常政子二刀剣談(完成版)
奇水
常政子二刀剣談(完成版)
心形刀流の八代目・伊庭軍兵衛秀業の門下に、伏見十郎太政名という男がいた。
直参旗本伏見家八百石の四男で、十四の頃に剣術で身を立てることを志し、江戸下谷和泉橋通の練武館を経営する伊庭軍兵衛に入門し、心形刀流を学んだ。
心形刀流は天和年間に伊庭是水軒秀明が柳生流、一刀流、武蔵流、本心刀流を学び、編み出した流儀で、
「心は己が心、形も同じく身の形、刀はその用いるところの刀なり」
――を流儀の意地……根本とする。
それを解するならば、正しき心が正しき形となり、それを以て振るわれる正しき剣技こそが、当流なり……というところか。
代々伊庭家に伝えられ、二代以降は伊庭軍兵衛を称した。中継ぎに実力のある弟子を養子としながら受け継がれ、八代の伊庭軍兵衛秀業は、文化文政の華美奢侈の世にそれを排した古風な厳格さを持ち、そして当時台頭した撓防具を用いた打ち込み稽古を積極的に取り入れる、進取の気質を備えていた。
十郎太はこの秀業に弟子入りし、一刀のみならず、小太刀、二刀、小薙刀、居合を身につけ、特に二刀を能くし。
「俺には二刀が合う」
と常々言って、秀業も
「二刀では伏見には敵わぬな」
と明言するほどだった。
それほどに、十郎太の二刀流は卓絶していたのだ。
「しかし、諱が政名で二刀使いとは、出来すぎである」
そう秀業は苦笑したものである。
十郎太の諱である政名は、父の七郎政実より採ったものである。伏見家は代々「政」の字を諱として受け継いでいた。
それが彼の代で政名となっただけであるが、偶然にもこの諱はこの頃には二刀流の宮本武蔵が若い時分に使っていた諱とされていた。武蔵はこれを後年に玄信と改めたとされる。
この説は後年に否定されるが、この当時は一般的にはそう考えられていた。
十郎太が二刀流を得意なのはそのせいでもあるまいが、とにかくよく合った。練武館では武蔵の再来とさえ呼ぶ者もいた。元より心形刀流の二刀は、開祖の伊庭是水軒が武蔵流から取り入れたものであるという。
それを思えば、秀業の「出来すぎ」という言葉は、まさにそのとおりという他はない。
だが、秀業はこうも言い添えた。
「しかし、二刀流では当流の極意に至れぬぞ」
心底からの、言葉であった。
『心形刀流諸目録』に「口伝に云。二刀は利多しと雖ども、極意は一刀に如くはなしと、元祖是水軒も、二刀は専ら信ぜずと也」とある。
心形刀流では二刀流を有効な技法とみなしながらも、それは剣術の極意に至れるものではないと考えていた。
それは開祖の頃から、そうであったらしい。
このことについて、普段は師の言葉に反論することなどほとんどなかった十郎太が、
「それは思うに、二刀の利が一刀に優るからであります」
と自説を述べている。
「―――――ほう」
「同じ位にある者同士なら、二刀が一刀に優るのは道理なれば」
なればこそ、極意に至れぬ……と開祖は言われたのではないか。
秀業はしばし考えてから、その言に同意した。
「それはいちいち腑に落ちる。世の剣術の形は、打太刀の有利から始まるものである」
形、あるいは組太刀……剣術流派には当たり前にある技の鍛錬法だ。
打太刀が仕掛けるのを、応じた仕太刀が指定された手順で迎え打ち、破る。
仕太刀は手順を覚えるだけではなく、打太刀が自由に繰り出す打ちに充分以上に応じられるように習熟を求められる。
勿論、打太刀はそれなりの加減はするが、最終的に仕太刀はほとんど本気のそれを捌き切ることをもって、体得したとみなす。
古来、剣術はそのように覚えるものであった。
袋撓と防具を使用しての仕合が普及して後は、形を古臭いと考えるような者も増えたが、身体を動かす術理を覚えるには、形を通じての鍛錬こそが最適なのだ。
そしてその形は、打太刀の有利な想定から始まることが常である。
「それは即ち、剣とは不利を有利に変える術であるということに他ならぬ」
「ですが……」
二刀流は、そうではない。
世にある二刀流で、二刀流の不利から始まる形というのはない。
かの林大学頭が賛辞を入れた宮本武蔵の肖像画にも、こうある。
一劔不勝二刀――一剣は二刀に勝たず。
