7月 手向けのカンパリ・ビア
北海道もいよいよ夏本番だ。
七月にはいると千歳の空を切り裂くように白い雲がたなびいては消えていく光景が見られる。自衛隊の千歳基地航空祭があるんだ。千歳には陸上自衛隊第七師団と航空自衛隊第二航空団の基地があって、自衛隊の家族が多い。
琥珀亭の常連にも自衛隊の若者が何人もいる。けっこうなウイスキーマニアがいるもんでね、私は嬉しいよ。
あの航空祭のフライトというのは、実に見事なもんさ。ハートを描いてご丁寧にキューピッドの矢で射抜いてみせたり、パイロットはどうなっているんだとハラハラするような曲線を描いて飛ぶ。
まぁ、音楽をやっている身としては、窓を閉めていても轟くあの爆音は困ったものだけどね。
他にもビアガーデンやパシフィック・ミュージック・フェスティバルがテレビで報じられたりする季節だ。
日中はあれだけ『ビールがうまい暑さだ』と思っていたのに、夕方には雲行きが怪しくなり、いざ琥珀亭に向かおうと外に出たら雨が降りだした。
たまにはビールでも飲もうかと思ったが、これではやっぱりいつものバーボンを選んでしまう。
今宵のメーカーズマークには、七月の雨森堂の上生菓子が添えられた。
「おや、可愛いね」
朱色の丸みを帯びたハート型にも見える。その上には茶柱がささっていた。今月の上生菓子は『ほおずき』だった。
なるほど、東京浅草では『ほおずき市』があるものね。ほおずき市も一度は行ってみたいものだ。
そんなことを思いながら頬張っていると、そっと扉が開いて呼び鈴を鳴らした。
「いらっしゃ……」
いつものように顔をあげた尊が、最後まで言い終えることなくぽかんとした。
「賢太郎先輩! こっちに帰ってたんですか?」
「よう、尊。久しぶりだな」
片手を上げてカウンターに近づく男は、もう片方の手に紙袋を下げていた。
面長で切れ長の目に、鼻筋の通った高い鼻をしていた。『先輩』と呼ばれていたのだから、年は尊より上なのだろう。ニッとつり上げた口角が、まるで銀幕のスタアのようで、着流しが似合いそうな、あでやかな男だった。
どこかで見たような気がしたが、こんな色男、そうそういない。俳優さんにでも似てるのかね。
「お久しぶりです!」
そして二人はカウンター越しにハイファイブを決める。どうやら旧知の仲のようだ。
嬉々としている尊の隣で、真輝がうやうやしく頭を垂れた。
「お久しぶりです。いつも夫がお世話になっております」
おや、真輝も知っているのかね。そう横目で見ていると、その男は腰を落ち着けて「竹鶴を」とだけ言った。
ウイスキー好きらしいと知るだけで親近感が大幅に増す程度には、私もウイスキー好きだ。
「お凛さんは初めてですかね」
突然、尊がこちらに声をかけてきた。
「俺の三つ上の先輩なんです。千歳生まれで、大学が一緒なんですよ」
すると、彼が爽やかな笑みを浮かべた。
「小森賢太郎と申します。今は本州で親戚が経営している会社に勤めてまして、こっちには時々戻ってくるんです」
「三木凛々子です。バイオリン教師をしております」
尊が私に紹介してくれるということは、よほど親しいのだろう。そう思いながら挨拶を返す。
「お凛さん、俺が琥珀亭に来る前に本州に就職する予定だったの覚えてます? あのとき誘ってくれたのが、この先輩です」
「あぁ、あのときの」
私は三年前を思い出し、思わず呟いた。
尊が二十四の夏だった。
彼は大学に通いながらも、自分が一体何をしたいのかわからない日々を送っていた。
就職活動の時期は迫り来るというのに、どんな企業の資料を集めていいかすらわからずに立ち尽くしていたらしい。
そんな尊に『仕事があるから本州に来ないか』という誘いがかかったんだ。この賢太郎という男がそのときに誘ってくれた相手らしい。
だが卒業間近のある日、突然、仕事の口は無くなった。社員が金を持ち逃げして、新入社員を雇うどころじゃなくなったそうだ。
