉しそうに僕を迎えるだろう。僕は、今朝のことも話さないし、たぶん改めて感謝の言葉を伝えることもないと思う。

 ただただ、あの人の手を、僕から離してはいけない気がした。

 あの人に大事にされてきたという記憶が僕の手足に絡みついて、僕は地面に縛り付けられているようだ。まるで呪いだと思う。きっと父が僕を手放していたら、そんな呪いにかかることはなかった。

 ふふ、と笑いがこみ上げる。

 頭の良いあの人も、間違うことがあるんだな。

 僕は立ち上がり、踵を返す。まだ薄暗い非常階段へ、一歩を踏み出した。

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