第10話 嘘つきオールドパー
あれ以来、真輝と尊は何もなかったかのように過ごしていた。翌朝には彼女はいつも通りだったし、尊もそんな彼女に合わせてしまったのだ。
しかし、思い出すたびにキツネにつままれたような気分になる。どうして、あんなに情緒不安定な様子だったのか、わからない。ただ、そっとしておくのが一番なのだと、暗黙のうちに悟ったのだった。
ある日、お凜さんが久しぶりに早い時間から店に顔を出した。
「お凜さん、最近ずっと遅かったですよね。忙しかったんですか?」
「まぁね。これ、店に置いてくれない?」
そう言って、彼女はバッグから紙の束を取り出す。
「チラシですか?」
「うん、間違っちゃいないけど、フライヤーっていうんだよ」
お凜さんが苦笑いを浮かべる。ポスターよりは小さいが、チラシよりはデザインが凝っている。そこには『エル・ドミンゴ』の店名が入っていた。
「暁の店でね、大地と一緒に生演奏するんだよ」
「へぇ、いいですね」
「まぁね。人前で演奏する機会を大地にくれるっていうのはありがたいね」
「そういえば、大地の受験はどうです? 難しいんですよね?」
「そうだね。でも、これで駄目ならそれまでだ。諦めもつくだろうよ。思いっきりやって悔いが残らなければいいのさ」
お凜さんはメーカーズマークをちびりと飲んだ。
「一度身につけた技術は宝だからね。チェロの師匠だった遙も天国で喜んでいるさ」
「孫も自分と同じ音楽の道にすすむのは嬉しいものですか? それとも、本当は板前のほうがいいんですか?」
そう訊いてみると、彼女はケラケラ笑い飛ばす。
「どっちにしたって安定なしの自営業だからね。本人がやりたいようにやるのがいいのさ。第一、あたしは誰かに説教できるほど迷惑かけずに生きてこれなかった身だよ」
それを聞いた尊は自然と顔を綻ばせた。彼はお凜さんのこういうところが好きだった。彼女と話していると、なんでも出来てしまうような気になるから不思議だ。頭ごなしに否定せず、きちんと肯定して認めてくれる。それが意外と難しいのだと、大人になればなるほど身に染みる。
ふと、お凜さんの隣から「尊君、同じのちょうだい」と声が上がった。
オーダーしたのは、つるりとふくよかな顔をした古本屋の主人だった。お凜さんとバー仲間として親しいらしい。
「アレクは元気ですか?」
アレクサンドロス三世という大層な名前の飼い猫の話題を振ると、彼はまるで恵比寿様のような笑みを浮かべた。
「あぁ。なにやらツンと澄ましているのがまぁ、大王様らしくていいや」
新しい氷とウイスキーで満たされたグラスを差し出すと、隣でお凜さんがからかいだした。
「あんたはいつもその酒ばかりだね」
彼が飲んでいるのは『オールドパー』というスコッチ・ウイスキーだった。老いた男の絵が描かれたラベルで、丸みを帯びた角をもつボトルだ。
「そういうお凜ちゃんだって、毎回その赤いのがだらしなくかかったボトルじゃねぇか」
古きよき仲間のやりとりを微笑ましく見ていると、古本屋の主人が実にうまそうにウイスキーを口に含む。
「やっぱり、家で飲むのとはなんか違うな」
「そう仰って頂けると嬉しいです」
古本屋の主人は酔いで赤くなっている頬をにんまりとさせて、自分のボトルを手にした。
「尊君、知ってるかい? このボトルは斜めに立つんだぞ」
「え? 斜めに?」
驚いていると、彼はそっとオールドパーのボトルを斜めにし、ゆっくり手を離す。カウンターの上でまるでピサの斜塔のように立つボトルがライトを浴びた。
「すごいですね! 知らなかったな」
思わずはしゃぐと、主人が気をよくしたようで大声を上げて笑った。
「尊君はなんにでも反応が素直でよろしい!」
「それって、誉められているんですか?」
苦笑すると、今度は主人がボトルの絵を指さした。
「このじいさん、誰か知ってるかい?」