二刀の利は、それだけのものなのだ。
「それ故に、二刀で剣の極意を得るのは難しい」
秀業はさらに言う。
「二刀に優るものに対して勝口を見出す修練があれば、話は別だが」
「それこそ、槍やら薙刀などの長物でも持ち出してこなくてはなりませぬ」
十郎太の言葉は的確だった。
「そうなるか……」
秀業は溜め息を吐いた。
「槍の極意が太刀を相手に身につかぬものなれば、二刀流の極意もまた、一刀相手には身につかぬ。剣刃上の死地といわずとも、大が小に勝つようにして到れる境地は、しれている。古来より、死中に活を求めるところの先にあるのが極意なれば」
「…………」
窮地を超えたところに、武道の真髄がある。
「お前の二刀は、確かに強い。だがそれは、二刀の利による強さでしかない」
「…………」
「このままでは、お前はその利を頼り、その利に溺れるだけの剣に堕す」
「先生――」
「二刀の利に溺れるな。まずは一刀にて理を得よ。極意を掴め。そこで至った境地は、二刀にも活きるはずだ」
「――――――」
十郎太もここまで言われては、師の言を諾とするしかなかった。
「……まず、一刀を正しく修めることに専念いたします」
「うむ」
そのようにして、十郎太は一刀を改めて高めることにした。
すでに一通りの形は習得していたが、その日から師の打太刀はより激しくなった。
仕太刀としてそれを受け切るには、より精度の高い動きと間合いの見切り、拍子の練りが必要となった。
面篭手をつけての仕合も増えた。
一刀流の中西道場が防具をつけての仕合を導入して、すでにかなりの年月が経過している。
心形刀流でもそれは取り入れられて久しい。
十郎太はそれらの稽古により一層専念し、目に見えて技倆を上げていった。
秀業が述べた通り、一刀が上達すれば二刀もまた冴えていくのが実感として解った。合間に手にした二刀での仕合では、もはや道場の誰もが相手にならないほどに至っていた。
「これは、男谷殿にも勝てるかもしれぬ」
それを言い出したのは誰であったか。
男谷とは、直心影流の男谷信友のことであり、当時の世評では、剣術日本一と言えば彼を指していた。
同時代ですでに千葉周作、斎藤弥九郎のような、後世名を残す名高き剣豪がいたが、日本一の名は男谷にこそ相応しい――そのような使い手であった。
十郎太の二刀は、その男谷にも勝ると言われ出した。
(それは解らぬ)
当の十郎太はそう考えていた。
幸い、男谷信友は仕合を拒まぬことで知られていた。相手がどのような流派の剣士であれ、どの程度の実力であれ、挑まれれば応じた。
「江戸の剣士で、男谷と仕合していない者はいない」
と言われていた。
それは些か過大な評価であったが、多くの剣士と対峙したのは本当で、どの相手にも三本勝負の一本だけ取らせ、残り二本を取り、勝っていたのは事実であった。
人はその一本を「花の一本」と呼び、そのような態度と風格に、男谷を「君子の剣」と讃えた。
剣士ならば誰もがその実力を認める男谷に対して、いつか自分も挑んでみたいと考えるのは自然なことである。
しかし、いつかいつかなどと言い続けていては機を逃す。
(今年には、免許皆伝をいただける)
そうすれば、常子の表徳名を得られる。
その時に挑もう。
十郎太はそう考えていた。
そうしてほどなく彼は免許皆伝を秀業より授かり、心形刀流の免許皆伝者に許される「常子」を賜り、「常政子」を名乗ることになった。
それは彼が心形刀流に入門して十年目、天保三年のことだ。
◆ ◆ ◆
武藤左膳宣旬は、大石進種次をよく知らない。
専門が弓術であるし、僅かに漏れ聞く長尺竹刀の話は、いかにも色物めいて好きになれない。
大石進種次は柳川立花家で剣術師範を務める七尺の巨漢剣士で、家伝の愛洲陰流に大嶋流槍術の技を工夫して練磨し、五尺もの長尺竹刀を操り大石神影流と称した。
また大石は、従来使われていた唐竹面、長籠手の防具を改良して十三本穂の鉄面、竹腹巻、半小手を作り上げた。
過ぐる天保三年に大石が江戸の各道場で仕合をした時、これらは世に出て。大石の五尺竹刀と左片手突きの盛名と共に、江戸に広まった。
(阿波では見たことはない)
