三①

 こうして里帆がインフルエンザにかかって五日が過ぎた。里帆の咳も治まり、ラファエルの顔色も赤みが取れ、普段の白さへと戻っていた。いよいよ明日から出勤再開だ。

 里帆は久々の出勤に向けて準備を進める。ラファエルはその様子をおとなしく見守っていた。


「忘れ物はない、かな?」


 一通りの準備を終えて忘れ物のチェックを里帆が行っている時だった。


「ねぇ、里帆」


 ラファエルが神妙そうに声をかけてきた。里帆が何事かとラファエルを振り返ると、


「毎日、僕の分のご飯を用意するのも大変でしょう? 今度から、僕の分は用意しなくても大丈夫だから」

「でも、それじゃあラファエルがお腹が空くでしょう?」


 里帆の疑問にラファエルは困ったように笑うと、


「僕は天使だから。あまり空腹は感じないんだ」


 ラファエルの言葉に里帆は納得しかける。

 元々ラファエルは里帆以外の人間には見えていないのだ。空腹をあまり感じないと言うラファエルの言い分も分かるような気がする。


「ラファエルがいいなら、それはとても助かるのだけど……」


 食費一つとっても、里帆の稼ぎだけで二人分はきついと感じていた。それでも、


「お腹が空いたり、具合が悪くなったりした時はちゃんと我慢せずに言って欲しいわ」


 里帆の言葉にラファエルは、


「はーい」


 片手を挙げて笑顔で答えるのだった。




 こうして里帆がラファエルのいる日常へ戻った時、暦はあっという間に十二月に差し掛かろうとしていた。朝晩は一段と厳しい寒さに襲われ、本格的な冬の訪れを告げていた。

 その日も里帆は毎日の日課となっているラファエルとの朝の通勤時間を過ごしていた。この頃になると道中で会話をするわけでもなく、ただ一緒の時間を過ごしていく。その一緒の時間が嬉しいのか、ラファエルは終始にこにこと笑っており、その笑顔は里帆の心を穏やかにしてくれるのだった。


「じゃあ、行ってくるね」

「うん、いってらっしゃい」


 神社の境内で挨拶を交わすと、里帆は更衣室のある神社の裏手へと向かう。緋袴に着替え、髪を後ろで一本にまとめる。こうすることで里帆は、巫女としてのスイッチが入るような気がしていた。

 そうして気合いを入れた里帆の元に、二人の後輩がやって来た。


「三浦さん! 体調、大丈夫ですか?」

「えぇ、お陰様で」


 里帆の返答に二人はほっと胸をなで下ろしている。それから二人は何事かを言いにくそうにゴニョゴニョとしている。里帆はそんな二人の様子が気になりつつも、


「二人とも、心配してくれてありがとう」


 そう言って微笑むとその場を後にしようとした。すると、


「あ、あの!」


 一人の後輩が勇気を振り絞ったような声で里帆を呼び止める。里帆が何事かと振り返ると、


「三浦さんさえ良かったら、あの、私たちに舞のコツなどを教えてはくれませんか?」


 後輩が怖ず怖ずと言った風に申し出た。思ってもみなかった突然の申し出に里帆は目を丸くする。そんな里帆へ、声をかけてきた後輩が口を開いた。


「三浦さん、今年度いっぱいで定年って聞いたので……」

「退職する前に、三浦さんの美しい舞を、私たちも習得したくて……」


 自分の舞を美しいと評してくれる後輩二人の言葉に、里帆は更に目を丸くする。

 まさか自分の舞をそのように評価して貰っているとは、微塵も思ってはいなかったのだ。なんだかとても照れくさいものの、とても嬉しくもある。


「やっぱりダメ、ですか……?」


 黙ってしまった里帆に対して不安になった後輩が上目遣いで尋ねてくる。里帆はそんな後輩へ笑顔を向けると、


「私で教えられることがあるのなら」

「いいんですかっ?」


 破顔する里帆に、不安そうだった顔色を笑顔に変えた後輩たちが弾んだ声を上げる。その声に里帆は頷くと、


「十二月からは忙しくなるし、お正月が終わってからでもいい?」

「はいっ! よろしくお願いします!」


 里帆の言葉に二人の後輩たちはぺこりと頭を下げると、パタパタと更衣室を出て行くのだった。後輩たちの背を見送った里帆は、もう一度自身に気合いを入れると社務所へと向かうのだった。

 社務所にて今日の事務仕事の準備を行っていた里帆は、何の気なしに社務所の外へと目をやる。するとそこには、遠目でもはっきりと分かる空色の髪を風になびかせたラファエルの姿が、以前と同じようにベンチに座ってあった。里帆はその姿を確認し、ほっと安堵するのだった。


 夕方、業務を終えた里帆は手早く私服へと着替えると、ラファエルの待つ境内へと足を向けた。


「里帆! お疲れ様!」


 私服姿の里帆を見付けたラファエルが、白い息を弾ませながら小走りに近寄ってくる。そんなラファエルの姿に、里帆の頬は自然と緩むのだった。


「お待たせ、ラファエル。帰ろうか」


 里帆の言葉に頷くと、ラファエルは里帆の後ろをついて歩く。神社を出て人通りの少ない通りを歩く。そこで里帆は朝の出来事を思い出して、ラファエルに声をかけた。


「ねぇ、ラファエル」


 歩みを止めることなく話しかけられたラファエルが、視線だけで何事かと問うてくる。


「来年の一月から後輩に、舞を教えることになったの。だから、帰りは遅くなるわ」


 里帆の言葉に一瞬、目を丸くしたラファエルはすぐにその表情を明るくさせると、


「凄いね、里帆! 里帆の舞はきっと、凄く綺麗なんだろうね!」


 そう言って興奮を隠そうともしないラファエルの様子に、里帆は照れてしまい、帰路に就いている足も自然と速くなってしまうのだった。

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