第14話 一大決心①

 その日の休日、沓名綾乃くつなあやのは夕方からソワソワしていた。今夜20時頃に、久しぶりに天野楓あまのかえでに会えることになっていたのだ。

 とりあえず部屋着から普段の仕事着に着替える。薄手の長袖トレーナーにジーンズと言うラフな格好だ。そして先程用意したメモをジーンズのポケットへとねじ込む。

 18時前にはもう、家を出る準備はできあがってしまった。しかしまだ約束の時間までは時間がある。


 綾乃は仕方なく夕飯の準備を始めた。そして食べてみるが味がほとんど感じられず、結局最後まで食べきることができなかった。

 それでもまだ家を出るには時間がある。綾乃は本でも読んで時間をつぶそうと考えたのだが、ページをめくっても全く内容が頭に入ってこなかった。今日はやけに時間の進みが遅く感じられる。じっとしているのがなかなか難しかった。

 家を出るにはまだ早い時間、綾乃は我慢出来ずに職場である書店に向けて家を出た。そして待ち合わせ時間の15分前には到着してしまう。


 綾乃は腕時計を何度も確認する。しかし時計の針は今日に限ってなかなか進んではくれない。自分だけ地球の自転から外れてしまったのではないか。そんな錯覚に陥りながら、じっと楓が現れるのを待っている。

 何度も何度も時計を確認して、ようやく20時を迎えようとした頃だった。


「お待たせしました」


 少し固い声だったが、その声音は綾乃が聞きたくて仕方なかった楓のものに間違いなかった。すぐに顔を上げて楓の顔を確認する。そこでようやく、綾乃は時間が進んでくれたことを実感するのだった。


「大丈夫です。私が早くに着きすぎてしまっただけなので……」


 綾乃は少し恥ずかしくなりながら、本当のことを口にした。


「とりあえず、場所を変えましょうか?」


 楓の声も表情もどこかまだ硬い。しかし綾乃はようやく会えたことが嬉しくて、


「そうですね」


 そう言ってにっこりと微笑むのだった。

 そしてどちらからともなく、以前初めてまともに会話をした公園へと向かう。その道中も楓が口を開くことはなかった。さすがの綾乃も、なんだか楓の様子がおかしいことを察して黙ってしまう。

 公園にたどり着いた時、楓は以前してくれた時と同じようにベンチの埃を払うと、綾乃に座るように促した。その動作1つで、綾乃の心臓はドキドキと高鳴る。しかし楓の方はまだまだ硬い雰囲気だった。

 どうにかして、この沈黙を破りたいと思った綾乃は勇気を出して言葉を発した。


「呼び出したりして、ごめんなさい」


 その声は自分でも驚くほど小さかった。こんな声では楓に気を遣わせてしまう。そう思っていると、


「こちらこそ、急に指定してしまって……ご迷惑ではなかったですか?」


 やはり気を遣わせてしまったと思った綾乃は咄嗟に言葉を出す。


「迷惑だなんて、そんなこと!」


 慌てて顔を上げて否定の言葉を口にしたが、その先が続かなかった。綾乃はジーンズのポケットにねじ込んでいたメモを取り出す。すこしくしゃくしゃになってはいたものの、暗闇の中でじっと目を凝らして自分の文字を読み返す。


「どうしたんですか?」


 楓が不思議そうに声をかけてきた。綾乃はメモに書いていた言葉を今の自分の言葉にして口に出していく。


「私たち、きっとお互いのことを、何も知らないのかもしれないって思いまして……」


 そうなのだ。

 綾乃は楓のことを何も知らない。きっと楓も綾乃のことを何も知ってはいないだろう。

 綾乃は自分のことも知って欲しいし、楓のことも知りたいと思っていた。そのことを伝える前に、どうしても聞きたいことがある。


「天野さんは、何故電話に出てはくれなかったんですか?」


 何度かけても電話に出てくれなかった楓の本心を知りたかった。もし嫌われているのなら、それはそれで仕方ないのかな、と半分は諦めて言葉を紡ぐ。


「それは……」


 楓は言葉に窮しているようだ。やはり、自分に至らない点があって、楓に嫌われてしまったのだろう。

 そんなことを考えていると、思わぬ問いかけが楓から返ってきた。


「沓名さんは、何故彼氏がいることを黙っていたんですか?」

「彼氏……?」


 一瞬何を言われたのか、綾乃は理解できなかった。オウム返しするだけで精一杯だった綾乃に対して、楓はなおも言い募った。


「ショッピングモールで、イベントとサイン会があった日。あの日、沓名さんもショッピングモールに来ていましたよね?」


 綾乃はゆっくりと視線を彷徨わせ、楓の言っている日のことを思い出す。その日はきっと、咲希と連と一緒に買い物へ行った日のことだろう。


「あの日、一緒に居た男性は沓名さんの彼氏さんではないのですか?」


 楓の言う『一緒に居た男性』がすぐに連を指していると分かった綾乃は、真っ直ぐに楓の視線を受け止めて否定する。


「違います」

「え?」

「あの日、一緒に居たのは職場の先輩と、その彼氏さんなんです」


 綾乃の言葉を受けた楓は、しばらく呆然としていたがそのうちクツクツと喉で笑い出した。


「……?」


 綾乃は取り残されたような気分だ。黙ってそんな楓を見つめていた。


「ごめんなさい。自分が、馬鹿馬鹿しくて、おかしくて……」


 そう言いながらも、楓の笑いはなかなか収まらない。綾乃は恐る恐る楓に声をかける。


「天野さん……?」

「ごめんなさい……。僕、おかしいですよね……」


 楓は呼吸を整えながらそう言う。綾乃は辛抱強くそんな楓の様子を見守っていた。

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