「ラベルに描かれている人ですか? 創業者ですかね?」
「違うんだな」
「教えてくださいよ」
本当は悔しいが、こういうときは素直に教えを請うのが上策だ。なにせ、彼はそれを講じたくてたまらない顔をしているのだから。
「じゃ、尊君もこれで一杯やりな」
尊は恭しくオールドパーをいただくと、彼の蘊蓄話に耳を傾けた。
この『オールドパー』は日本に初めて紹介されたスコッチ・ウイスキーで、明治初期にかの有名な岩倉具視が欧米視察から持ち帰ったものだとされている。吉田茂や田中角栄も愛飲していた酒だ。
そして問題のラベルの男は、かつてイギリスでなんと152歳まで生きたとされるトーマス・パーという人らしい。100歳ってだけで万々歳なのに、プラス52歳というから驚きだった。
80歳にして結婚し、100歳で私生児をもうけている。最初の妻を亡くすと、122歳のときに再婚した、とんでもなく元気な男だという。
ウェストミンスター寺院に葬られたが、今もなおウイスキーの顔として世界中でお目に掛かる。この絵は画家のルーベンスが描いたものが基になっているそうだ。
「まぁ、なんとも眉唾ものな」
尊は話を聞いて思わず笑ってしまった。
「ありえないですよね。嘘くさいな」
主人は尊の反応が面白いらしく、やけに上機嫌だった。
「嘘だとしてもさ、ミステリアスでいいじゃないか」
お凜さんいわく、彼はどこか夢見るところがあるらしい。『まぁ、そこがいいんだけどね』と言っていたのを、尊は思い出した。
「それに俺も家内を亡くして久しいからな。パーじいさんにあやかりたいのさ」
「あんたは再婚よりも、まず酒癖の悪さを治さなきゃならんね。まったく、そろそろ切り上げたほうがいいよ。目がとろんとしてるじゃないか」
お凜さんが手厳しくやりこめる。この主人は飲み過ぎるとどこでも寝てしまう癖があった。それをよく知るお凜さんは彼の斜めに静止したままのボトルを掴み、尊に手渡した。
「これ、もう棚に戻しておきな」
「お凜ちゃんには敵わないな。大丈夫だよ、これを飲んだら帰るから。アレクに餌をやるのを忘れちまったんでね」
古本屋の主人が帰ったあとで、お凜さんがにっと唇の端を吊り上げた。
「あいつはあんなこと言うけどね、後添えなんぞもらう気はないんだよ。死んだ奥さん一筋なんだから」
「でも、ずっと独りでいられるものですかね。淋しくないのかな?」
なんとなく、尊はカウンターの端で別の客と会話している真輝を盗み見た。二人でいることが当たり前だった日常が、ある日を境にたった独りになる。どこかぽっかり穴が空いたまま、人はそれに慣れるのだろうか。
お凜さんは尊の視線を辿って、「ふん」と鼻を鳴らす。
「あの親父には子どもも孫もいる。だけど、だからって淋しくないかどうかは、彼にしかわからないよ。それに、みんながそうだとは限らない。大切な人を亡くした本人にしかわからないし、それぞれの答えがあるんだよ」
尊にはなんと答えていいかわからなかった。それは、大切な人を亡くしたことがないからかもしれない。それは幸せなことなのだろうか。それとも、痛みのわからない鈍感な人間に過ぎないのだろうか。
「なぁ、尊」
彼女は頬杖をつき、俯いている尊を見上げた。
「あたしはお前に期待しているんだ」
いつになく真面目な調子で、彼女は囁く。
「あんたなら、あの子の止まった時間を動かしてくれるような気がしてね。好きなんだろう?」
お凜さんが言うのは間違いなく真輝のことだろう。否定もしなかったが、彼の顔に浮かんだのはなんとも力ない苦笑だった。
「かいかぶりですよ。俺の手は届く気配もありません。なにせ、どうしたらそうできるのか俺はおろか彼女だってわかっていないんですから」
「でもね、あの子は少し柔らかくなった気がするよ。あんたが来てからね」
