第11話 ミストの向こう側に
あの夜から尊たちはいつもと変わらない日々を送っていた。抱きしめたり、泣き顔を見たり、ぎくしゃくしてもおかしくはなかった。だが、お互いがそれに触れもせず、そのかわり忘れてもいない。それが二人にとって自然な接し方だった。
演奏会当日、尊は身支度を整えて玄関を出る。そこにはもう真輝が立っていて、尊を見るなり微笑んだ。
「行きましょうか」
「はい」
あのときのように手を取ることもなく、ただ肩を並べて、駅へと続く道を歩いて行く。
昼間に見る『エル・ドミンゴ』は、夜の顔とはまた違う雰囲気を纏っていた。がやがやと人が賑わう店内に入ると、真っ先に暁が出迎えてくれた。
「よう。いらっしゃい」
そして尊と真輝の顔を見比べ、ふっと眉を下げた。
「カウンターの席に座って。二人の分は予約席にしてあるから」
そして、ぽんと尊の肩に手を置き、真輝に聞こえないように耳打ちしてきた。
「……ありがとう」
尊が口を開く前に、彼はさっさと他の客に挨拶に行く。何に対しての「ありがとう」か訊くのは野暮かもしれないと咄嗟に思った。それは真輝を連れてきてくれたことへの礼かもしれないし、チケットをさばいたことへの恩義からかもしれなかった。
けれど、きっと彼には真輝から漂う何かがほんの少し以前と違うことに気づいたのかもしれないと、なんとなく思った。
案内されたカウンターに腰を下ろしたとき、暁から問答無用でコロナを渡されてこう言われたからだ。
「仕事に行く頃には酔いもさめてるさ。今日は乾杯したいんだ」
彼の目はどこまでも優しく穏やかだった。
「ありがとうございます」
尊は心からそう答えた。
やがて、スタッフルームの扉が開き、わあっと歓声が沸き起こった。
お凜さんが輝くバイオリンを手ににこやかに登場したのが見えると、観衆は割れんばかりの拍手で出迎えた。そのあとからチェロを抱えた大地が照れ笑いを浮かべながらついてくる。
お凜さんはシックな黒いワンピースをまとい、ハイヒールが大人びた雰囲気を醸し出していた。いつもは無造作に縛っている髪をふわりと垂らし、新鮮だった。なにより、その顔つきは自信と感謝に溢れ、優雅そのものだ。
大地も細身のスーツに艶やかな革靴を履き、いつもの陽気な彼からは想像もつかないような色気を感じる。
ピアノの前に置かれた椅子の前に並ぶと、二人は深いお辞儀をした。拍手がおさまるのを待って、お凜さんがにこやかに挨拶を始める。いつもよりさらに凛としたよく通る声でこう切り出した。
「皆様、本日はおいでいただきありがとうございます。このお店では時折テーマを設けて演奏をさせていただくんですが、今日は『はじまり』というテーマです。冬が終わって暖かくなってきましたね。何かを始めようというにはいい季節ですから」
いつもカウンターで『あたしゃ』なんて話しているときは打って変わった語り口だ。
「というわけで、音楽をあまり聴かない方でもどこかで耳にしたような曲ばかりです。ヴァイオリンとチェロのための二重奏とか、そんな小難しい名前の曲じゃありませんよ。これをきっかけに音楽に興味を持っていただけたらそれでよし。そんな気軽な席ですので、どうか料理やお酒を召し上がりながらリラックスしてお楽しみください」
周囲に沸き起こる笑いに、思わずつられてにやける。
そして彼女はバイオリンを構えた。大地も姿勢を正し、チェロでA音を鳴らす。腹の底に響くような頼もしい音だ。お凜さんは弦の調子を確かめるように開放弦を鳴らし、ふっと笑った。
「それでは、映画『道』よりジェルソミーナのテーマを」
すっ……とお凜さんの息が吸い込まれる音がした途端、ゆるやかな、まるで遙か遠く続く道を望むような旋律が流れた。やがて大地のチェロがそれに膨らみを持たせる。
尊はその映画を観たことはなかったが、それでも心に迫るものを感じ、料理に手をつけるどころではなかった。
お凜さんの軽妙なトークを挟みつつ、それからも演奏は続く。ヴィヴァルディの『四季』から『春』を弾いたりしたかと思えば、民謡もあった。
やがて、彼女はこう言った。
「次はよく知られている曲だと思いますが、パッヘルベルの『カノン』を演奏いたします。この曲は大層人気がありまして、私が経営する教室の発表会でも嫌になるくらい毎年、弾きたい曲として名前が挙がります」
軽い笑いを起こし、お凜さんがおどけている。
「カノンというのは、輪唱みたいなものですね。同じ旋律の追いかけっこです」
咄嗟に大地が有名な旋律をさらっと弾いた。あのあどけない大地がどんと構えているのが新鮮だった。
「物事を始めるとき、道を歩み出したとき、人は努力を繰り返します。このままでいいのかなぁ、もうやめようかなぁなんて弱音も繰り返します。でも、この曲みたいに、その繰り返しが素敵なことなんです」