尊は卒業と同時にバイトも辞めることになっていたし、アパートももちろん引き払うことになっていた。彼のショックは大きかったそうだ。慌てて仕事を探しても今までの準備不足がたたった。
結局、卒業と同時に札幌から千歳へ戻り、喫茶店でバイトをする生活を三年間続けた。
だが、そんな自分の将来に不安と焦りを覚えだしたところに、ひょんなことから琥珀亭でバーテンダーの道を歩むことになった。
人見知りの真輝にかわって尊を面接したのは、私なんだ。
あのとき、尊は乾いた若者だと思った。心に潤いもなく、虚栄心や怠惰で乾ききっていた。だから、ちょっと力を入れたらパリンと砕けそうな危うさも持っていた。
けれど乾いた心が燃え出すと、その勢いはすごいものさ。まるで薪と同じだがね。潤いがあってまったりした心の持ち主よりも、何かに飢えて乾いた心の持ち主のほうが火がつきやすかったりするものだ。それが功を奏したといえる。
もっとも、まさかこの二人が夫婦になって一緒に店を切り盛りすることになるとは、そのときは夢にも思わなかったがね。
私は興味を覚えながら、賢太郎という男を目の端で見た。
姿勢はよく、身振りも大きい。ついでに声も大きい。なんだか、年の割には威厳があった。自分に自信がありそうな男だ。
話を聞いているうちに、尊を最初に琥珀亭に連れてきたのは彼らしいとわかった。道理で、どこかで彼を見たような気がしたわけだ。何度かここで居合わせたことがあるんだろうね。覚えてないけどさ。
真輝はにっこり笑って、賢太郎に竹鶴のロックを差し出した。
「感謝しなくちゃいけませんね。あなたのおかげで私たちはこうしているんですから」
「いえいえ、あのときは本当に悪いことしたって思ってるんですよ。それに、結婚式も仕事で出席できずに申し訳ありませんでした」
頭を下げる賢太郎の口調は、しっかりしたものだった。だが、笑うとちょっと剽軽な雰囲気をまとう。
「先輩、なんだかやつれてますね」
尊が心配そうに眉間にしわを寄せた。
「目の下にクマまであるし。大丈夫ですか?」
尊の言う通り、彼は顔色が悪かった。目が落窪んで、頬の肉がやや落ちているように見える。元からこういう顔色の男なんだろうと思っていたが、そうではないらしい。
「大丈夫。ここのところ、ちょっと忙しかったんだ」
「そうですか。里帰りしてるなら教えてくれればよかったのに」
口を尖らせる尊に、賢太郎が「はは」と小さく笑った。だが、その笑みは力ないものだ。
「いやぁ、すまないな。今回は急だったもんで」
そして、ぽつりとこう呟いた。
「実は、親父の葬式だったんだ」
「あの親父さんが?」
会ったことがあるのだろう。よほどショックだったらしく、尊の顔がさっと歪んだ。
「そう。あの丈夫な親父が心筋梗塞だとよ。あっけないもんだ」
「そうですか……それは辛かったですね」
「ご愁傷様です」
尊と真輝が同時に頭を下げる。賢太郎は「いやいや」と手を振った。
「葬式は身内だけで済ませたんだよ。身辺整理も今日で終わったし、明日には帰るんだ」
「え? もう帰るんですか?」
「そんなに長いこと仕事休めないしさ」
そう言うと、彼はふっと微笑んだ。彼の視線の先には、一気にふてくされた顔になった尊がいる。
「悪かったよ、お前に連絡しないで。だからこそ、こうしてお前の店に飲みに来てるんじゃないか」
賢太郎が「尊は相変わらず何でも顔に出るんだな」と苦笑しているが、彼の変わらないところを見つけたせいか、どこか嬉しそうでもあった。
世間話に花が咲き、賢太郎の竹鶴も空になろうというときだ。真輝が次の注文を訊くと、彼は酒の瓶が並んだ棚の一角を指差した。
「その『カンパリ』で作って欲しいのがあるんだけど」
「珍しいですね、先輩がウイスキー以外を飲むなんて」
尊が取り出したのは『カンパリ』という薬草系のリキュールだった。『スプモーニ』などのカクテルに使われる。目にも鮮やかな赤色をして綺麗だが、味は苦い。
「グラスにカンパリを入れて、ビールで割って欲しいんだが」
「あぁ、『カンパリ・ビア』ですね。もちろんですよ」