面金に布団をつけたような防具を被って袋撓で仕合するのが、彼の地元での現状だ。彼はそれで不自由と思ったことはない。
(面白くない)
彼は保守的な性情の人で、革新的な道具を好ましいと思っていない。それは彼が弓術の人であるからかもしれない。
弓矢は改良すれば成果が目に見えて変わる。三十三間堂の通し矢の記録が当初から激変していることなどがそうだ。弓矢が通し矢のために最適化され、矢の長さは短くされ、扱いやすくなった弓は、しかし実際の戦さで使える気がしない。
武藤はただ便利な道具を否定しない。ただ、普段の稽古仕合は戦の鍛錬のためのものでなければと考えている。
例えば五尺の竹刀を普段扱っていれば、定寸の刀など実戦で余裕に操れる――というようなことであれば、彼も否とは言わぬ。
だが、聞こえる話はそうではない。
大石の先だっての大活躍より、多くの剣術者が長竹刀を工夫しだした。それは仕合に勝つ工夫で、兵法の本道に反している。
(言うても、詮無いことだ)
どのみち、彼は弓術者であり、剣術者ではない。
蜂須賀家の江戸藩邸の弓術指南として江戸詰めになって二年ほどたつが、今まで剣術についてさして論じていたわけでもない。
なのにどういうわけか。
「水野様のお屋敷にて行われる剣術仕合を見る」
そのようなことになってしまった。
それが天保十一年の、ある月のことである。
『かの大石の腕のほど、見ていってくれないか?』
武藤が上役にそう頼まれたのが、四日ほど前のことだ。
なんでも老中首座・水野忠邦の屋敷にて撃剣の催しがあり、そこには伊庭軍兵衛が大石進を連れて来るのだという。
『心形刀流の伊庭殿が』
蜂須賀家では古くから心形刀流が盛んで、伊庭家の道場である練武館には何人もの遣い手たちが修行に来ていた。
地元で常子の表徳名を得ている者たちも来ることがある。
『お主も知っているだろうが、当代の伊庭軍兵衛殿は御老中様に随分と重用されていているとかで』
『そのようですな。評判は江戸詰めをしていると聞こえてきます』
『その当代はかの大石と交流が深く、その剣風を受けてかなり伝来のそれを変えたという話でな』
『ははあ……それで私に見て参れと』
『今の江戸詰めで最も武道に通じているのがお主だ』
ちょうど非番でもある。
武藤の上役は他にも調査を進めていて、彼をこの屋敷に派遣したのもその一つでしかなかったが、かの大石種次を目の当たりにできる機会はそうもない。もしも仕合があるのならば、それ相応の目利きに見させたい――とのことで、彼に白羽が立った。
(面倒なことよ)
そう思いつつも、個人の催しとは思えぬ規模の人が集まったのには、彼も素直に驚いていた。
(先年に行われた時は、かの島田虎之助と大石進の勝負があったというのだからな)
高名な剣客同士の、しかも因縁ある対決だ。
盛り上がっても当然だろう。
因縁とは、過ぐる天保三年、大石種次が始めて江戸に出府した時に遡る。
剣術日本一の男谷信友に勝つことを命じられた大石は、三ヶ月かけて江戸の有名道場で仕合して腕試しをした後、遂に男谷との仕合に臨み、その左片手突きの技で勝利したのだ。
島田虎之助は男谷の高弟として知られる名剣士である。
いわば師の敵討ちなのだ。
(さぞ盛り上がったことだろうな)
さすがにその程度は解る。
この時の大石が江戸にもたらせた大騒動は、当時国許の武藤にも聞こえていたほどだ。
世に云う〝大石旋風〟である。
その時の騒ぎを、勝海舟は遥か後年にこのことを回想し「御一新以上」とまで述べている。
そして、その騒動で、何よりも人々の記憶に鮮烈に焼き付けられたのが大石の長尺竹刀だ。
ただでさえ大石は七尺を超える大男であったが、その身体に見合うほどの五尺を超える得物は、あまりにも強烈な印象を人々に与えた。
与えてしまっていた。
(やはり……)
屋敷の中、縦弐間半(4.5メートル)、横六七間(10.8~12.6メートル)の板間で仕合が行われ出した。見物に着た人間にも解るように、左右の障子戸が外される。
武藤は板間に通されたが、そこにいる剣士のほとんどが総長四尺以上の竹刀を持つのを見て、溜め息を吐く。
(少し前まで、三尺程度の袋撓を皆使っていたものだが)