尊はふっと笑みを浮かべた。どうしてお凛さんがこの演奏会に誘ってくれたか、わかったような気がしたのだ。
その言葉は、まるで自分に言われているようだった。琥珀亭に来て、がむしゃらにバーテンダーの道を走ってきた過去が脳裏に浮かぶ。そして同時に真輝への思いも。
大地の目がすっと伏せられた。左手が弦をなぞり、ふっと一息吸い込む。地の底から沸くような、それでいて優しい音色が鳴り出した。なんとも力強いボウイングだった。ビブラートが生む柔らかな余韻で瞬時に包まれる。好きなものに真っ直ぐ立ち向かい、そして満ち足りた笑みを浮かべながら真摯にチェロを奏でる姿に、胸がいっぱいになった。
お凜さんのバイオリンが高らかに歌い出したとき、尊はそっと真輝の手を取った。彼女は弾かれたように尊を見やったが、すぐに目を細め、その手を握り返す。
尊は曲を聴きながら、大地のように真っ直ぐに、真輝の心に向き合っていこうと決めた。アンコールのベートーベンの『歓喜の歌』が、まるで決意への祝福のようだった。
演奏会の帰り道、千歳駅から琥珀亭へ向かう道で、真輝がため息まじりに言った。
「ベートーベンっていいですね。私、今までピアノソナタくらいしか聴かなかったんですけど、もっと色々聴いてみようかな」
「俺は本当にクラシックわかんないんで……『月光』くらいしか知らないですね」
「いい曲ですよね。そうそう、『テンペスト』もいいですよ」
「テンペストって、どういう意味なんですか?」
「嵐って意味です。シェイクスピア作品に同じ名前のものがあるので聴いてみたんですけど素敵でした」
「真輝さんって、本当にシェイクスピアが好きなんですね」
「はい。高校生の頃から」
シェイクスピアは正義の影響というわけではなかったらしい。思わず「へぇ」と声を漏らすと、彼女が照れ臭そうに言った。
「ロマンチストに思われるかもしれませんけど、シェイクスピアの『ソネット』ですっかりはまったんです」
即座に『ソネット、ソネット、ソネット……』と脳内で繰り返す。そんな尊を見透かしたように、真輝がふっと目を細くする。
「興味があればお貸ししますよ」
「え? いいんですか?」
パッと顔を輝かせた俺に、彼女はたまらず声を上げて笑った。
「千里ちゃんにあとで訊こうと思ったでしょう?」
「どうしてわかるんですか? こういうとき、バーテンダーという職業柄、なんでも顔に出る癖をいい加減なんとかしなきゃとは思うんですけれど」
「あら、そこが尊さんのいいところですよ」
「そうでしょうか。なんでもさらけ出すのはちょっと無防備なような……」
尊は苦笑したが、ふと眉尻を下げた。
「まぁ、今はいいか。相手は真輝さんですからね」
途端に、真輝が耳まで赤くなった。それを見た尊は胸がじんわり温もるのを感じていた。無性に今、彼女の手を取って歩きたい。
そのとき、ふと空を見上げると白い機体が青空に斜めに浮かんでいた。どこかへ旅立つ飛行機の姿が眩しい。
尊は飛行機に憧れていた学生時代の自分を思い出した。あの飛行機のように知らない世界に飛び立ちたい。でも、どこに行っていいかわからない。そんなもどかしさを抱えたまま、地面に突っ立っていた自分を。
今思えばどこに行けばいいのかわからなくて当然なのだ。彼の世界は足下の、この街にもうあったのだから。ただ、彼は明後日のほうを向いて、走ることすらせずに立ち止まっていただけだった。
知らない世界など、どこか遠くとは限らない。すぐ目の前にだってそれはゴロゴロ転がっている。そして彼は真輝がいるとびきりの世界を見つけることができたのだ。
俺はそっと手を繋ぎ、噛みしめるように呟いた。
「少しずつでいいですから……」
彼女が自分を見つめているのが視界の端に入る。ちょっと緊張して震えそうなのを堪えて、尊は静かに言った。
「俺に慣れてください」
彼女は何も言わなかった。ただ、ぎゅっと握った手に力をこめて『はい』というメッセージを乗せてくれた。
ひたすら愛おしかった。好きという言葉だけではくくりきれない何かが、胸の中で溢れて、まるでカノンのように膨らんでいったのだった。
真輝が貸してくれたシェイクスピアの『ソネット』は思ったより読みやすかった。
『ソネット』っていうのは14行で出来た詩のことだ。
たくさんの詩が収録されていたが、とりわけ尊は130番の詩にこめられた熱情にほだされた。だが、一番心にひっかかったのは74番だった。
イギリスが生んだ偉大な詩人は愛する人に『自分が死んでも決して取り乱すな』と伝えている。
肉体なんて死んでしまえば、ウジ虫の餌に過ぎない。形見となった詩を見れば、君へ捧げた至上のものがいつでもわかる。そして、それは君のもの。