カンパリ・ビアの名を聞いて、賢太郎がふっと笑った。
「そんな立派な名前があったんだな、その飲み方」
そう言うやいなや、彼はカウンターの上に置いた紙袋にごそごそと手をつっこむ。
「それで、このグラスで作ってほしいんだ」
そう言って出されたのは、黒みを帯びた赤い切子のビアグラスだった。
「これは?」
「親父の形見の小樽切子だよ」
賢太郎がふっと一息つく。
「親父はカンパリをビールで割るのが好きで、いつもそのグラスで飲んでた。そんな飲み方、どこで覚えてきたんだろうな?」
そう言うと、彼は小さく「今となっちゃ、わからないけど」と付け加える。だが、しんみりした空気を誤摩化すように、彼は気丈に振舞った。
「まぁ、今夜はせっかくだから、親父の味で乾杯しようと思ってな」
「わかりました」
尊は深く頷き、グラスを受け取った。
綺麗にグラスを拭くと、カンパリの栓が開けられる。赤い液体をメジャーカップで量り入れ、ビールサーバーから黄金色のビールを注いだ。
揺らぎ、馴染み、染まる赤を、誰もがじっと見つめていた。
「お待たせしました」
コースターと共に出された『カンパリ・ビア』はカンパリのせいでほんのりピンクに染まっていた。
賢太郎が「尊もチーフも、何か飲んでください」と酒をすすめる。最後に私のほうに向き直ってこう言った。
「お凛さんもどうぞ。どうか、親父のために乾杯してやってくださいませんか?」
私は軽く頭を下げて快諾した。
「もちろんですよ。ご冥福をお祈りします」
かくして全員に『カンパリ・ビア』が渡り、彼の父親のための乾杯が交わされた。
たまにはこんなしんみりした夜もあるもんだ。
カンパリ・ビアがどんな飲み物かと問われれば、私は『苦みの旨味を楽しむものだ』と答える。
ビールの苦みと、カンパリの苦みが絡み合い、『苦み』の面白さを楽しませてくれる。
ぐいっとカンパリ・ビアを飲んだ賢太郎が、意外そうな顔をした。
「あれ? 美味いな」
彼は一人で戸惑っている。尊が訝しげな顔をした。
「どうしました? 何か変ですか?」
「あぁ、いや」
賢太郎がしげしげとグラスを見つめる。
「俺、実はこの飲み方が嫌いだったんだ。二十歳になったばかりの頃、親父に無理矢理飲まされてさ。苦くて飲めたもんじゃないって思ってたんだけど」
不意に「はは」と力なく笑う。そして、こう呟いたのだ。
「俺も大人になっちまってたんだなぁ」
私は『なった』ではなく『なっちまってた』という言い回しが、妙にひっかかった。
「自分では大人になりきれていないとでも思っていたんですかな?」
私が問うと、彼は首を横に振った。
「いえ、そういう意味ではないんです。ただ、大人になると味覚が変わることってあるでしょう? 若い頃は美味いと思わなかったものを、時が経ってから口にすると美味く感じたりしませんか? あの頃はわからなかった美味しさってやつが、いつの間にかわかるようになっててびっくりしたんです」
そして、彼は目を細めてグラスを見つめた。
「俺が大人になってるんだもんな。そりゃ、親父はジジイになってるさ。いつ死んだっておかしくなかったんだよな。よく『孝行したいときに親はなし』って言うけどさ。まさか自分がそうなるとは思ってなかったな」
そして、賢太郎がそっと呟いた。
「……このグラスさ、本当は青いのもあったんだ」
真輝が目を細めた。
「綺麗な切子ですね」
「そうでしょう。俺が中学生の頃、親父がお袋と小樽旅行の土産に買ってきたんです。親父はもう一つの青い切子を箱にしまったまま、大事に飾ってた」
「その青いグラスはどうしたんですか?」
「俺ってその頃、すごい反抗期でさ。親父と喧嘩して、そのグラスを箱ごとぶん投げちまったんだよ」
「えぇ? それじゃ……」
「もちろん、箱の中で粉々。だけど、ほら」
賢太郎がカウンターの上に置かれた紙袋から、もう一つの箱を取り出した。
「まさか、割れたのにとっておいたんですか?」
驚く尊に、彼は寂しそうな顔で頷いた。
