8月 ファイティング・ストーカー
花火大会の賑やかさが過ぎたと思ったら、八月には盆踊りでまた街が賑わう。浴衣で飲み屋街をぶらつく人なんかもちらほら目にして心躍る季節だ。
ところが、今日はそんな浮かれた気分とは裏腹な面持ちで琥珀亭に出かける羽目になった。
「いらっしゃいませ」
私の顔を見るなり、真輝がにこやかに笑う。
「お凛さん、今日は雨森堂の日ですよ」
そう、月に一度のお楽しみ。季節の上生菓子で酒を飲む日。
いつもなら「どれどれ」なんて手をもみ合わせて喜ぶんだが、この日ばかりはそうはいかなかった。
「真輝、悪いんだけどね、それって二人前あるかい?」
「えぇ、ありますよ」
きょとんとした彼女に、人差し指を一本立てて見せた。
「今から一人、連れが来るんでね。もし食べている間に来たら、その子にも出してやっておくれ」
「かしこまりました。じゃあ、お連れ様にはいつものお通しのあとにサービスでお出ししますよ」
「ちなみに、今日のお通しは?」
「サーモンマリネです」
尊との取り決めで、上生菓子が出てくる夜はお通しは出されない。尊たちは私の苦手なメニューをお通しにする日は、その代わりに上生菓子を用意してくれるのだ。鮭が遡上する千歳に住んでいながら、私はサーモンが苦手なんだ。
そのとき、奥の厨房から尊が出てきた。
「お凛さん、珍しいですね」
尊が言いたいのは私が独りではないことではない。連れがあるときには必ず連絡をいれてから来るのに、という意味だ。
「今日の最後のレッスンで急に話が決まってね」
カウンターのいつもの席に腰を下ろしながら言う。尊が手渡してくれたおしぼりで手を拭きながら、灰皿が出てくるのを待った。
さっきまでバイオリン教室のレッスンだったんだが、そこで藍子という弟子とここで会うことになった。
そのときの様子を思い出しながら、目の前でメーカーズマークが注がれるのを見つめていた。
まるで集中していない。
レッスンでの藍子の演奏は、まさにそんな感じだった。
譜面と格闘する彼女は前かがみになって音符を追っているが、あいにく指先が追いついていないし、気もそぞろだ。
この子にしては珍しいと、思わず眉をひそめてしまった。
つい『この子』と呼んでしまうが、彼女の年齢は三十代半ばだ。独り者で自由気ままに好きなことに没頭して暮らしているせいか、およそ生活臭というものがないし、もともとの童顔のせいもあって年齢不詳だ。まず実年齢を言い当てられたことはないだろう。
藍子との付き合いは二十年近くになる。なにせ彼女が高校一年生だった頃から私が指導している子だ。
始めたのが遅かったせいもあるが、オーケストラに入りたいとか、音大にすすみたいという意欲は最初からなかった。完全に割り切って、趣味として弾いている。だが、いつもきっちり練習をしてくるんだ。
なのに、今日の演奏はまるで上の空で、どうも様子がおかしい。下手したらこの一週間、一度もバイオリンを弾いていないかもしれない。指が全然動いてないし、譜面も読めていない。
「一体どうしたんだい? 今日はまるで心ここにあらずじゃないか」
演奏を終えた彼女にそう言いながら、私はソファに腰を下ろした。この時間だと、いつもならソファに黒猫の『スモーキー』が丸くなっているんだが、彼はとうにいなかった。あいつはひどい演奏を聞くと、するりと部屋を出て行くからね。
「すみません、先生」
藍子は消え入りそうな声で小さくなっていた。丸めた背中が哀れに見える。
「あんた、どっか体調が悪いのかい? いつもだったら練習もきっちりしてくるし、こんな曲くらい綺麗に弾きこなせるじゃないか」
なるべく優しい声で話しかけた。この子は叱られると、悔しがるよりも萎縮してしまうタイプだからね。
「それとも何かあったのかい? 話してごらん」