流行りに流されているようで、気に食わない。
見れば六尺、七尺もの竹刀を持つ者もいる。
(あれは確か、一刀流の近藤弥之助と言ったか)
昨日今日できた流派ではなく、歴史ある名門の者までもが長尺竹刀を使うのが嘆かわしかった。
見ていても、到底身の丈に合っているように思えない。
そして肝心の大石種次に目をやってから「ふむ」と少し感心した。
七尺五寸の巨漢であると聞いていたが、さすがに一流を立てた剣士だけあって木偶の坊ではないとは、その所作から見て取れた。
手に持つ竹刀は孟宗竹の如き太さで、鍔も六寸はあろうかという大きさだ。長さも五尺を超えている。にも関わらず、さして違和感がない。
(なるほど。さすがに本家は些か違うということか)
体に合わせて誂えたので、ああなったということなのが解る。長さの利に溺れるほどの愚昧でもない。
それで少し期待がでてきたが、始まった長尺竹刀の使い手たちの仕合の様子を見て、すぐに失望する。
(まるで押し相撲だ)
そうなのだ。
五尺、六尺もの長尺竹刀同士の戦いは、すぐに押し相撲のような鍔迫り合いになってしまう。
見ていても、実にみっともない。
(所詮、身の丈に合わぬ道具を使っていては――)
ふと目をやれば、仕合の様子を大石は見るからに不機嫌に眺めている。
直弟子ではないとは言え、自分の模倣をした剣士たちの無様には納得がいかないようだ。
武藤は「ふん」と小さく鼻を鳴らし、退屈な仕合へと再び一瞥をくれる。
これでは報告は辛口になりそうだ。
そう思った。
時。
「それでは、次は拙者に」
武藤の後ろから、声がした。
(む?)
するりと立ち上がりの衣擦れの音がして、武藤の隣りを一人の剣士が通り抜けていく。
彼が眉根を寄せたのは、新たな剣士の手にしているのが白い皮を被せていた袋撓であったからであったのと、それが長短の二振りだからだ。
「二刀流」
口にしていた。
古くより正統の流派に伝わるとはいえ、二刀技法は世間的には外連味が強い外之物としての評価がされやすい。武藤もそうだった。
(身の丈に合わぬ長尺竹刀に、二刀流の使い手か……これはまた、ゲテモノだな)
そう思った。
◆ ◆ ◆
(ついにこの時が着た)
上座にいる水野忠邦と、その隣に座る大石種次、伊庭秀業へと軽く目礼をしてから、伏見十郎太は二刀を中段に構えて相手と対峙する。
ここまで来るのに、長かった。
かつて伏見十郎太は、最初の〝大石旋風〟で大石進と対戦した。
近頃九州より出府してきた巨漢剣客が、有名道場の高弟たちを尽く破っている――そう聞いた時、十郎太は「男谷様に挑む前の、丁度よい景気づけだ」と思った。
長尺の新型撓を使うという噂を聞いても、恐れはなかった。
十郎太は二刀流に絶大な自信を持っていたし、田舎の剣士に敗れる江戸の有名道場の者たちを侮蔑すらした。
そして遂に練武館へとやってきた大石に、代表の一人として常政子の剣号を得たばかりの伏見は立ち向かい――敗れたのだ。
言い訳はすまい。
見事な突き技であった。
平戸の藩主であり、常静子の剣号を持つ松浦静山公は「突きは死刀」と著書で述べている。
烈しく見えるようでも、隙を作ってしまうのだと云う。
同様に突き技を戒める、あるいは決死の覚悟をしてから行う技であるとする流派、教えは幾つもある。
また、技そのものが危険であるということもあった。
その頃の面では、突き技を防ぎきれない可能性があり、突き技は仕掛ける側にしても思い切って打ち込むのに躊躇してしまう、どうしても踏み込みが甘くなりがちであった。
実際、十郎太は突き技には二刀を使うこともなく、一刀でも応じられた。
そのような環境にあっては、突き技などは苦し紛れの奇襲技なのだと、その頃の江戸の剣士の多くは考えていた。真剣の殺し合いは当然として、仕合でもほとんど使われない。
それでもなお突き技に可能性を感じ、工夫する者は少なからずいたが、それらの成果は現状ではまだでていない。
――いや。
でていなかった。
というべきだろう。
大石の突き技は、それまでのものとは違っていた。
両手のそれも凄まじいが、左片手の突きは類を見ないものであった。
