19話「左の哀しみ」


 主が咆哮を上げた。高い天井まで響く声は、低く、そしてひび割れていた。岩石を砕いたような耳障りな響き。命を燃やすようなその声が、獣の身体へ命令を飛ばす。

「この者達を殺せっ! 八つ裂きにしっ! 私の前に引き千切った臓腑を晒しなさい!!」

 主の命令に――獣の身体は動かない。動かない巨体の代わりに、その切断された首元からどくどくと歪な朱が流れ始める。生命の象徴でもあるその朱は、歪に歪められた存在そのもので、どす黒く濁っていた。酷く粘り気のあるその血液は、糸を引いて磨き上げられた床を汚していく。

「獣さん、知恵熱かよ?」

「思考と命令、どちらを選ぶか迷ってパンクしてるみたいだな。まったく、普段から優先順位を決めてないからこんなことになるんだ」

 呆れたように笑う二匹に、サクは一緒になって笑うことは出来なかった。普段から優先順位は――決まっていたのだ。自身の命はこの主のために作成され生かされていたのだから。だからそこに、自身で選ぶ選択肢等存在しなかったのだ。

 決めていたのではなく、決められていた。だからこそ、獣は今ここにいて、主への反抗を行っているのだ。最初から抑圧されていた者に、その状態が抑圧だということはわからない。外界からの刺激がなければ、疑問にすら思わない状態だった。助けてもらったのは、獣の頭の方だった。

「俺は、お前の犬じゃない」

 グルルルと、犬歯を剥き出しにして答えたサクの姿は、もしかしたら一番獣に近い表情だったかもしれない。しかし、今ここにいるのは皆、欲望に狂った獣達だ。

「飼い犬には躾が必要ですね」

 フリンはそう呟くと、己の身を抱えるように身を縮めた。怯えるように偽装されたその動きに、レイルがすぐさま反応する。フェンリル最速と呼ばれるレイルは、切るのもキレるのも、もちろん敵への強襲もフェンリル一のスピードだ。

 彼女の剣先がフリンの肩口を抉る。しかしフリンはそんなものにはまるで怯まず、その腕と共に、“新たに生えた両翼”を広げて、彼女を弾き飛ばした。

「っ!?」

 想定外――人間の背中から蝙蝠のような翼が、突如皮膚を突き破って生えた――の出来事が起こっても、彼女はしっかりと受け身を取って無傷だ。転がるようにしてサクの前まで戻ると、両手の剣を構えたまま、油断なくフリンを見据えている。普段は美しい輝きを放つエメラルドグリーンの瞳には、血肉への暗い欲望が闇を落としている。

「……ガーゴイルの呪いか」

 サクの目の前で、ロックが静かに言った。やはり彼はわかっていた。この身に刻まれた呪いのことを。岩のように強く硬く、そしてひび割れる。その姿がまるで岩の魔獣ガーゴイルのように見えることから、この身の症状はそう呼ばれているらしい。それは古来から伝えられる呪いのような代物だった。

 フリンは己の強化のためにその呪いを自ら受け入れたようだが、本来はこの力は負なる意味合いの呪いである。ひび割れたその身が示す通り、対象者は常に渇きに苛まれ、最終的には全身の水分が枯渇することによって死亡する。言い伝えレベルの話ではあるが、どうやら水の魔力に高い適正があれば、この症状はある程度緩和されるらしい。

 サクの身体にこの呪いの症状がほとんど出ていなかったのは、この言い伝えの通りなのだろう。大陸東部出身の人間は、相対的に水や氷といった属性の魔力に適正がある者が多く、サクも例に漏れず水の魔力に対する高い適正を持っていた。

 足を止めての魔術の発動は陸戦隊時代にはほとんど行わなかった――それよりも前線での戦闘を望んでいたし、何より槍術の技術がそれを勝っていたからだ――が、魔法師団との合同訓練では、サクが水の防御壁を発動し、その強度に相手方が唖然としていたこともあった。

 目の前のフリンは、どうやら水の魔力には適正はないらしい。ひび割れていくその顔で、優雅だったその顔が、軋むようにニタリと笑う。

「いかにも。さすがはフェンリルの情報網。この力のこともご存じでしたか……しかし『呪い』は良くない。これは私に力を与えてくれたのです。呪いなんて、そんな禍々しい呼び方は謹んでもらいたい」