そう言った途端、藍子の顔が引きつった。唇が震えたかと思うと、彼女は堰を切ったようにその場に泣き崩れてしまった。
嗚咽を漏らす彼女を慌ててなだめ、今日のレッスンがすべて終わったあとで、琥珀亭で相談に乗ることになったんだ。
藍子は自分のアパートにいったん戻ってバイオリンを置いてから、こちらに向かっているはずだった。
冷たいおしぼりの心地よさも、私の憂鬱さを吹き飛ばすことはできなかった。
どうにも参った。うちのレッスンで泣く子どもはいるが、大人はそうはいない。一体、何があったのやら。
そんなことを考える私の目の前でメーカーズマークが注がれ、ちびちびと口をつけた。
「お凛さん、どうぞ」
そう言って尊が差し出してくれたのは、今月の雨森堂の上生菓子だった。
「菊花だね」
ほんのり黄色を帯びた白い煉り切りで出来た花が漆の盆の上で咲いている。花びらの一片一片を表現する細かく規則正しいヘラの目に職人の心意気が光っていた。
整然と並ぶヘラの目を見ていると、まるで藍子の演奏のようだと思った。あの子は譜面通りに弾きすぎるというか、演奏に無機質なところがある。自分の感情や曲の情感をあらわすのが下手なのだろう。それが、彼女の一番の課題だった。
私はあの子が毎週きっちり練習してくるところをとても評価している。できれば生涯、バイオリンを楽しんで欲しいと願っている。
音楽の才能というのは、モーツァルトのように幼い頃から作曲したり、超絶技巧を弾きこなせることだけじゃない。
ただ黙々と毎日、練習できる。それだって立派な才能なんだ。
だけど、藍子はそれに気づいていない。『私なんか』とすぐ口にするタイプだ。
ちょっと力を抜くということが上手じゃないから、あの泣き方だと変なことを思いつめているんじゃないかね。そう考えながら『菊花』をたいらげた後、私は二杯目のメーカーズマークに口をつけていた。
そのとき、待ち人がやって来た。
「いらっしゃいませ」
尊のいつもの声と共に呼び鈴が響いた。藍子は思い詰めた顔をして入ってきたが、私を見つけて少し安堵の表情を浮かべた。
「すみません、お待たせしました」
そう言いながら歩み寄る彼女は、尊に「お久しぶりです」と、会釈して席に座る。藍子はウイスキーが好きで、レッスンの後に何度か一緒に飲みにきたこともあるんだ。
マスターの尊は藍子の目が真っ赤になっていることに一切触れず、オーダーを訊いてきた。
彼女は「ハイボール」とだけ答え、後はずっと俯いている。目の前にカクテルが出されても、彼女はなかなか口をつけようとしなかった。いつもはウィットの富んだ冗談を飛ばす明るい子なんだけどね、今日は本当にどうかしちまってる。
「ほら、藍子。まずは乾杯だ。今日は私のおごりだから、沢山飲むといいよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
そこで彼女は初めてグラスを手にとり、一口だけ飲んだ。酒の勢いで少しでも話しやすくなるといいんだけどね。
「で、何かあったのかい?」
促すと、藍子はたどたどしく話し始めた。
「あの、実は」
そう切り出したものの、後が続かない。言い出しにくそうに俯いてしまった。
『もしかして』と思い、今度は私から問いかけた。
「前に言っていたことを気にしているのかな?」
以前、彼女は『自分は才能がないのに弾き続けて意味があるのか』と悩んでいた。もとより趣味で弾いている子だが、生活に役立つ訳でもないバイオリンを習い続けることに疑問を持った時期があったんだ。
だが、彼女は即座に首を横に振った。
「違うんです、先生」
滲んだ涙がライトの光を反射している。
「すみません。バイオリンのことじゃないんです」
「じゃあ、一体どうしたっていうんだい?」
「実は……」
か細い声がくぐもる。蚊の鳴くような声というやつだ。