今まで積み上げてきた二刀流の工夫が、ほとんど通用しないのだ。
大石の突きのあまりの鋭さには、それまでの仕合や形稽古で培った拍子、間合いの練りでは到底追いつかない。
両刀を上げて十字に組めば、それでもかろうじて防ぐことはできたが、そこから反撃するのもままならぬ。
何せ大石の竹刀は五尺を超える長尺であり、さらには大石の工夫は突きだけではない。胴への打ちもまた尋常ではなかった。
今まで経験したことがない大敵であり、絶技であった。
返し技を仕掛けようにも、その糸口がつかめない。
そして遂に十郎太の二刀の防御が文字通りに突き崩された時、自分の足場とするところまでもが崩壊したような気がした。
『見事なものですな』
そう、師が大石を褒め称えるのを聞いた時には、何もかもを失ったような気さえした。
より優れたる者が跡を継ぎ、激しい気風をなお失わぬ心形刀流の宗家たる伊庭家の継承者として、剣術に革新を齎せる者を褒めるというその態度は、考えれば当然であったが、その時の十郎太には耐えられなかった。
翌年、あの男谷信友までもが大石に敗れたと聞き及び、十郎太は遂に剣を捨てた。
その直後、
それが変わったのは、二度目の大石の出府を知った時だ。
さすがに大石流の手の内も知れ渡ったということもあり、一度目ほどの無敵不敗ではないようだが、それは、世間の剣士が大石流の技を取り入れた結果ゆえである。
長尺竹刀、防具という新規道具に、突き胴の技――それらは大石の工夫であり、それらを江戸の剣士が使うということは、江戸の剣士が全て大石流の軍門に下ったことを意味しているように、十郎太には思えた。
この時の剣術界の様相について、後世に書かれた大著『大日本剣道史』には
「天下の撃剣大石流に化す」
とまで記されている。
大石進という一人の剣豪がもたらせた道具と技は、剣術に不可逆な激変をさせてしまったのだ。
前出の『大日本剣道史』に曰く、これより以前の撃剣を古流といい、これ以降の大石流を入れた長尺竹刀の撃剣を新流と呼んだという――
だがほどなくして、この呼び分けは使われなくなった。ほぼ全ての流派がこれに倣ったからだ。
そうなれば、新流も古流もあるまい。
ただ十郎太は、剣術から手をひいてもなお、大石流からの変化を頑なに新流と呼び続けた。
今までのものを、古流と呼びたくはない。
だが、大石らのそれと自分らの学んだものを同じと思いたくない。
それは意地であったか、決意であったのか。
剣術日本一の男谷信友までもが新流を受け入れたと聞いて、十郎太は身の内にある衝動を抑えきれなくなった。
もう一度、大石と対峙せねばならぬ。打ち勝たなくてはならぬ。
このままでは、自分がかつて学んだ技が、培った技術が、まったく無用のモノとして打ち捨てられてしまう。
そのような焦燥に突き動かされ、再び剣術に復帰した十郎太を、だがかつての仲間は歓迎してくれなかった。
当然であった。
彼らはすでに、変化した新流の撃剣に順応している。
今更、古流など持ち出されても――そう思われるのは当然のことだ。
師の秀業までもが、彼を疎んだ。
秀業は、心形刀流の理念を体現した名人である。受け継がれた古法を廃するでもなく、優れた技があれば素直に受け入れる度量があった。
そしてまた、他流も大石流の研究をする中、名門・心形刀流が立ち遅れるわけにはいかぬという現状もある。
〝大石旋風〟は他流仕合への垣根を吹き飛ばしてしまっていた。かつてと違い、今や何処の流派も当たり前に交流と仕合をするようになった。往古の秘伝技は曝け出され、その中で撃剣に通じる技のみが残された。形、組太刀の稽古などほとんどしない者まで現れるようになった。
何より、大石をいち早く認めて水野忠邦へと推薦したのが彼である……という事情もある。
返り新参の門弟である十郎太がかつての方式に拘り続け、大石進との決着に固執し続けているというのは、あらゆる意味で好ましからぬことだった。
故に、秀業は出戻りした十郎太相手と仕合して、現実を知らしめることにした。
制裁を与えたと言ってよい。
かつて誰も打ち崩せなかった十郎太の二刀であったが、大石流と交わり、七年もの研鑽を積み重ねた秀業の突きには応じ切れなかった。