「そうですか? そうなら嬉しいけれど」
「できればあたしが蓮さんと遙のところに逝くまでに、あの子の幸せな顔をもう一度見れたらいいんだけどね」
「縁起でもない」
思わず眉をしかめて、彼女のグラスにウイスキーを注いでやった。
「これだけ命の水を飲んでるんですから、お凜さんは現代のオールドパーになれますよ」
「あたしを殺す気かい。こんなに飲んだら悪酔いするよ」
尊は呆れているお凜さんに顔を寄せ、誰にも聞こえないようにぼそっと囁いた。
「彼女は失ったものが大きすぎます。俺はそれに敵うのかって、挫けそうになります」
「馬鹿だね、尊」
ふっと、彼女は皺で囲まれた目を細める。まるでイエスを見つめるマリアのように慈悲深い眼差しだった。
「オールドパーと一緒だよ。お前にはとんでもなくでかいものに見えたとしても、実際はそうじゃないかもしれない」
「そうでしょうか」
「今、重要なのはそこじゃない。あの子の心に飛び込んで、そいつがどれくらいの大きさと重さを持つのか自分の手で計ってみなきゃね、わからないだろ」
「はぁ」
「ねぇ、尊。暁の店でやる演奏会に真輝とおいでよ」
お凜さんがカウンターに置かれたフライヤーを指さしている。
「え、だってこれ、夜ですよね? 二人一緒に休むなんて無理ですよ」
「違うよ、よく見てみな。ランチタイムにやるんだよ」
「あ、本当だ」
フライヤーを見ると確かにお昼の十二時スタートになっている。
「あそこって昼もやってたんですね」
「そうだよ。まぁ、夕方は二時間くらいいったん閉まるけどね」
「せっかくだから、行きたいな。真輝さんさえよければだけど」
「あぁ、そうしておくれ。よく知られてる曲ばかりだから、難しいことはない。普段着でいいからね」
「はい」
クラシックの演奏会など、行ったこともなければ、テレビで見たこともない。生演奏も、いつかお凜さんが『感傷的なワルツ』を披露してくれたとき以来だった。
フライヤーを一枚ポケットにしのばせると、尊は真輝の後ろ姿を見て、小さなため息を漏らしたのだった。
真輝がもてなしていた客が帰ると、お凜さんもすぐに会計して出て行く。時計の針はもう閉店まであと十分を差していた。
「真輝さん、このフライヤー、お凜さんが置いてくれって」
「へぇ。暁の店で? 夏にもやってましたね」
真輝がフライヤーに目を走らせ、頬を緩ませた。
今だったら誘えるかなと思った矢先、彼女は腕時計を見る。
「閉店まで十分ですね。もう片付けちゃいましょうか」
「あ、はい……」
結局、尊はそのまま何も言えずに店を出た。この時間になると辺りはすっかり出来上がった酔っぱらいを目指すタクシーのパレードだ。
尊はベストのポケットを上から押さえながら、足早にタクシーの間をぬって通りを出た。
隣を歩く真輝にいつフライヤーを見せようか迷いながら、まだ道の端に残る汚れた雪をよけて行く。
真輝は明日のお通しの予定について話していたが、ふっとそれが途切れた瞬間に思い切って声をかけた。
「真輝さん、これ」
尊が差し出したフライヤーを見て、彼女はきょとんとした。
「あれ、持って来たんですか?」
「一緒にどうですか?」
「え?」
「あの、お凜さんが一緒においでって……っていうか、俺も行ってみたいし、その……」
最後の一言を口にするために、ぐっと拳を握って自分を鼓舞する。
「……真輝さんと行ってみたいです」
「でもこれ、夜ですよね?」
「あ、いやランチタイムです。せっかくだから、一緒に行きませんか? 美味しいものも食べられるし、息抜きにでも」
返事はなかった。真輝は俯いてフライヤーをじっと見つめている。
「あの……」
ダメでしょうか。そう言おうとしたときだ。何かおかしいと、咄嗟に勘づいた。
彼女の口は何か言いたげに開いているけれど、わなないている。そこから声にならない言葉がこぼれ落ちているような気がした。フライヤーを持つ手には力がこもり、少し震えている。けれど、それは寒いからではなさそうだった。
