10話「右の信頼」


「飯持ってきたぞー……って、何イチャついてんだよお前ら」

 鍋を手に持ったまま入り口で立ち竦むロックには、苦笑しか出ない。その手に持つ鍋からはなんとも食欲をそそる香りが漂ってきている。この香りは……カレー、だろうか?

「例の頭痛が出たみたいでよ。診てるうちに私の方が寝ちまってた。わりい」

 レイルは寄り掛かっていたサクから身を離しながら、全く悪びれない様子で舌を出した。小柄な彼女は抱えていてもほとんど負担にはならず、起こすのも可哀想だったので、そのままサクは数十分程抱いたままの姿勢で、彼女の整った寝顔を見ていたのだ。

 普段はよく話すその口が寝言を零すようなこともなく、彼女は静かに眠っていた。まるでスイッチが切れたように眠る彼女からは、なんの悪意も感じなくて。そして唐突にサクは気付いた。彼女にとっての安眠は、きっとあの牢獄では得られなかったことだろうと。

 そう考え至ると、起こすことは出来なくなる。彼女の異性を――いや、彼女の場合は同性もターゲットの内か――惑わす顔立ちは、本当にずっと見ていられるものだった。

 すらりと細い腰には、牢獄を出た時から双剣がぶら下がっている。腰のベルトに金属の鎖で固定されたそれらは、鞘に入った状態でも造形の異なる二振りだということが見て取れる。

 サクは船に乗り込んですぐに、自身をたまに襲う頭痛のことをフェンリルの二人に話していた。おそらく自分にとって弱点とも取れる部分を、サクは彼等のことを信頼して伝えたのだ。そのサクの言葉に、彼等は特に大きな反応を見せなかった。どんなことにも対応出来る狂犬達にとって、サクの頭痛等大したことではないかのようだ。

「突然痛むんだよな? もう大丈夫なのか?」

 鍋をベッドサイドのテーブルに置きながら、ロックがその手をサクの額に当ててきた。熱を測っているようで、その顔はとても心配そうにこちらを見ていた。

「ああ。もう平気だ。それより、これは……カレーか?」

 置かれた鍋の中身を見ながら、サクはロックに尋ねた。鍋の中からは香辛料の香りが強く発せられており、その独特な匂いと色合いでカレーであろうとは判断出来た。問題は、カレーかカレーでないか、ではない。

「ああ。そうだぜ。安心しろよ。他の地方の人間でも食べられるように辛くはしてない」

 そうなのだ。大陸南部の人間は辛い料理を好む傾向があると聞いていたサクは、その点を心配していたのだ。同じ任務に向かう船の中、飲食物に毒等を混ぜられる心配はしていないが、これは別問題だった。そうでなければ、鍋を確認してからレイルの顔色があそこまで変わるはずがない。

「嘘つけ。絶対辛い。お前の言う辛くないは、一般常識じゃねえんだよ」

 一番その言葉からかけ離れているレイルがそう言うものだから、サクも思わず身構える。そんなサク達を無視してロックは、部屋の棚に置いてあった器を取り出し、そこにカレーを盛りつけ始めていた。

「白米も持ってくるから待ってろよ。飲み物は……甘い方が良いか?」

「当たり前だ。あの炭酸の飲み物持ってきたら殺すぞ」

 レイルの言葉にロックが「了解」と言いながら扉を開けて外に出ていく。心底不機嫌そうに返したレイルに笑いながら、しかしサクも他人事ではないと生唾を飲み込んだ。目の前にはなんとも食欲をそそる香りが漂ってこそいるが、これはおそらく辛い。それは見た目だけでもわかった。見慣れた茶色が少し鮮やかに感じる。

「あんた東部出身なんだろ? 香辛料がきつい料理ってよく食うのか?」

 中央部出身のレイルは、東部ではどうなのか疑問に思ったのだろう。サクにそう聞いてくる。

「いや、あまり一般的ではない。物流が整備されてからは、南部の香辛料を手に入れることは出来るようになったが、それでも南部料理専門店でしか普通は食べないな」

「だよなー。あいつ、辛いものばっか好きでよ。あいつが作る料理、ほとんど赤いんだぜ」

 信じられないという顔をして話すレイルに、サクは疑問に思ったことを聞くことにした。

「ロックは料理が趣味なのか?」

 戦闘ではなんでも出来る天才は、プライベートでも天才ということだろうか。細く長い手先はとても器用そうだし、異性も同性も大好きなその遊び人気質には、手料理という武器は大いに役立つことも考えられる。