「グラスを買ったとき、親父は『賢太郎が成人したらこのグラスで一緒に晩酌するんだ』って言ってたらしいんだ。こっそり、この箱をとっておいたらしい。きっと、捨て切れなかったんだな。箱も、気持ちも」
彼はそっと箱を紙袋に戻しながら言葉を続ける。
「俺がグラスを割ったときの悲しそうな目、忘れられないよ。俺、馬鹿だよなぁ。喧嘩の理由なんてたいしたことじゃないんだ。今じゃ覚えてないくらいなんだから。葬式の後でお袋からグラスを渡されてさ。えらい泣かれたよ」
賢太郎の父は、割れたグラスを捨てようとした妻を止め、大事そうに箱を抱えてこう言ったという。
『あの小さかった賢太郎がさ、反抗期だぜ? これって、自立への一歩なんだよな。なんだかそう思ったら、一緒に晩酌をするより嬉しいな』
誰もが、じっと彼の言葉に耳を澄ませていた。泣き出すかと思ったが、その声は淡々としている。
「本州に就職したせいもあるんだけど、親父とはあんまり会う機会もなくてさ。たまに実家に帰っても親父と飲もうとしなかったんだ。親父はウワバミで朝まで飲むし、面倒だった。今思うと、ゆっくり晩酌に付き合ってやればよかった」
そして、彼はこう続けた。
「俺って、本当に馬鹿だよ。気づいたときには遅すぎるってことがなんて多いんだろう。仕事ばかりで嫁にも逃げられて、親父に孫の顔も見せられずじまいさ。嫁とちゃんと向き合っていれば、何か変えられたかもしれない。嫁がいなくなって家の中が空っぽになってから、俺にも足りないところがあったんだって気づいたんだよ」
「え、先輩、離婚してたんですか?」
口をぽかんと開ける尊に、彼は自嘲じみた顔になる。
「悪いな、知らせないで。わざわざ連絡することでもないと思って」
彼は失意を浮かべた顔で微笑んだ。
「いつもそうなんだ。いつも、気づくのが遅いんだよ」
すると、真輝が静かに口を開いた。
「失ってしまわないと気づかないこともあるって言いますよ。そういうことに限って、大事なことなんですよね、きっと」
ふと、尊が何か言いたげな顔をして妻の顔を見やった。
真輝は尊と出逢ったとき、未亡人だった。真輝の初婚の相手はこのバーに弟子入りしていた男だが、琥珀亭の先代オーナーと一緒に交通事故で他界している。真輝にも失ってから気づいたことがあったんだろう。
私の脳裏に今は懐かしい顔ぶれが浮かんでは消えていった。かつての想い人だった先代オーナー、その妻となった私の親友の遥、そして最後に死んだ旦那の顔が私の胸を締め付けた。
「あぁ、本当にその通りだ」
思わず口をついて出た言葉に、賢太郎が顔を向けた。
「あなたも、こんな想いをしたことがあるんですね」
「そりゃあね。これだけ生きていれば、一度や二度じゃないさ」
私は煙草を取り出し、ライターを鳴らした。ハイライトの煙がいつもより辛い。
「私は自分を馬鹿だとは思わなかったがね、自分が『弱い』ってことに気づいたよ」
「お凛さんが弱い?」
尊が目を丸くしている。私は苦笑して、その顔を煙草で指した。
「こいつの反応を見ての通り、どうも私は『強い』イメージがあるらしい。自分でもそう思ってた」
賢太郎は黙って私の話に耳を傾けている。
「だけど、それは違ったんだ。私が強くあれたのは、周りに支えてくれる大切な人たちがいたからだ。彼らがいなくなってから、そう知った。特に旦那に先立たれたときにね」
「そうですか」
賢太郎がカンパリ・ビアを見つめる。
「後悔がこんなに辛いなんて知りませんでした。グラスを割ったこともそうだけど、親父と一緒に晩酌しなかったことを一番悔いてます。これからは、俺が親父の代わりにカンパリ・ビアを飲み続けますよ。親父にはいい手向け水になるでしょうから。それに……」
彼は眉間に皺をよせて、こう続ける。
「自分への戒めって意味も含めてね」
彼はそう言うと、グラスに残っていたカンパリ・ビアを一気に飲み干した。
「ぷはぁ! やっぱり苦いですね」
空になったグラスを置き、彼は微笑んだ。ライトに照らされて、うるんだ目が輝いている。やがて、鼻をすすり、尊に礼を言った。