また、間合いの取り方も格段に進歩していた。
大石流より世間に広まった防具と竹刀による稽古と仕合は、剣術に重要な間合いの読み、拍子の練りを、まるで別物といえるほどのものにしていたのだ。
勿論、十郎太が復帰して間もなかったということもあるが、かつて体験したどのような突き技よりも、秀業の、そして同門の者たちの技は洗練されていた。
本家の大石のそれにさえも、優っていたかもしれない。
『十郎太、これも時勢だ』
『…………』
『お前が、免許皆伝を得たばかりの頃と、今とでは違うのだ』
『……先生、』
『此度の大石殿の江戸遠征、かつてほどの猛威を振るえておらぬ』
『それは、』
『どういうことか、解らぬお前ではあるまい』
大石種次が作り出した剣の流れは、もはや当の大石さえも乗り越えているのかもしれない。
それほどに、江戸における剣術の熱の高まり、勢いは苛烈なものとなっていたのだ。
『今の水準では、免許などとてもとても……』
『――――』
『どのみち、一度発給した免許を取り消すつもりもないし、元より免許皆伝は一つの目安でしかない』
皆伝を受けた者として、その後どう振る舞うのかが大切であると。
――そんなことは、十郎太にも解っていたことだ。
一度剣を捨てた身で、多く反論できるわけもなく。
『お主の天稟を考えれば、一年とかけずに新流を飲み込み、かつてのようにお主の二刀に敵はいなくなるだろう』
しかし十郎太はその言葉には何も答えなかった。
それ以降も、変わらず袋撓の二刀流で稽古を続けた。
かつての稽古をそのままに、その後に仕合して同期に打たれ、後輩に突かれた。
秀業は何も言わず、稽古を改めようとしない十郎太を、そのままいない者であるかのように扱いだした。
そうしている内に、やがて十郎太が道場に来る頻度も減った。いつしかほとんど姿を見せなくなった。僅かに見た者も、体についた無残な青痣を見て目を逸した。
鉄壁の二刀でもって練武館にその人ありと謳われた者の、あまりの無残な姿を直視できる者はいなかった。
来なくなったのもいたたまれなくなったのだろうと、誰もが思った。
そうこうしている内に、年が明け。
天保十一年に十郎太は久々に道場を訪れ、改めて師に頭を下げた。
そうして今、この水野邸に現れたのである。
飛び入りして板間へと滑るように躍り出た十郎太を、水野忠邦は胡乱げに見ていたが、渋い顔をしている秀業に目を向けてから「よい」とだけ言った。
秀業は忠邦の言葉に頷き、隣りに座る不機嫌そうなままの大石の顔を一瞥してから、手を上げる。
「はじめ」
師である伊庭秀業の声と共に、一刀流近藤の長尺竹刀が襲いかかった。
中段からの小手を狙う打ちをさらりと左小太刀で抑え、十郎太は深く半身になり、右の突きを繰り出す。
喉、面と続けざまに撃たれた近藤は、のけぞってたたらを踏み。
「まいった」
と手を上げた。
この結果には、さすがに皆声をあげて驚き、大石種次は目を細め、伊庭秀業はかっと目を開いた。
「なんと」
と言いかけて言葉を失ったのが、忠邦である。
先程までのような退屈な仕合が続ければ、本家本元の大石にでも出てもらうつもりであったのが、突然の二刀流の乱入に、そして鮮やかな決着。
言葉を失うほどに二刀流は見事であり、そして長尺竹刀は無様であった。
「当世の撃剣の拍子に、慣れた? ――いや」
秀業が唸るように呟いた声は、大石種次にだけ聞こえた。
二人とも、板間の中央に立つ十郎太から目を離していない。
続けて、他の剣士たちも立ち上がって十郎太に挑んだ。
十郎太の立ち会いは全て同じだった。
相手の突き、小手、胴を左手の小太刀で落としながら踏み込み、右太刀で突く。
二刀流の基本形である。
しかし、その体捌きの柔らかさ、拍子の見事さたるや、二刀兵法の開祖たる宮本武蔵もかくの如きと思わせた。
大石が言う。
「あの入身、足使い――相当に、槍相の稽古をしたのでしょう」
さすがに、秀業も大石へと目を向けた。
大石種次が大嶋流槍術の師範でもあるというのは、知られたことだ。槍の演武を披露したのを秀業も見たことがある。
その彼が言うのならば、間違いはあるまい。