「真輝さん」
名前を呼んでも尊の目を見ようともしない。足取りもつかつかと速くなり、前につんのめりそうだ。
「真輝さん!」
尊がいつになく強い口調で呼ぶと、彼女はびくっと肩を振るわせた。
「一体どうしたんですか。俺、何か気に障ることしました?」
「なんでもないですよ。ただ、予定は入ってたかなって考えてただけで……」
ぼそぼそ口ごもりながら、彼女は遠くを見ている。
「嘘つき」
無性にいらっとして、尊は咄嗟に彼女の肩を掴んだ。
「え?」
驚いて立ち止まった真輝を真っ正面からのぞき込むと、やっと目が合った。
だが、その瞬間、息をのむ。
彼女はとても怯えた顔をしていた。真輝の細い肩から手を離し、尊は一呼吸置いてから微笑みかける。
「いいですか、真輝さん」
彼女はフライヤーを握りしめたまま、尊を見つめている。その手の中のフライヤーが既に皺くちゃになっていることにも気づいていなさそうだった。
「俺は何がどうなっても、あなたを軽蔑なんかしません。どんなにずるかろうと、わがままだろうと。だから思うことがあるなら吐き出してください」
「私……何も……」
「あるでしょ。わかりますよ。俺たち仲間なんだから」
尊はあえて『仲間』という言葉を口にした。
琥珀亭に迎えられたとき、仲間として祝杯されたことが本当に嬉しかった。その気持ちは嘘ではないし、実際にいい仲間だと思ってる。でも、半分は嘘だ。何故なら、今は一人の男として立っているし、仲間とは違う気持ちで語りかけたのだから。
けれど、もし彼女が仲間としての距離を壊したくないなら、それで安心できるなら、いくらでも嘘をつこうと決めた。
すると、真輝は長いため息をついた。強張っていた肩がすとんと落ち、胸元で握りしめていた手がだらりと下ろされる。
「……かなわないですね」
真輝はぽつりと呟く。
「尊さん、私……怖いんです」
「怖い?」
彼女はふっと足下に視線を落として頷いた。
「……優しくされるのが」
尊は唖然としていた。
優しくされるのが怖い? そんなことってあるの? どこが怖い? 俺が? 何故?
そう矢継ぎ早に問い詰めたい衝動をぐっとこらえる。あのアーモンド型の大きな目が、なにやら決意を滲ませて尊を見据えた。
「尊さん、一緒にショッピングモールに行った日のこと覚えてます?」
尊は無言で頷く。クリスマス前のことだ。忘れるわけがない。
「あの夜、一緒に飲んでくれて、私に『子守唄は歌えない』って言ったことは?」
「あ、あぁ……サラ・ヴォーンの『バードランドの子守唄』ですか」
「あのとき、私、自分で自分に驚いていたんです。がっかりしている自分に」
「え?」
真輝がちょっと躊躇し、唇を噛んだ。まるでこれを言ったら世界が終わるとでも言いたげな顔だ。
だが、やがて、彼女はこう言った。
「あの『バードランドの子守唄』は恋人への愛の歌だから」
「へ?」
「それを歌ってもらえないことが残念だと思う自分がいたからです。でも、すぐに後悔しました。正義に申し訳なくて、申し訳なくて」
一瞬だけ浮き足だった心が地に落とされた。
「どうしてですか。どうしてそんなに引け目を感じなきゃならないんですか?」
尊の声はすがるようだった。
「私は自分だけが幸せになることが辛いんです」
「だって、あなたは生きてる! 今が、明日があるんですよ」
思わず口調が強くなった。
死んだ人間にはない明日があるのに、どうして囚われたまま進めないでいるのか。そう問いたくても、胸がいっぱいでうまく言葉にならなかった。
彼女はふっと乾いた笑みを浮かべた。
「えぇ。尊さんの言いたいこと、わかります。でも、ある人が私を好きだと言ってくれたときも、同じように動けませんでした」