「それだけ醜くなっちまえば、充分呪いだろうが」

 吐き捨てるようにそう言うレイルに、ロックは同意しながら問い掛ける。彼はやはり、全てをわかっているようだ。

「その『力』は、そこで汚ねえもん垂れ流してる獣の身体から得たもんだろ? 主は獣の身体の一部を得ても、獣の頭の思考には害されないのか?」

「私はあくまで主ですから。頭が命令を聞かないならば、その獣の頭は切り捨てれば問題はありません」

「つまり、お前を殺さなければ、ここのペット達の命令権は得られないってわけだ?」

「そういうことですね。やれるものなら、ですが」

 ニンマリと吊り上がった口角に合わせて、フリンの顔面がミシミシと割れる。岩石のような翼を生やした彼の身体は、急速に呪いの力に屈しているように見えた。

「あんたのとこの主力はその、“脳無し”だろ? 血ぃ垂れ流して動かねえが大丈夫なのか?」

 レイルが馬鹿にしたように言うが、彼女の挑発は聞き流されたようだ。うっとりと頭のない獣に向かって微笑み掛ける彼の姿に、言葉を発した彼女の方が苛立っている。

「この子にはセブンスハートという名前があります。先程までの粗悪品と一緒にしてもらっては困りますから。名前の由来は七つの獣の部位と心臓を有しているという、至極単純な由来ですが」

「……だからまだ生きてるのか」

「そう。だから彼の頭でも獣は生きているのです。その脳こそが心臓としても機能している。とても稀有な存在です。早く、返してもらいましょうか」

 フリンが片手をすっと上げると、豪奢な床の一部が沈み込んだ。フリンの左右――部屋の奥まったスペースが盛り下がり、スロープが出現する。それはどうやらこの邸宅の地下に続いているらしく、その地下施設から唸り声と共に六体の“獣”が現れた。

 既に地下の施設からは解き放たれていたらしいその獣達は、俊敏な動きで主を守るように立ち塞がる。パーツを取られた歪な生き物たちが、その部位を補うように更に歪に歪められている。

 翼を捥がれその代わりに巨大な脚部を繋がれた大鷲。頭のない代わりに腹部が禍々しく裂けた大蛇。大きな首から直接四肢の生えた山羊に、胴体だけで転がる……肉食獣だろうか?

 そして――

「っ!?」

「見るな、リーダー」

「……魔力は元来、動物よりも人間の方が高いからな……」

 レイルの制止は耳に入っていた。だが、サクはその無残に歪められた者達を見た。獣の頭として、見なければならなかった。自身の“身体”を構成していた、そしてこの身に馴染む原因を理解するために。

 その“者達”は二体の獣だった。二体共、鍛えあげられた身体を持った大柄な男だ。人間だった頃の面影は確かにあるが、その表情は既に人の範疇を越えている。

 姿かたちこそ人のそれだが、それは理性の抜け殻だった。肌の色合いから南部の人間ではない。おそらく、大陸東部。しかし――その身から感じる魔力の波長は、無い。

「セブンスハートの力を増大するために、その者達には心臓になってもらいました。身体の部位は獣のものの方が勝りますから。彼等にはそう……内助の功というやつでしょうか」

「人の心臓は魔力の源が染み込んでるってあの死体マニアが言ってたな」

「あいつも東部出身だろ? こんなの見たら怒り狂うぜ」

 サクが言葉を無くしている間にも、フリンは恍惚とした表情で語り、そして二匹の獣が嗤った。対峙した、理性を失った獣達とはまた違う、狂気を孕んだ声だった。

 対峙するは獣。こちらが従えるは――なんだ?

 対峙する六体が身構える。それにすぐさま反応する二匹の獣。その姿にサクは、何も言えない。何も出来ない。

 それはあまりに哀しくもあり、親しみ深いものだったからだ。獣の部位となった彼等を、サクはずっと感じていたのだから。

 だからこそ哀しくて、そして――

「リーダー、結局見ちまってるのか」

「ちょっと待ってろよ。僕らが全部“綺麗”にしてやるから。だから……泣かないでくれ」

 こちらを振り向いた二匹の獣の表情は、正しく人間のそれだった。

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