「……槍相手に入身稽古は、よく聞きますが」
長物相手に入身をするのは、常道だ。そのためにタンポ槍という、稽古用の先を綿を丸めて皮に包んだものを取り付けて突かせ、それを躱しざまに入身する。
大石は「はい」と頷き。
「足の運びが、槍相の稽古をよくした者のそれでございます」
「なるほど……」
秀業は改めて十郎太の仕合の、その足元に注視する。
確かに、二刀の撓の鮮やかさに目を奪われていたが、運足がかつての十郎太のそれと比べては当然として、昨今の撃剣のそれに劣らぬ速さがあるのが解った。
『剣術は手のわざなることは無論ながら、其の要と為る所は足にあり、此の所に心着く者は其法を得ると知るべし』
とは、松浦静山公の言葉である。
他に「一眼二足三胆四力」などと、拍子を見定める目付と共に、足さばきの重要さは語る言葉はいくつもある。
当世の剣術に於いてさえも、それは変わらない。
むしろ足捌きの重要さは、より増してさえいるように思える。
十郎太のそれもまた、かつてのそれなどの到底届かない高みに至っていた。
速く、早く、そして柔らかい。
力みはなかった。
静かですらあった。
長尺竹刀の鋭い突きを躱しざまに踏み込み、二度三度と突きを撃ったのは、どの程度の強さにすればよいのか、解らないからかもしれない。
だが仮に、突きが一度だけであろうとも、彼の勝利を疑う者はいなかっただろう。
それほどまでに彼の足捌きは柔らかく、技倆の差は明らかであったからだ。
(これほどの境地に至るまでに、どれほど…………)
秀業の脳裏に、青痣だらけの十郎太の姿が浮かんだ。
あの痣の意味が、ようやく解った。
大石はそれを知らないはずだが。
「恐らくは、彼は入身稽古と別に、剣で槍を相手の仕合稽古も積んだのでしょう」
「――――――」
その言葉が、まさに真相を言い当てているだろうことに、秀業だけは気づいていた。
そしてぽつりと、絞り出すように。
「新流とても、槍相手の仕合では分が悪かろうに」
まして、古流では。
大石流の突きであろうとも、槍のそれに及ぶものを繰り出せるかといえば、それこそ元祖たる大石でもそうできることではない。
槍の速度と間合いの深さは、それほどに剣に対して有利なのだ。
大石は、秀業の言葉を聞いて微かに目を細める。
「なればこそ、槍を相手にしたのでしょうな」
「…………」
『それこそ、槍やら薙刀などの長物でも持ち出してこなくてはなりませぬ』
かつて十郎太とした問答が思い出された。
「そうか」
伊庭秀業は得心した。
「二刀流で、極意に至ったか、十郎太――」
……やがて長尺の剣士の全てを負かした十郎太は、改めて上座へと目をやる。
「大石殿」
と言った時、皆が十郎太の目的に気づいた。
大石種次は、微かに伊庭秀業へと目配せする。
伊庭秀業は。
「常政子」
と言った。
十郎太は師の声を受け、静かに佇む。
次の言葉を、じっと待っているように見えた。
秀業はしばし逡巡していたようだが。
やがて。
「よくぞ達した」
「――――」
「だが、そこまでだ」
そこからの沈黙は、永遠にさえ感じられるほどのものであったが。
「先生、」
「大石殿は、水野様に招かれてここにおられるのだぞ」
そのことがどのような意味を持つのか、解らない者はいない。
しかし十郎太はそのことも承知の上で挑んだ、そのはずであった。
秀業の体から、力みが抜けた。
弟子がどのような言葉を発したとしても、どのように挙動しようとも、即座に応じられるようにした……そのように見えた。
「先生………」
唸るようにそう絞り出した十郎太は、そのまま口を閉ざして沈黙する。
さすがに、この時に生じた空気の変化は誰しもに伝わった。
主人である水野忠邦でさえ何も言えず、額に汗の珠を浮かべた。
他の剣客たちも、声もなく二人に注視する他はかった。
大石進のみが、目を細めて十郎太にではなく、その手の袋撓を視ていた。仕合うとなれば、相手の得物に注意するのは当然――そのような顔をしている。
……そうして見守っていた観衆たちは、じっと二人の次の挙動を待っていたが。
「……解りました」
十郎太は頭を下げ、呼び止める暇も与えずに板間から出ていった。