暁のことだと、咄嗟に察する。
「彼もあなたと同じようなことを言いました。『正義がお前の幸せを望まないと思うか? 独りで泣いて過ごすお前を見たいと思うか?』って。でも、そうじゃないんです」
彼女はもう一度「……そうじゃないの」と呟き、口元を引き締める。
「怖いのは、自分が罪悪感に潰されそうだからです。正義の幸せを奪っていたかもしれないわがままで自分勝手な自分が許せないんです」
尊は呆然としてその声を聞いた。口調は静かなのに、まるで声の限り叫んでいるような悲痛な響きが、そこにあった。
「……聞かせてください」
そっと、尊は彼女の手を取った。白くて華奢な手を両手で包み、優しく励ますように軽く揺らす。
真輝が口を開くが、言葉にできずにいる。それでも尊は『無理に話さなくていいよ』とは言わなかった。彼女がその手をふりほどくことをしなかったからだ。細い指が尊の手のひらの中できつく握りしめられているのは、彼女が今、やっと溜め込んでいたものを吐き出そうとしている証だった。
他でもない自分に、話そうともがいてくれている。こんなときでさえ、そのことに尊の胸が膨らんでいた。
真輝は深呼吸をすると、覚悟を決めたように顔を上げて話し出した。
「私には子どもがいません。出来なかったんじゃないんです。正義は子どもを欲しがりましたが、私が拒んだんです。まだ二人きりで過ごしたいってわがままを言って。そのくせ独りきりになったとき、こう思ったんです」
少し、間を置いて、小さな声がした。
「……せめて、あのひとの子どもがいればって」
尊は唖然としていた。彼女の言葉にではない。
「……真輝さん、泣いてるの?」
彼女の目から大粒の光るものがこぼれ落ちたからだ。初めて見た涙が、なにより尊の胸を締め付けた。
「子どもがいれば独りになることはなかったし、その子を通して正義の面影を見れたのにって後悔しました。自分で自分が嫌いになりました。なんて身勝手なんだろうって」
だんだん彼女の言葉は駆け足になる。
「自分のことばかり考えて、正義の望んだ赤ちゃんを産もうとしなかった私にそんなことを思う資格なんてない。もし私が子どもを授かっていれば、生きているうちに正義はもっと幸せでいられたかもしれないのに」
彼女の肩はすっかりこわばり、まるで何かに怯えているようだった。
「だから、他の人と幸せになろうとするたび怖かったんです。私はこんなに自分勝手でわがままでずるい考えの女なのに。また同じ事を繰り返してしまうかもしれないのに」
そして、こう喚く。
「だって、私、あの女の娘だもの!」
「『あの女』って、家を出たお母さんのことですか?」
真輝は顔を赤くし、子どものように泣きじゃくりながら頷いた。
「あんなに優しいお父さんに愛されていたのに、いきなり娘を置いて出て行ったのよ。お父さんに落ち度なんて何もない。それなのに、自分勝手に男を作って家族を捨てたの」
「でも、お母さんは真輝さんとは違う……」
「一緒になんてなりたくない! それに、出て行った理由なんて知らないけど、本当にお父さんはあの女を愛してた。出て行っても責めもしなかった。でも、私はあの女の娘だと思うと、もしかしたら同じことをするんじゃないかって怖くてたまらない!」
尊は吸い寄せられるように手を伸ばし、泣き喚く彼女をかき抱いた。
その姿は、まるで傷だらけで唸っている捨て猫のようだった。
綺麗な顔をくしゃくしゃに歪ませている彼女は、腕の中でもがく。けれど、尊は両腕で押さえ込むように抱きしめ続けた。
しばらくすると、ふっと真輝の力が抜けて、呟くように言う。
「暁みたいに『好きだ』って言ってくれれば跳ね返すことも出来るのに、でも尊さんは違ったから……ただ黙ってそばにいてくれるから……こんな私でも許してくれるような気がしてしまって。でも、そのたびに自分が醜くて汚くて」
