一刹那のスローモーション

彩女莉瑠

一刹那のスローモーション

 夏休み。

 その日は朝から部活があった。高校二年生の少女は夏の暑さにパジャマを汗で貼り付かせながら目が覚めて、絶叫した。


「遅刻ーーーーー!」


 急いで彼女は階下へと降りると、母親に文句を言う。


「何で起こしてくれなかったの!」

「だって、夏休みでしょ?」

「部活があるんだってばーーー!」


 のほほんとしている母親に対して絶叫を返した少女は、急いで身支度を調えるとバス停に向かって走る。




 今日は晴天で、セミの鳴き声が響いている。しかし前日に降った雨があちらこちらに水たまりを作っていた。

 水たまりに気を取られながら、ぴょこぴょこと跳ねるように走って行く。そのままバス停までの短い坂道を下っていく。足下に気を取られていた少女は気付かなかった。目の前に自分の学校とは違う制服姿の少年が立っていることに。





 ドンっ!





「ったぁ……」


 少女は坂道を下っていた勢いのまま目の前の少年の背中に激突してしまう。少年は一瞬だけのけぞると、すぐに振り返った。


「気をつけろよな」


 低く澄んだ少年の声。

 少女ははっとして顔をあげた。その刹那、少年と目が合った。


(綺麗な目……)


 永遠にも思える刹那の時間。ゆっくりと過ぎていくその時間を破ったのは少年の方だった。


「ちゃんと持ってろ」


 少年はそう言うと、ぶつかった時に少女が落としてしまった鞄を持ち上げる。そして少女にその鞄を差し出す。


「あ、ありがとうございます……」


 少女がその鞄を受け取ったのを認めた少年は、少女の頭を一度ぽん、と叩くとその場を去ろうとする。


(……!)


 その瞬間高鳴る少女の胸。

 少女は内心で、やられた! と思った。

 思わず、立ち去ろうとしている少年のシャツを、後ろから引っ張ってしまう。


「何?」


 少年からの問いかけに、少女は咄嗟に言葉が出てこなかった。

 少女の髪を揺らす一筋の風が吹く。


「用事がないなら、俺、行くよ?」


(あ……)


 そのまま少年が去って行く背中を少女はただ黙って見守ることしか出来なかった。





 バスの中、少女は少年に叩かれた頭に手を置いて考えていた。ここまでは夏の暑さは届かない。

 涼しい車内でただただぼーっと窓の外を眺めながら、思うのだった。


(これが、恋、なのかな……)


 名前も知らない、一度しか会ったことのない少年への思いを募らせながら、バスは進んでいく。

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