「ありがとうな。親父の酒を飲ませてくれて」
尊は黙ってそれを聞いていたが、やがてカウンターの向こうにある戸棚を開けた。そこに並んでいたのは栓を開けられるのを待つストックの酒だった。
彼はその中から真新しいカンパリを取り出し、賢太郎の前に静かに置いた。
「俺からの香典です。受け取ってください。香典返しはいりませんよ」
賢太郎が笑う。その拍子に涙がぽろりとこぼれ落ちて、膝に弾けた。
「カンパリ・ビア飲んで、ちゃんと飯食って、ちゃんと寝てください」
尊は鼻と目を真っ赤にする賢太郎に、優しく沁み入るような声で言った。
「歳なんか関係なく、俺や先輩もみんな死と背中合わせなんです。だから体を大事にしてください。そんなやつれた顔、俺は見たくないです」
賢太郎は両手で濡れた頬を手荒く拭う。
「偉そうに」
だが、その声は嬉しそうだ。
「立派になりやがってよ。けれど、そういうところはちっとも変わってない」
そう言う彼は、とても柔らかい笑みを浮かべていた。
「いつだってお前と会うと、ほっとするんだ。だから俺は、お前に会いたかったのかもしれないな。誰かに許してほしくてさ」
「ありがとうございます」
そう答えた尊は感慨深そうだった。察するに、尊はこの男に憧れのようなものを抱いているのかもしれない。きっと、尊にとっていい先輩だったんだろうね。
「でも、許して欲しい時でなくても会いに来てください」
彼らは互いの顔を見つめ合い、そして同時ににやりとする。
「あぁ、まったくだな。そうするよ。お前もこっちに遊びに来い。奥さん連れてな」
賢太郎はまた連絡すると尊に約束し、帰っていった。大事そうに紙袋を抱え、こう言い残して。
「親父のために新しい小樽切子を買うよ。俺がカンパリ・ビアを飲むときは、親父の分も用意しなきゃな」
彼が扉の向こうに消えてから、私たちはしばらく無言だった。
沈黙を一番最初に破ったのは、尊だった。
「なぁ。真輝は失ってから、何に気づいたんだ?」
俯いていた真輝の顔をまっすぐ見つめ、心配そうな顔をしている。おそらく、前の夫に先立たれたときのことを思い出しているんだと見透かしたんだろう。
こういうことをストレートに訊けるのは、尊の持って生まれた性格だね。だからこそ、ためこむタイプの真輝は救われるんだろうが。
真輝はふっと笑った。
「私は自分が『もとから独りだったんだ』って気づいたわ。家族が死んだから独りになったんじゃなくて、誰もが孤独なのよ。個で生まれて、個で死んでいくんだもの。でも、だからこそ、誰かと寄り添いたくなって、誰かがくれる愛情が嬉しいんだわ」
尊は「そうか」と一言だけ呟き、そっと微笑んだ。
彼はまだ賢太郎や真輝、そして私が味わった痛みを知らない。だが、その顔はいたわりに満ちていた。
こういうとき、彼らはいい夫婦だと心から思うよ。そう、まるで先代オーナーの蓮太郎と、その妻のようだ。
頭の中で思わず『蓮さん』と呼びかけた。『蓮さん、あなたの孫娘はあなたと同じような生き方をしているよ』ってね。
真輝はね、人と酒を繋ぎ、痛みや悔いを酒に溶かしてくれる。喜びや楽しさをわかちあうように、苦しいこともわかちあってくれる。けれど、押し付けがましくもなく、澪つくしのように導くだけなんだ。
そして尊というのは、人の心をふっと和やかにしてしまう男だ。真輝が澪つくしなら、尊は澪そのものかもしれない。
きっと、賢太郎も大洋をさまよう舟みたいな気持ちだったんだろうね。
彼の流した涙はカンパリ・ビアよりも苦かっただろう。だけど、きっとこれからは何かが変わるさ。今度は違う誰かに違う態度で接してやれるはずだ。だって、カンパリ・ビアは苦いだけの酒じゃないからね。
会計を済ませて外に出ると、夕方からの雨がまだ続いていた。
歩いて帰った賢太郎の涙を隠してくれただろうね。
ぬるくて、優しい雨だったよ。
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