そして、最後に『肉体に価値があるのは、魂が入っているからだが、魂とはこの詩のこと。そして、これはきみのもとに留まる』と言い切るのだ。
真輝は正義がいなくなってから、この詩を読み返しただろうかと、本を閉じて首を傾げた。
真輝は琥珀亭に正義さんの魂を見た。だからこそ、琥珀亭を畳まなかった。だったら、自分は正義と一緒に彼女を笑顔にしていきたいと思えた。
嫉妬しないと言えば、嘘になる。暁のように『俺を見てよ』と、やきもきしたくもなる。
けれど彼女は、いつか自分の中にある正義に似ていない、自分だけの部分だって好きになってくれると信じていた。
何故なら、彼には、二人が琥珀亭で並んで立ち、静かに微笑み合っている姿が想像できたのだ。好きになれなかった街並みさえ、彼女と手を取って歩くだけで大切な道になる。ここで老いを重ね、気持ちを重ね、手を重ねて生きていく。
尊は、頭の中でリアルに想像できることは、大抵叶うと信じていたのだった。
その夜は濃い霧だった。ちょっと先も見えない有様で、道行く人もタクシーも少ない。
「今日はウイスキー・ミストが飲みたくなる夜ですね」
苦笑している真輝に、尊が答えた。
「そういえば俺、ウイスキー・ミストってオーダーされたことないですね」
「簡単ですよ。オールドファッションド・グラスにクラッシュアイスを詰めて、ウイスキーを注いで、レモンを搾って入れるだけです。それにストローを二本さして出来上がり」
「まぁ、ウイスキー好きのお客様がおすすめをねだってきたら、出しましょうか」
それっきり尊たちは言葉を交わすことなく、ボトルやグラスを磨いて客を待った。今夜はまだ誰も来ていない。お凜さんも今日は遅くなるようだった。
店内に響くのはジャズだけだ。アート・ブレイキーの『モザイク』が終わり、今度は『テイク・ファイヴ』が聞こえてきた。
ふと、尊は真輝に声をかける。
「真輝さん、『ソネット』読み終わりましたよ」
グラスを磨いていた彼女の手が止まった。
「真輝さんは正義さんがいなくなってから、あの本を読み返しましたか?」
突然出した名前に動揺したのか、ちょっとたじろいだ。けれど、すぐに深く頷き、尊をじっと見つめる。
「はい。正義もあの本は好きでしたから」
「彼は何番の詩がお気に入りでした?」
「確か……18番です」
「俺もです」
尊は嘘をついた。目を丸くさせる彼女に、笑みを見せる。
あなたはまだ知らないでしょう? 俺だって、相当ずるい男なんですよ。そんな言葉を隠して。
「真輝さん、安心してください。俺はやっぱり正義さんに似ていますよ。あなたはもっと俺を好きになります」
「……すごい自信」
思わず吹き出した彼女に、尊は胸を張る。
「時がたてば、わかります」
「そうだといいです」
「そうですよ。今日の霧みたいに先が見えなくても、俺はあなたとここでずっと笑って過ごしているのを簡単に想像できますよ。霧はいつか晴れるし、一歩踏み出せば目の前のものくらいは見えます」
そして、ぐっと彼女の目の前に歩み寄った。
「ね? こんな風に」
真輝の顔がみるみるうちに真っ赤になっていく。
尊はそっと彼女の手からグラスを奪い、カウンターに置いた。
「私……」
真輝がおどおどしている。
「私でいいんでしょうか……」
「また、そういうずるいことを。答えなんて知っているくせに」
尊が笑うと、彼女もつられて吹き出した。
「そうですね。本当、そう」
真輝がはにかんで、こう切り出した。
「……尊さんが私の唇を触ったときがありましたよね」
「え?」
あっさり形勢逆転だ。尊は突然の言葉にたじろいでしまう。
「あのときは夢かと思ったんです。でも……」
そっと形のいい唇をなぞり、彼女は笑みをたたえた。
「起きたとき、お粥があって、冷蔵庫にはヨーグルトやアイスもあって、メールも届いてて。すごく安心したんです。誰かが私を大切にしてくれてるってわかって、本当に嬉しかったんです。……ありがとう」
真輝が笑った。それは、今までで一番の笑顔だった。
そして、尊は『ずっとこういう顔が見たかったんだ』と、胸がいっぱいになる。何故なら、それは、自分しか知らないはずの顔だった。
彼はそっと細い体を抱き寄せて、「こちらこそ」と呟く。
「出逢ってくれて、ありがとう」
腕の中で、真輝がおずおずと言った。
「尊さん、お願いがあります」
「なんですか?」
「今年の墓参りは一緒に行ってください」
「……わかりました」
彼女の中にある霧は想像以上に濃いかもしれない。けれど、いつでも隣に彼女がいれば一緒に歩いていける。肩を並べて、同じほうを向いて、ときどき微笑み合って。
ソネットに込めた想いを抱きながら。
そう、霧の向こう側に。
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