「私、失恋して……それ以来、変なんです」
私は「ははぁ」と唸る。思わず『そんなことか』とも思ったが、それは絶対に口に出すべきではないと唇を引き締めた。
そう言えば、去年くらいに『彼氏ができた』と嬉しそうに言ってたっけ。そいつと別れたんだろう。
「そうか、それは残念だね。でも、変っていうのは?」
「私……気が狂いそうで」
そう言うと、彼女はハイボールを口にしてから、こう呟いた。
「私、ストーカーになっちゃったみたいなんです」
「はぁ?」
心底驚いたが、隣の藍子はいたって真剣だ。ずっと膝の上で手をもみ合わせて、深刻な顔をしている。悪い冗談ではないらしいね。
「私、去年のはじめに営業部の人と付き合いだしたんです。仕事の関係で話す事が多くて、それで意気投合して」
この子は全国に支店を持つ会社の事務として勤務している。部署を越えた恋愛だったわけだね。
「彼、本社採用でうちの支店に異動してきたんです。いずれはまた別の支店に転勤するとはわかってたんですけどね」
転勤族ってことかな。
「でも、それは彼だけで、私は『わかってるつもり』だったんですよ」
藍子の眉が下がり、グラスの氷を指でつついている。
「先生、彼ね『好き』とは言っても『愛してる』と言いませんでした。深入りして転勤のときに別れが辛くなるのが怖いって」
別れる前提の付き合いというのも不毛な気がする。私は半ば呆れたが、口を挟まずに黙って聞いていた。
「先月、彼の転勤が決まりました。その話を聞いたとき、私ったら子どもみたいに泣きました」
藍子はどちらかというと、大人びた子だと思ってた。けれど、ままならないことを受け入れるのは慣れていないらしい。
「私が『嫌だ』って繰り返して泣いていると、彼が初めて『愛してる』と言ってくれました。本当はとっくに愛してたけど、口にしたら戻れなくなると思ったって」
そこまで言うと、彼女は周囲を気にしながら、私にそっと耳打ちした。
「実はね、先生。私たち子どもが欲しかったんです」
「え? だって別れがくるってわかってるのにかい?」
「私は彼について行きたかったんですよ、先生。だから彼が私との間に子どもが欲しいって言ってくれて嬉しかったの。でもね、これは彼の賭けだったんです」
「賭け?」
思わず眉を吊り上げると、藍子が深く頷いた。
「子どもができたら、私と一緒になって、うちの支店にずっといられるよう会社にかけあうつもりだったと言いました。でも、結局子どもはできず、彼はそのまま転勤したんです」
私は呆れて藍子を見つめた。周囲に染まる質だとは思っていたが、恋愛になると尚更のようだ。
「あんたはそれでよかったのかい? ついて行きたかったんだろ?」
彼女は悲しそうな目をした。
「最後には断られました。転勤が決まったとき、彼は私に同情して『愛してる』と言ったんだと思います。結局はそこまでして一緒になる気もなかったのね。自由でいたい人だったから、新しい土地を満喫したかったんだわ」
ぼそぼそと力のない声だった。
「だって、本当に愛してるなら、子どもができなくたって『一緒についてきてくれ』って言うはずだもの」
よくわかってるじゃないか。私はメーカーズマークのアルコールを口から吐き出しながら頷いた。
「ずいぶんと我がままで自分勝手な男じゃないか。どこがよかったんだ?」
肩をすくめる私に、彼女はちょっと口許を緩め、未練を滲ませた。
「とにかくタフでした。ワイルドで、自分に厳しくて、自由で。彼の強さに私は憧れたんです」
「別れて正解な気もするけどね。それで、変っていうのは?」
藍子は私の顔をじっと見つめ、おずおずと口を開く。
「あの、先生はインターネットって使います?」
「あぁ。パソコンは好きだよ。うちの教室のホームページも私が管理してるくらいさ」
