六③
風はなく、暖かく柔らかな日差しを受けた樹木はただそこにあるだけで気持ちを静めてくれる不思議な存在だ。
大きな樹木の木漏れ日の下、天国かもしれないこの場所に来て初めてゆっくりした時間を、里帆は過ごす。思えば、ここに入れてくれたウリエルと言う大男も、天使だったのかもしれない。
そこまで考えてから里帆は思った。
(ここが天国で、天使たちのいる場所なのだとしたら、ラファエルは? ラファエルは、どうしているの?)
困っているとき、苦しいとき、ずっと黙って傍にいてくれたのはラファエルだった。毎日の日々に、ラファエルは当然のように傍にいてくれて、ラファエルの笑顔に救われていた。出来ることならば、最後に目にするラファエルの顔は、あの、屈託のない笑顔がいい。
(最後に……? ……あれ?)
そこまで考えて里帆は気付いた。自分の頬を一筋の涙が流れ落ちていることに。
(私、泣いている?)
その事実は理帆自身を驚かせる。ラファエルと過ごした日々を、自分が出会った様々なラファエルの表情を、思い出すだけで里帆の心臓がきゅーっと痛みだす。ラファエルと一緒に過ごした時間は短い。里帆の人生のうち、数ヶ月しか一緒にはいなかった。なのに。
(なのに、こんなにもラファエルの存在が、大きい……)
自分のことなのに、自分でも驚くくらいに制御が出来ない。溢れてくる感情と共に、里帆の涙は止まらないのだ。そして思う。
(ラファエルのことが、愛しい。ラファエルに、会いたい……)
最後に見たラファエルの顔が脳裏をよぎる。
あんなにも苦しそうな顔が最後だなんて、やっぱりいやだ。
そう思った里帆は溢れてくる涙を自らの手の甲で拭う。
(ラファエルにもう一度会う。そのために私に出来ることは……)
メタトロンが指で示した先、その先にきっと自分のなすべきことが、なせることがあるに違いない。この場所へ来た意味もあるいは、見つかるかもしれない。
そう思った里帆は立ち上がる。いつまでも座り込んでいては何も始まらないのだ。そうしてメタトロンが指し示していた先を見つめる。
(行こう! またラファエルに会うためにも!)
里帆は裸足の足を前に出す。そして鬱蒼とした森の中へと駆け出していった。
里帆は走る。メタトロンに言われた通り、振り返ることなく。
木々の隙間を縫って、ラファエルに会いたい、その一心で。
「止まれ」
どれだけ走っただろうか。突如里帆の足を止める声が響いた。高く澄んだその声は女性のものだろうか。
里帆は一瞬、その声の制止を振り切ろうかと考える。しかしここは里帆が今までいた世界とは明らかに違う。きっとここは、神の御許にもっとも近しい場所なのだ。
そう考えた里帆は、ラファエルに会いたいと急く気持ちをぐっと抑えて立ち止まる。
「なるほど。メタトロンが言うように賢い娘のようだ」
立ち止まった里帆の前にふわりと長身の女天使が舞い降りた。黒の裾の長いトレンチコートのようなものをきっちりと着こなしている。左の腰には細いシルバーのレイピアのようなものを差しており、肩に触れる程度の薄い桃色の真っ直ぐ伸びた髪は日の光を受けて、キラキラと輝いて見える。すっと通った鼻梁に切れ長の鋭い瞳。
里帆はその鋭い視線に射貫かれる。長身のその女天使を見上げると、地に舞い降りた彼女は口を開いた。
「私の名は、サンダルフォン。罪を犯した天使を幽閉する、幽閉所の支配者だ」
「罪を犯した、天使……? 幽閉?」
里帆はサンダルフォンと名乗った女天使の言葉を反復する。何故だか嫌な予感がして、心臓がドクドクと脈打っているのが分かる。
サンダルフォンは続ける。
「あの男は、ラファエルは、罪を犯した。傷が癒えたその時は私の幽閉所へ、入って貰う」
(ラファエルが犯した罪? 傷が癒える?)
サンダルフォンがもたらした情報は多く、里帆の頭が混乱する。一体何が起きているのだろうか。
その様子を見ていたサンダルフォンは長い腕を折り、自らの顎へと手を添える。
「その様子では、お前は何も知らないのだな」
「そう、ですね……」
サンダルフォンの言葉に里帆はぎこちなく頷く。それを見ていたサンダルフォンは少し考えている様子だ。里帆は気になったことを、勇気を出して尋ねてみる。
「あの、ラファエルの罪とは、なんですか?」
「あいつの罪は、一人の人間に思いを懸けたことだ」
里帆はその言葉に目を見張る。そしてよみがえるのはラファエルの言葉たちだった。
『大好きっ!』
ラファエルはそう言うと、里帆を良く抱きしめてくれた。そのたびに里帆は恥ずかしくなり、顔を赤らめては俯いてしまうのだった。
(それが、ラファエルの罪?)
「天使は公平で、平等でなくてはいけない。一人の人間に思いを懸けるなど、もってのほかだ」
「それ、は……」
「あぁ、お前を責めている訳ではないのだ。これは我々、天使の問題だからな」
サンダルフォンはバッサリと、里帆を切り捨てるように言う。
里帆は堪らずに、
「ラファエルは、ラファエルは一体今、どうしているのですかっ?」
そう声を荒げていた。それに対して、心底呆れたようなサンダルフォンの言葉が返ってくる。
「あのバカは、お前の怪我を吸い取っていたよ。あの翼ではまともに飛べないからな、お陰で私があいつを迎えに行く羽目になった」
「えっ?」
思ってもみなかったサンダルフォンの言葉に、里帆の丸い目が更に丸くなる。サンダルフォンはそんな里帆の様子を不思議そうに見つめて言った。
「何をそんなに驚いている?」
サンダルフォンは続ける。
ラファエルが里帆に心酔するあまり、事故に遭った里帆の怪我をラファエルがその身に、その翼に引き受けたのだと。本来ならばあの事故で里帆は死に、魂の審判を受けて後、天国または地獄へと行くはずだったのだ。
「でもお前は、ラファエルの力のせい、あるいはお陰で、生死を彷徨い、今、ここにいる」
「ここは一体、どこなのですか?」
「ここは、エデンだ。天使たちの住まう土地だよ」
「エデン……。じゃあ、この先にあるものは一体……?」
里帆の疑問にサンダルフォンは先を指さしながら答えた。
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