第27回電撃小説大賞《メディアワークス文庫賞》受賞作/『僕といた夏を、君が忘れないように。』

国仲シンジ/メディアワークス文庫

『僕といた夏を、君が忘れないように。』

プロローグ


風乃かぜのやー、『人魚伝説』を知ってるか?」

 小学四年生の夏休み、私は縁側に腰掛けてスイカを食べていた。すぐ横にはおばあがいて、私たちの間には蚊取線香の煙が一筋、澄んだ青空に向かって伸びている。

「知らない」

 人魚なら知っているけど、人魚伝説って何だろう。

 夢中でスイカをかじっていた私は手を止め、おばあを見上げる。おばあは穏やかな表情のまま、ゆったりとした動作で私の頬についていたスイカの種をつまみ、そうかいと呟いた。

 おばあは視線を正面の庭に向ける。その細い目が見つめる先には、いくつものハイビスカスが朱色の花弁を広げ、陽射しを浴びている。

「これは石垣島に伝わる昔話でやー」

 石垣島は、この島から船で一時間の距離にある。同じ沖縄の離島とはいえ、コンビニも信号機も無いここより遥かに発展している島だ。

「昔々、とある漁師の男が沖に出とった。不思議とその日は大漁でよ、面白いようにいっぺーイユが獲れたそうさ」

 おばあの落ち着いた語り口は、耳にするすると入り込んでくる。親や学校の先生の話はどれだけしっかり聞こうと集中しても聞き流してしまうのに、おばあの話は一言一句が体に染み込んでいくかのよう。

「だから時間も忘れて、夢中で漁をしたさー。したら、網にかつてないほどの手応え

を感じた。漁師はでーじ大物が獲れたと、ちむどんどんわくわくしながら網を引き上げた。すると、上半身はちゅらかーぎー美しい女、下半身はイユの尾ひれという、人魚が入っていたらしい。その人魚はしくしくと泣いていたそうさ」

 網に囚われて泣く人魚を想像する。悲しい気持ちになってくる。私は食べかけのスイカをお皿の上に置いて、おばあに体を向けた。

「きっと食べられちゃうと思ったからさ。人魚さん、かわいそう」

「もちろん人魚は見逃して下さいとお願いをしたさー。だが、漁師もこんなに珍しい生き物は初めて見た、高値で売れるぞと言って聞かん」

「ひどい」

「だから人魚が言った。『もし逃してくれたら、海の秘密を教えます。これを知らん

と、やったーあなたたちは大変なことになりますよ』と。漁師は悩んだが、気になって、仕方なく網から放してやった」

「ああ、良かった」人魚は助かったんだ。これでお家に帰れる。

「海に放たれた人魚は喜んで、船の周りをくるくると旋回したあとに言ったさー。

『明日の日の出直後に、島全体を飲み込むような大津波が来ます』と。そうして海に帰って行った」

「津波って、あの津波? ついこの前までずっとテレビでやってた」

 昨年の三月にあった東北大震災。それを報道するニュースで必ずと言ってもいいほど流される、津波の映像を思い出す。大きな波が建物を飲み込んでいく光景は衝撃的だった。まるで映画のワンシーンのようで、同じ日本で起こった出来事だなんてとても信じられないと、観る度に思ってしまう。

 私は唾を飲む。肩に力が入る。そんな私をおばあは見下ろし、話を続けた。

「漁師は慌てて村に帰って、村人全員を山の頂上に避難させた。親切心で隣村の者にも教えたが、彼らは人魚なんかいるわけがないと言って信じなかったそうさ」

「ええ、せっかく教えてあげたのに」

「次の日の朝、避難した村人たちが山から海を見下ろすと、海水が無くなっていた。見慣れていたいつものうみばた海岸が、どこまでも続く砂漠のようになっていた」

「海岸が砂漠に?」

「潮が引いたからさー。それを見て村人たちが騒いでいると、砂漠の向こう側から地響きと共に、横は視界の端から端まで、上は空が隠れてしまいそうなほどの大津波が、ガーッ! ……と迫ってきた」

 おばあは両手を振り上げて、襲いかかるようなジェスチャーをした。飛び出しそうなほどカッと開いた二つの目玉が怖くて、私は全身をびくっと震わせ、後ろに倒れかけた。

「人魚の言った通り、日の出とともに大津波が来て、村があった場所は全て飲み込まれてしまった。奇跡的に漁師の村はほぼ全員が無事、人魚を信じず逃げなかった隣村は壊滅してしまったそうだ」

「そんな……ちゃんと信じていれば助かったのに」

「だからよー。それでこの物語は、石垣島では主に三つの教訓を伝えるために語られるさ。人間以外の生き物も大切にしよう、他人の言うことを信じよう、そして災害は恐ろしいという、三つ」

 おばあは指を三本立てて言った。まるで学校の先生が生徒に言い聞かせるような口調に、私はほっと胸を撫で下ろす。

「なーんだ、じゃあ本当の話じゃなくて、桃太郎とか浦島太郎とか、そういう感じの昔話なんだ」

 きっと童謡みたいなものだ。おばあのなめらかな語り口のせいでつい信じ込んでしまった。

 しかし、おばあの顔は無表情のままだ。ゆっくりと首を横に振る。

「いいや、本当にあった話さ。『明和の大津波』と言ってね。明和というのは元号のことで、平成や昭和なんかと同じ。今から二百五十年くらい前の時代さ」

 これは後で知ったことだ。明和の時代、日本史上最大の波高八十メートルを超える大津波が、石垣島を中心に八重山諸島全域を襲ったという事実は正式に記録されている。そして、海が近いにもかかわらず不自然なほど被害者が出なかった村と、人口の九十八パーセントにあたる、およそ千五百人が死んでしまったという村の記述もある。

 でもそんな記録なんて知らなくとも、おばあの表情と声には充分な説得力があった。

「避難した漁師の村と、信じなかった隣村は本当にあったさ」

 快晴だった空に灰色の雲が現れた。それによって陽射しが遮られ、空気がほんの少し冷たくなった気がした。

「そんな……、作り話じゃないわけ? 人魚さんが現実にいたの?」

 私は無意識に、冷たくなった両手の親指を、拳の内側に入れてぎゅっと握りしめていた。あのテレビの映像よりも大きな津波がすぐ近くの石垣島を襲い、たくさんの人の命を奪ってしまったなんて、信じられない。

 うつむく私の頭を、おばあがやさしく撫でる。

「風乃、怖かったか? わっさいびーんごめんね。でも、この話には続きがあるさー」

 見上げると、おばあの顔は一転して綻び、顔中に深いシワを作って微笑んだ。その顔を見ていると心が落ち着いてくる。陰った空も冷たい空気も気にならなくなる。

「続き?」

「風乃は特にしっかり覚えておかんといけんよ。なぜなら、やーお前には大事な役割があるからね。それはね――……」

 大好きなおばあ。たくさんの話を聞かせてくれて、いろんなことを教わった。その中でも、一番心に残っているのはこの人魚伝説だった。

 私は夏が来るたびに、島の誰もが知っているこの話を思い出す。

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