昔じゃ考えられなかったことだが、インターネットの力は世界を動かす。初めてパソコンを孫から教えてもらったときは目を白黒させたが、慣れてしまえばネットの利便性にどっぷり漬かっている。
「バイオリンの弦もネットで買うんだよ」
「じゃあ、SNSは?」
「フェイスブックは使ってるね。音楽仲間との連絡用だけどさ。教室のページも作ってあるよ。ツイッターはアカウントは持ってるけど呟いたことはないね」
自分でそう言いながら、思わず小さく笑ってしまった。
「なにせ、私はいつもこの琥珀亭で呟いてるからね」と、私が冗談めかして言うと、藍子はちょっとだけ笑った。しかし、すぐにまた暗い顔に戻ってしまう。
「実は、私も両方使ってるんですけど、それが原因なんです」
「つまり?」
「転勤する前に、彼がパソコン用のメールアドレスを教えてくれたんですよ」
「別れた後に未練がましくそのアドレスを検索して、彼のブログと、フェイスブックとツイッターのアカウントを突き止めたんです」
「はぁ、ネットって怖いもんだね」
心の底から呟く。たった一個のメールアドレスから、ここまで情報がわかるのか。
「それ以来、私……毎日彼のブログとSNSをチェックしてしまうんです。気持ち悪いと思われるって、わかってるのに」
そう呟くと、彼女はすっかり氷が溶けて水っぽくなったハイボールを煽った。
「別れたばかりの頃は本当に興味本位でした。『今、どうしているんだろう?』って。だけど、そのうち嫉妬するようになったんです」
「嫉妬? 誰に?」
「彼の記事やツイートに出てくる友達や同僚です。でも、そのうち、楽しいことばかり書いている彼自身も恨めしく思うようになりました」
「彼のことが好きなのに?」
「好きだからです」
藍子が妙にきっぱり言い切ると、おしぼりですっかり汗をかいたグラスを拭いている。
「新しい土地で楽しいことや嬉しいことを書き綴る記事も、私の知らない仲間とやりとりするコメントも、もう私のことを忘れて人生を楽しんでるように見えて悔しかった」
そんなものかね。
「そのうち、彼のブログの記事を遡って観てみたんです。私、日記をつけてるんですけど、彼が『今日は忙しいから』って会いに来れなかった日は実は友達と遊んでたとか、知らなきゃよかったことを知りました」
私はなんと声をかけていいかわからず、ただただ呆気にとられていた。
「そうするとね、今度はSNSで繋がっている友達を見て回って、女の人とちょっとでも仲良さそうにしていると気が変になりそうになりました。相手の人とどんな関係か一切知らないのに」
これは重症だ。恋に身を焦がした代償は大きいという訳だ。
「知りたくないことばかりなのに、家に帰るとつい彼のアカウントを開いてしまうんです。罪悪感と傷つく恐怖に怯えてるのに、それでも『知りたい』欲求が押さえられなくて」
「それで、ろくに練習もしてないんだね」
「はい。それにね……彼は先週、新しい彼女ができたみたいなんです」
藍子は深いため息をもらした。
「SNSに彼女と一緒の写真がアップされてました。私と正反対で、すごく大人びた美人だった」
藍子の顔が歪んだ。
「悔しくて、悔しくて。本当だったら、そこにいるのは私だったのにって悲しくて。この一週間、ろくに夜も眠れないんです」
彼女は少し声を震わせた。悔しさからか、泣きそうだったからかはわからない。
「まるでパソコンが『パンドラの箱』みたいです」
彼女は残りのハイボールを飲み干してから、こう言った。
「開けちゃいけないのに、誘惑にかられて開けちゃって。そうしたら最後、嫉妬や悔しさや怒りや寂しさがどっと襲って来るの。でも……」
そして、こうぽつりと呟く。
「あの人とまだ繋がっていたい希望だけが残るんです」
私はメーカーズマークを口に含みながら、その横顔を盗み見た。幼い顔立ちをしているはずの彼女が、いつもより十は年上に見えた。