 しかしレイルからの返答は、サクの予想とは異なるものだった。

「特に趣味って訳じゃねーよ。私らの趣味はそのほとんどが殺しにまつわるものだ。料理ってのはただ、暗殺の際に自然とターゲットと親しくなるための、まあ……小道具みたいなもんだな。料理が出来る『ふり』は難しいが、出来ない『ふり』は簡単だからな」

「……なるほどな」

 彼等は裏の仕事を扱う暗殺者なのだ。公に行動する軍とはまた違う立ち位置にいる彼等には、一般的な軍人とはまた違うスキルを要求される。それは街中の人間に溶け込む術然り、ターゲットの近くに入り込む術然り。

 目の前のこんな可憐な少女に、手料理なんて振舞われたら、そこらの男なんてイチコロだろうとサクでも思った。ロックだってそうだ。フェロモン垂れ流しの彼の料理姿は、きっと絵になるに違いない。

「サクにも今度作ってやるよ。なーに、ここじゃイマイチのもんしか作れねえが、ちゃんと準備したら私だって作れるんだからよ」

 ニヤニヤ笑ったレイルをサクは軽く小突いた。

「それは、料理は苦手だと言ってるようなもんだな」

「うるせーよ。人並には出来る。嘘じゃねえ。あんたの好みに合わせるには、今じゃねえってだけだ」

「わかったわかった」

 今にも立ち上がりそうなレイルを宥めていると、ロックが白米とスプーンを持って戻って来た。人数分を持って来ただけにしてはえらく時間が掛かっていたようだが、その疑問は彼からの言葉ですぐに氷解した。

「本部からの連絡だ。どうやら敵さん、勘づいてるらしい。目標の邸宅に完全武装の兵士の姿が確認された。それと、周囲には昼間から原因不明の“小規模な地震”が頻発してる」

「そりゃあ、なんとも豪勢なお出迎えだな」

 ロックの言葉にレイルが目を輝かせる。相手の兵力が整っているという報告に、こんな表情をする人間をサクは今まで見たことがなかった。

「……小規模な地震、というのは?」

 また始まった頭痛を抑えるように額に手を当てながら、サクはロックに問い掛けた。その問いには彼ではなくレイルが答える。

「邸宅の地下に用途不明の広大な空間があるらしい。おそらくそこが“実験場”だぜ」

 そう言いながら彼女は、サクの頭を優しく撫でてくれる。

「……実験場?」

 頭がかき乱される頭痛に耐えながら、サクは彼女に問う。彼女の返事より先に、頭にその答えが浮かんだ気がした。

「金持ち共の神の真似事さ。動物達を合成して、最強の獣を作ろうって魂胆らしい」

「唸るような金持ちってのはどうにも、考えることがおかしいらしいぜ。僕らも充分おかしいらしいが、それはこっちのセリフだっての」

 ゲラゲラと笑う二人は、しかしその瞳はサクを見ていた。その深い闇に堕ちるような金とエメラルドグリーンの瞳が、サクを捉えて離さない。言葉とは裏腹に、その二対の瞳には笑みは見えない。

「……最強の獣……」

「最近、敵の前線に不気味な獣の配置が増えてるって話を聞いた。獰猛な生物達を歪につなぎ合わせたみたいな、そんな失敗作達がウヨウヨといるらしい。ま、僕らが特別牢獄に入ってかららしいから、現物は見たことないけどよ」

「そいつらはもちろん命令を理解する頭もねえから、隊列も組まずにそのまま戦場の混乱に放り込むんだと。敵味方の区別もつかねえそんな爆弾みたいなモン、勝手に投入されたら兵士もたまったもんじゃねえよな」

「……獣の頭は、いないのか?」

 低い声で問い掛けたサクの額を、レイルの小さな手が触れる。優しく撫でるその手つきに、サクの意識が落ちていく。

「……頭はいねえよ。お前が――」

 そこでサクの意識は途絶えた。

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