大石が口を開き。
「伊庭殿」
と囁くように言う。
「…………私にも、面子がある」
「しかし……」
「言われるな」
「…………」
「大石殿を、信じていないわけではないのだ……」
十郎太の背中が人混みの中に紛れた後、二人の大剣士は囁きあう。
ここで大石までもが二刀流に完膚なきまでに負けることがあれば、推挙した伊庭の面子が潰れる。
そして大石を招いた、老中である水野忠邦のそれも。
少なくともこの場で、これ以上の仕合はできなかったのだ。
◆ ◆ ◆
この後、常政子こと伏見十郎太は剣術界から再び姿を消した。
練武館からは引き留めようとする声も出たようであるが、十郎太はそれらには一切応じず、旗本としての務めに専念した。
十年後に兄の子を養子に迎え、隠居となって以降のことは、菩提寺の過去帳にも残されておらず、いつ何処で死んだのかも詳らかではない。
伏見家は昭和四十年代まで現存して、最後の当主は十郎太について「隠居の後に大石種次と勝負を決すべく旅にでてそれきりであった」――と言い伝えを語っているが、その真偽の程は定かではない。
大石家の記録は、種次の孫の代で事業の失敗で家財を失ったため、それ以前のものはほとんど散逸してしまっている。
この日の仕合についても、 武藤左膳宣旬が書き残した『昨七日今八日』に僅かに記載されているのみである。
「二刀之流儀罷出仕候所、長剣甚閉口,発足突キ程者出合候へハ、其内ニ付入、敵之体ニへはり付、短刀ヲ以盲突ニ突時、長剣凌方手無之、サスニ余り、打ニ鍔ヲ敵之頭ヲ抑候分無之、引ハ追込、五本七本ト続突ニ突故,色々スカシクシキテモ,先生衆も不残二刀ニ敗北仕候、此処ニ而ハ長刀之詮も無之、甚見苦敷負有之候」
……武藤はこの時の長尺竹刀の使い手たちのあまりにもな負け方を見たせいか、すっかり江戸の撃剣が嫌いになってしまった。
(まだ、二刀流の方がマシだ)
そのように思った。
いずれこの無様では、大石流など一時の流行りに過ぎず、むしろ二刀流が隆盛するかもしれない。
(どの道、ゲテモノに違いない)
彼はそんなことを思いながら、水野邸を後にしたのだった。
……それより数年後、弘化三年に練武館で修行して徳島藩に帰国した、三人の原士がいた。
原士とは、阿波にだけ存在する特殊な武士である。かつては吉野川沿いの開拓を任されていたが、それも数代を経過すれば完了し、開拓を終えた彼らは、武芸に励んで藩政における大事に呼び出されて活躍した。いわば徳島藩における遊撃兵であった。一揆の鎮圧などをしていたという記録もある。
特に現在の阿波市の旧市場町に住む原士たちは、あらゆる武術を学んだ。その余熱ともいうべきものは原士以外の者たちにも及び、街全体が盛り上がった。さほど大きくもない小さな町に、最盛期には何十人もの剣術、柔術、槍術、棒術、居合……の師範がいたという。
その町で生まれ育ち、心形刀流を習得し、その上で江戸に修行に行って帰ったのが、佐藤兄弟である。
彼らが八代目伊庭軍兵衛に学び、江戸より持ち帰った防具と竹刀、そして突き胴の技は、地元の剣術界を激変させた。
『郷に帰るや剣術の改良を行い(中略)以前はお面とか籠手の他はなかりしに今や更にお突きお胴の所作を加えたれば世上佐藤式とて近隣を風靡したりきこれ剣道界の革命というべし』
……と『市場町史』には、ある。
大石と交流のあった伊庭家より地方に伝播された突き胴の技は、明らかに大石流からのものであるに違いなく、それは長尺竹刀の流行りを超えてなお、残り続けた。剣術界を別のものにした。
大石流の波及は、阿波のみならず、全国あらゆる地に及んだ。
剣道界の革命というべし――まさに、これより近代剣道が始まったのである。
武藤が予感した二刀流の隆盛は、ついぞなかった。
名人といえるほどの二刀流の使い手は、現代になってもほとんど現れていない。
大石種次一人が生み出した剣術の潮流は巨大な奔流となって全てを飲み込み、それは一時の一人の勝ちなどでは、変えられなかった。
所詮、歴史とは斯くの如しであろう。
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