「まぁ、私の若い頃はフェイスブックもツイッターもなかったから『わかるよ』なんて言えないがね」
濡れたコースターを指でいじりながら、私は言った。
「新しい誰かが現れて、お前の中の彼を過去に追いやってくれる日もくるだろう。彼がそういう道を選んだようにね」
「考えられないです。誰を見ても彼と比べてしまうんです」
「それはそうだろうさ。でも、いつか胸の奥にひっそりと眠りにつくものなんだよ、そういう痛みは。今のお前に必要なのは泣いて泣いて、ふっきれることかもしれないよ。それと、少しの強い酒とね」
私は、ちょっと離れた所に立っていた尊に手招きする。
「尊、この子に何か強いウイスキーをおくれ。嫌な事をふっとばすパワフルなのをね」
尊は何かを察した様子で、にっこり頷いた。
彼が戸棚から取り出したのは闘鶏の絵が描かれたボトルだった。そこには『ファイティング コック 6年』という文字がある。私が所望した通り、アルコールの強いバーボンだ。荒々しいワイルドな味の中に、まろやかさも確かにある。だが、ガツンとくる酒だと思う。
藍子は琥珀色の酒を揺らし、香りを確かめた。一口含んで「樽の匂いがする」と言った後、こう付け足す。
「若々しくて、ワイルドなくらい強いのね」
彼女はそっと目の前に置かれたボトルを手に取った。きっと心の中で『あの人みたい』などとセンチメンタルに思っているのだろう。
「これ、闘鶏ですよね」
「そうだね。そういう名のウイスキーだからね」
「この絵はまるで私みたいです。周りが見えずに、一人で興奮してもがいてるの」
すると、尊がカウンター越しに話しかけてきた。
「藍子さん、闘鶏のトレーニング方法ってご存知ですか?」
「いいえ」
「目の前に鏡を置くんです。すると闘鶏は鏡の中の自分と戦いだすんですよ。これがトレーニングです」
「鏡の中の自分?」
「そう、ひたすら自分と戦うんですよ。でも、その結果、彼らは強くなるんです」
尊は私たちの話をしっかり聞いていたらしい。最後の一言には彼らしい優しさが滲んでいた。
私はそっと藍子の手からボトルを取り、目の前に据えた。
「若々しい酒だね。全てはこれからだって希望とパワフルさを感じる酒だ。藍子にぴったりじゃないか」
彼女は尊と私が言わんとしていることをうっすら感じ取ったらしい。初めて、目を細めて笑った。
「先生、尊さん、ありがとうございます」
深呼吸し、彼女は頷く。
「いつか、彼のことをネットで見ても心が締め付けられない日がくるって信じます。それには自分が戦わなくちゃね」
「その意気だよ。パンドラの箱は火をもたらしたんだ。お前にも、きっと何か大事なものを残すはずだから」
このときの彼女は、幼い顔に強さを滲ませた。初めてバイオリンを習いたいと言ってきたときと同じ顔だったよ。
その後、彼女はしばらくボトルを見つめていたが、急に一人で笑い出す。
「何が可笑しいんだい?」
笑顔にほっとしながら私が問うと、彼女は困ったように笑う。
「だって、先生。これ、海外じゃ頼むのに勇気がいりますね」
「どうして?」
「先生、コックってね、英語のスラングで男性器のことなんですよ」
戦う男性器。
その場にいた誰もが、頭の中にその言葉を浮かべただろう。一斉に、皆が笑い出した。
「お前、ウイスキーに失礼なことを言うんじゃないよ」
「先生だって、笑ってますよ」
少しはいつもの冗談好きな藍子の顔が見れた。私は心から安堵しながら、彼女の肩をぽんと叩く。
「ねぇ、藍子。自分は大事にしなさい。子どもは宝だ。男の賭けなんかで授かるもんじゃないよ。まずは男に流されない強さを持つことだね」
「えぇ。反省してます」
藍子がバツの悪そうな顔をした。
彼女はそれからもう一杯だけ飲むと、何度も頭を下げて帰っていった。