少しだけ体を離し、尊を見つめる。涙で濡れた頬が街灯に照らされていた。
「私、あなたに嘘をつきました」
「なんですか?」
優しく問い返す尊に、彼女が言った。
「私が寝込んでいる間、記憶がないなんて嘘です。私は、あなたが唇を触ったことを覚えています」
「え?」
かあっと顔を赤くさせた尊に、真輝が力なく呟く。
「……嬉しかった。でも、私は正義に顔向けできない気持ちのままなんです。それなのに、あなたを好きかもしれないなんて、ずるいでしょう」
「そうですね。あなたはずるいひとです」
尊の言葉に、彼女は目を伏せ、また一筋の涙を落とした。
「自分でそう言ってしまうのもずるいけれど、一番ずるくて自分勝手なのは、俺に『好き』だとも言わせてくれないことです」
もう一度、彼女をぐっと寄せて抱きしめた。ふわりと髪の匂いが鼻先をくすぐる。華奢な肩と背中を包むように手をまわした。
真輝は抵抗しなかった。
「本当にずるいひとです」
優しく髪を撫で、尊はふっと笑う。
「でも、お互い様なんです。俺もあなたを好きだと思っていても、正義さんに立ち向かう勇気が出ないままでした」
彼女の嗚咽が聞こえる。尊のシャツが涙で濡れていく。
「だけど、そんなこと知ってしまったらもう引き下がれませんよ」
両手でめいっぱい抱きしめる。壊れないように。でも、いっそ壊してしまいたい。
「覚悟はできてたんです。でも、いつあなたにこうしていいかわからなかった」
履歴書片手に琥珀亭にぶつかっていったときのように、我を忘れて彼女を抱きしめる勇気が持てなかった。けれど、不安や怖さ、理性を呑み込んで突き動かすものが確かにあるのだ。それが何か、彼はもう知ってしまった。
「もう逃げません。止めません。俺もずるい男です。あなたの話を聞いてから動き出すなんて」
今まで涙ひとつ見せなかった彼女が子どものように泣いている。
「正義さんがあなたの中でどんなに大きい存在でも、俺は生きています。これからいくらでもあなたとの時間を刻めます。真輝さんは自分の中の正義さんと戦っているけれど、それは違う。違うから苦しいんだ。認めてください。……彼は俺の中にいる」
尊は静かに言った。まるで自分に言い聞かせるような響きだった。
「俺は正義さんと違う人間だけど、どこか似ていると思うんです。だって、あなたが好きになってくれたんだから。どこか似通ったところがあるからこそ、同じ人を好きになって、同じ人に好いてもらえると思うんです。俺の中に正義さんがいるんですから、心置きなく幸せになってください」
すると、胸の中で真輝がふっと笑う。
「……変な理屈」
「いいんですよ」
しみじみと言い、その髪に顔を埋めた。
「だって、俺はずるい真輝さんも好きなんです。仕方ないじゃないですか」
この言葉が静かに暗闇に沈む彼女に一筋の光となって届きますように。
「そう、好きなんですよ。だから安心して、これからゆっくり俺の中の正義さんと違う部分も好きになってください。一番の違いは真輝さんとこれからを生きていけるってことです。絶対に独りにしないってことです。俺はずっと隣にいますよ。黙ってそばにいることもできるし、こうして抱きしめることもできます」
そして祈るように呟いた。
「……あなたが望んでくれるなら」
尊はすっと彼女から離れた。涙でぐしょぐしょの頬を指でそっと拭き、それから手を繋いで歩き出した。
琥珀荘まで尊たちは一言も言葉を交わすことなく歩き、そして何も言わずそれぞれの部屋に入っていった。
言葉なんてもうこれ以上見つからなかった。
そのせいか、尊はその夜、今更ながら踊り狂う心臓を感じながら、ベッドに顔を埋めて泣いた。
何故泣いたのか、自分でもわからないまま。
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