きみの物語になりたい -resume-

判家悠久

Scene 2011. Ain't No Mountain High Enough

 祖母の文世さんがこの世を去ってから、もう2年経つのか。この我が家の特注のYAMAKIの木目調アップライトピアノのSwan Lakeが、文世さんの旧姓そのままの柴本音楽教室から移り住んでまだ2年は、短すぎるが時期だったかとは思う。


 何より母大江彩子と俺大江雅匠と娘の大江桜子は、文世さんのレッスンの元このSwan Lakeに幾度歯がゆい思いをした事だろう。

 文世さんは、Swan Lakeのマジックである、華やかに最高音部を高らかに鳴らせるのだが、俺ら普通人にはそれが全く鳴らせない。何度も何度も挑戦すれど、文世さんの様に、全くと、微かにも、鳴らせない。文世さんに手解きを受けるも、Swan Lakeの声を聞いて深く鍵盤を押し込むのよと、簡単明瞭に話されても、イメージを沸かせるも、どうにも至らない。

 これは俺のセンスがまるでなのだろうが、然にあらず。レッスンの時間前に早く着いて、何れのお弟子さんのSwan Lakeの音を聞くが、それに挑むも、何れのタッチから得られた音は、大正解である文世さんの音に近き音にも、近付いた事は一度も無い。

 それならばと、娘桜子が生まれてピアノの英才教育をすべく、桜子を幼少間も無く文世さんの元に送り込むも、ほぼ毎回悔しく泣いて帰ってくる。俺達親子には文世さんの血が流れている筈なのに、どうにも解せない。Webでもその魔器Swan Lakeを検索すれど、やはり特注品なので記事は表記されなかった。


 母彩子に聞いたが、いつの間にか教室にあったのよと。母彩子は、東日本大震災の輪番停電の交通渋滞で路地裏を暴走した乗用車に右手を弾かれ、サポーターグローブした手で痛々しく、懐かしい写真アルバムを捲る。そして、高度経済成長期辺りから、YAMAKIの黒のアップライトピアノから、左側面に白鳥の意匠の入ったSwan Lakeへと変わっていた。母彩子はそうねと。私がやっと物心がついた頃なら分からないわよねと、懐かしい話ばかりがただ湧く。

 父大江頑鉄は入り婿のジャズマンで、ただ感慨深く。俺のトランペットではあの怪物に到底敵わないよと、合流組では由縁は深く知る由もない。

 あとは、とっくに酔いつぶれてあの世に行った、大江珈琲館の初代マスターにして祖父大江容寺さんにも由縁を聞いた事はある。常連のマイスター上杉無口が閑散期だから良いよで、文世の運指を聞いて凝りに凝って制作したらしいから、無理無理文世にしか弾けないよと素っ気なく返答された。

 そして文世さんにも、そんな名前あるのか上杉無口さんは誰かと聞いた。楽器メーカーYAMAKIの職人さんも、何を聞いても一言二言だから名前が無口さんになっちゃって、誰も本名分からなくてそれなのよね。得てして美術品とは。人物でなく作品が全てで良いと思うのよ。いや、だから、語り継ぐべき魔器Swan Lakeなので、俺が今困り果てている。

 代を跨いでの由縁は得てしてそう言うものかもそこそこに。文世さんの弟子全員がSwan Lakeの最高音部に挑むも撃沈だから、今も由縁に拘ってる場合ではまるで無い。このままでは、魔器Swan Lakeはその頂いた冠では飛び立てない。


 🎵


 世にも稀な魔器Swan Lakeを手放す事に至った経緯はこうだ。

 2011年3月11日。その日は日本国が何もかも悲しみに沈み、半年を経た今日9月11日でも尚も悲しみの最中にいる。太平洋沿岸は元より、被害甚大な東北の福島県宮城県岩手県の大津波は、世界中の誰もが大きく想像超えたものだった。有形無形、ある筈のものが流された悲しみは今も癒されていない。

 その或る日の6月26日の一般紙読切新聞の日曜版中央一面に、被災地にピアノの音を響かせる倶楽部の渾身の記事が挙げられた。

 発起人の仙台の調律師三宅ニコラス氏が熱く語る。被災地は尚も窮状で、多くのピアノは津波に流されるか砕かれるか泥水に浸かるかで、このままで東北のピアニストの芽を摘みかねないの非常事態で、どうにか無償で被災地に生ピアノを送ってくれないかであった。

 いつ迄もその記事と果てしなく睨めっこしていたのは、当時10歳の娘桜子であった。時には仰け反り、歯を食いしばり、そして涙が滴った。俺はこうであろうとは察した。そして桜子は俺達に詰め寄る。


「お父さん、このスワンレイクを東北に送ろうよ。きっとスワンレイクもそうしたがってるよ。文世さんしか鳴らせない音があるって事は、もっと素晴らしい演奏者を求めている筈だよ」

「桜子、このSwan Lakeは、文世さんの形見だぞ。今の桜子があの華やかな音色を鳴らせなくても、将来鳴らせるかもしれないんだぞ」

「私には、お父さんのステージ用の電子ピアノあるもの、それで十分だよ。何より被災した東北に希望を与えたいの、どうか申し込んで」


 俺と妻の千代子は、同時に涙が伝った。この年端も行かない子でも被災地に希望を与えたがっている。それなのに俺はだ。


 江東区東陽町で三代続く大江珈琲館は、東日本大震災のその長き横揺れでほぼ棚から器が落ちた。あの日の14時46分は常連しかいない時間で真っ先に外に追い出せたから事なきを得た。