残された私はハイライトに火をつけ、ぼんやりとジャズを聴いていた。ライトに浮かぶ紫煙がくるくると螺旋を描いて昇っている。まるで藍子の弱い心そのものに、頼りなげにたなびいていた。
「真輝、ちょっといいかい」
私は真輝を呼ぶと、こうオーダーした。
「ギネスを」
「かしこまりました」
真輝がグラスに黒いギネスを注ぐ。そして『サージャー』と呼ばれる黒い機械に水を垂らし、グラスを乗せた。真輝が操作すると、ビビビと機械音がし、グラスのギネスに泡が生まれて広がった。
「どうぞ」
私の前にギネスが差し出される。泡がほろほろと沈み、グラスの上にあのクリーミーな味わいが積もっていく。いつもこのまろやかなスタウトを飲むとき、まるで餌を前にして待っている犬のような気分になる。
沈んだ泡は白く盛り上がり、綺麗な二層になった。さぁ、もういいだろう。
くいっとギネスを傾けて喉を鳴らすと、あの独特の苦味が鼻を突き抜けた。
「お凛さん、珍しいですね、ギネスなんて」
真輝が小首を傾げている。
「うん、まぁ、なに」
私は苦笑した。
「私の仕事はギネスみたいなもんだとふと思ったんでね」
そう、じっと泡がおりてくるのを待つように、生徒が心を静めるのをじっと待つことしかできないときも、たまにはあるもんだ。
でもその後はとびきりの時間が持てると信じていたい。そう、信じたいんだ。
尊がふと声をかけてくれた。
「藍子さん、落ち着くといいですね」
「そうだね」
「SNSを気にしなくなるまで吹っ切れたときが完全に別れたときだなんて、いまどきの子も大変ですね」
やれやれ、と尊が首を振る。私はそれを苦笑いして見ていた。彼は『いまどき』などと言うが、藍子は尊より歳上なんだがね。
もっとも、尊はあまりパソコンやSNSを使わないから本当のところは理解できないのだろう。
恐らく、藍子は寂しがりやで弱いんだ。だけど、だからこそ誰かのために強くなれると信じたいね。
彼女はパンドラの箱に残ったものを『彼と繋がっていたい希望』と言った。だが、それは未練だ。いつの日か、未練が姿を変えて本当の希望に変わればいい。
パンドラの箱を開けた女は子を残し、その子はゼウスの大洪水を生き残ったはずだ。パンドラの箱を開けたからって、全てが終わったわけじゃない。希望を胸に足を踏み出さなければならないということを学んだだけさ。
これからは、闘鶏のように自分と戦って生きていけばいいんだ。我ながら説教くさいとは思うがね。
私は心底、彼女の幸せを願ったよ。なにせ、私の可愛い弟子だからね。
今までいろんな弟子を見てきたが、目を輝かせて弾き続ける子もいれば、挫折する子もいる。「バイオリンなんてもう見たくない」とまで言われたこともある。
あれだけ盛り上がっていたギネスの泡はもうぺたんとしていた。まるで私の自信のようにね。
バイオリン教師なんていしていると、自分に何が、どこまで出来るか怖くなる。教えることは難しい。
何故かといえば、受け手が人間だからだ。人間相手の商売だからさ。それに、この仕事は、音楽のことだけを教えているんじゃないってこうして思い知らされる。
割り切って、仕事はお金を得るだけの手段って思えれば楽なのかもしれないけど、私は御免だね。そうしようと思えばできるけどね。折角の人間相手の商売だ。こうやって悩みながらも突っ走った方が退屈しない。
ゆっくりとハイライトに火をつける。とうに慣れたはずの辛さが喉を焼くようだった。今日みたいな夜は自分の無力さがしみる。
それでも、あえて口に出した。
「藍子なら、乗り越えてくれるさ。悩んだほうが人間として深みが出ると信じてるよ、私は」
「難儀な人ですね」
尊が呆れたように笑う。「でも、悪くない」とその目が言葉なしに言っていたけれど。
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