 そして、更なる免震工事をすべくと、俺の三代目マスターの大江珈琲館と同じ棟にある親父頑鉄の珈琲焙煎大江を統合して改修工事に入っている。店は休業中だが、以前にダイマツのキッチンカーを購入して出張販売していたので、今はその営業形態を取って日々食い繋いではいる。


 そう、いつの間にか日々に追われていた。それは東北を離れている全ての者達に当てはまるだろうが、次の震災に備えての生計も立てないといけないが実情だ。

 だが人間としてそれは失格であると、娘桜子から今教わった。慈しみに限界は無い、何かを分かち合う事は出来る。それが我が家にとってはSwan Lakeだった。白鳥は必ずや越冬するものだ。名は生を表す、ならば俺達はしっかり見送らねばならない。


 🎵


 そして今日、Swan Lakeを引き取るべく、被災地にピアノの音を響かせる倶楽部に賛同した日本楽器運輸の精鋭業者が、店とは別れている路地裏の母屋に来た。

 それは被災地にピアノの音を響かせる倶楽部にメールで寄贈の申し込みをしたところ、型名を二度確認された。それは本当にYAMAKIのアップライトピアノSwan Lakeですかと。当然何故かと聞き返した。

 返答のそれは世界最大の英国王室博物館にも収蔵されているピアノマイスター上杉竹蔵の代表作5つの一つでも有り、本当に寄贈しても良いのかだった。当然勿論しかない。そんな高度な銘器ピアノを、一般のピアニストに扱える筈もなく漸く腑に落ちた。

 そして日本楽器運輸の若社長新原太陽が今も感涙に浸っている。ガッツポーズのままに、これであと2つでピアノマイスター上杉竹蔵の代表作5つに巡り会えると。そして心残りがない様に最後に一曲如何ですかと俺達に演奏を促す。娘の桜子は今日迄散々弾き倒したので、お父さんと促す。

 ここはクラシック曲小品であろうが、咄嗟に浮かんだのはこれだった。


「それでは、大江家からお見送り最後の曲として、僭越ながら私大江雅匠を努めさせて貰います。曲はMarvin Gaye & Tammi Terrell のAin't No Mountain High Enough。全ての思いをこのSwan Lakeに託します」


 俺は手習いのピアノが高じて、東陽町の旧知によるトリオ天元で活動している。アコースティックギター指宿建生、ピアノ岡崎丈紘、そして俺はクラシックギターでボーカルに収まっている。俺がピアノで無いのは丈紘のジャズトニック奏法が3つ上にいるからだ。

 まあ今日は一人だが、一世一代に披露してみせるさ。モータウンのスウィング存分のピアノイントロから始まり、今日はデュエット二人分の詩を俺が存分に歌い伴奏する。


 Swan Lake聞こえるだろ。お前は次のマスターに求められて羽ばたいてゆく。その声を深く聞いて響け。行き着く先がどんな場であってもお前には応えられる筈だ。それでも足りなければ俺達を呼べば良い。何て事はない、音が響く事はそう言う事なのだから。

 千代子も桜子も、俺の十八番「Ain't No Mountain High Enough」は知っている。クラップの乗りも的確に俺とSwan Lakeの共演を盛り上げる。そして日本楽器運輸の精鋭業者も大いに乗り始める。

 Swan Lake、お前は熱狂のステージにいるべきだったかもしれないが、それは違う。大江家と一緒にいてくれてありがとう。この大きな愛情でお前は今迄もこれからも包まれるべきなのだから。だからいつかきっと、あの華やかな音を開いてやってくれ。

 そしてアウトロに入り、高き山脈へのアルペジオを駆け上がって行き、最高音部のゾーンに突入、押し込んでいるいるが文世さんの華やかな音とは天と地だ。

 文世さんが思いが宿った。最高音を鳴らす筈なのに、何故真ん中のマフラーペダルでミュートにするのか。文世さんはゆっくり踏み、一気に押し込む、同時に最高音部の鍵盤を押し込む。倍音効果だったのか。

 不意に俺も行けるかが過ぎった。次第のクレッシェンド、最後の一音。マフラーペダルでゆっくり踏み、一気に押し込む、そして渾身の最高音部の打鍵。文世さんの背中が見えた。ただ本来の1/4の倍音しか得られない。天使の前髪を掴んだ気分だったが、分かっていた。文世さんの打鍵音は尋常ではない、Swan Lakeはまさに文世さんの為のスペシャルオーダーだ。予定調和のいつもの音よりは、今日はましだ。文世さんの偲べただけでも、祖母孝行とは思う。

 周りが万雷の拍手の中、俺はSwan Lakeに触れハイタッチを交わした。Swan Lake、お前の気高さはぶれずにそれ位で良いんだよ。


 そしてSwan Lake梱包作業準備は進む。ファーストシートを掛けようかの時、桜子が嬉々と黒マジックを握っては右手を掲げ、木目調全開のSwan Lakeの背板に一気に書き上げた。

 千代子は目を釣り上げ、桜子を激しく抱え込み嗜めるが、俺はその語感豊かな文言は、この旅立ちに相応しい言葉だと直感した。


『きみの物語になりたい』


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