第6話 勇気
大型書店で働く
(天野さんが買っていった本、面白いのかな……)
そう先日、
(もし本当に人付き合いがうまく行く方法が書いてあるのなら、きっと自分も天野さんとお近づきになれるかもしれない……)
こんなことを綾乃は考えていた。
元来、綾乃は人見知りをする癖を持っていた。しかし、それで困ったことは1度もない。そのままでも十分に生きてこられたからだ。でも天野楓が客として来店して以来、もっと楓と話がしてみたい、と思うようになっていた。
綾乃は休憩時間を利用して、楓が買っていった本を読んでみることにした。
『自分から声をかけよう!』
『周りや相手に興味を持とう!』
そんな見出しが躍っている。綾乃は
(なるほど……)
そして納得していた。確かにここに書いてある通りのことをしたら、人付き合いはうまくいくかもしれない。しかし、一体どうやって周りに興味を持てば良いのだろうか。
「あーやの!」
綾乃が悶々と悩んでいるところに
「え? 綾乃、人見知りを治す気になったの?」
見出しを見た咲希が驚いた声をあげている。
「いや、あの……」
綾乃は拙い言葉で説明する。この本を天野楓が買っていったこと。それが気になって自分も買ってしまったこと。そして今読んでいると言うこと。
「中身が、結構興味深くて……。実践してみたいと思ってる」
綾乃がこの手の本を手に取ったのは初めてのことだった。書かれている内容は綾乃にとって大層興味深いものだったのだ。
しかしながら、綾乃にはどうやって実践したら良いのかが分からない。それを聞いた咲希はにやり、と笑った。
「な、何?」
「天野さんで試したらいいじゃない」
「えっ?」
咲希からの思わぬ提案に、綾乃は素っ頓狂な声をあげていた。
「大丈夫、簡単よ。来店された天野さんに『いらっしゃいませ。何かお探しですか?』って聞くだけで会話の切り込みにはなるわ」
「でも、また来店されるか分からないし……」
「じゃあ、他のお客様でやってみる?」
「うっ……。それは、ちょっと……」
「でしょ? 急がなくても、綾乃のペースでやっていくといいわ」
咲希はにっこり笑うと綾乃の頭をぽんぽんと撫でてその場を去っていった。残された綾乃は撫でられた頭に手を置いて、どうしたものかとまた考えてしまうのだった。
その日の20時頃。
「いらっしゃいませ、カバーはお付けしますか?」
「お願いします」
レジに持ち込まれた本にいつも通りの対応をする綾乃。だが『お願いします』の一言は綾乃が聞いたことのある声だった。
(えっ?まさか……)
驚いて顔を上げると、そこには前髪のないサッパリした顔立ちの男性が立っていた。仕事帰りのような様相だが、その声は間違いない、天野楓のものだ。
(凄い……、綺麗な顔……)
綾乃が驚いて手を止めてしまうと、
「あの……、僕の顔に何か?」
「あっ! し、失礼しました!」
不審げに楓から声をかけられ、綾乃は急いで紙カバーを付ける。
「あ、ありがとうございました!」
綾乃は赤くなる顔を抑えることができず、慌ててお辞儀をする。楓は不思議そうな顔をしながらも、
「え? 今の、天野さん?」
隣のレジを担当していた咲希が驚いて綾乃に声をかける。綾乃はこくりと頷いた。
「うっそ! めっちゃイケメンじゃない!」
咲希はきゃーきゃー騒いでいる。
「どういう心境の変化だったのかなっ? 前髪ばっさり切っちゃって!」
「わ、分からないですけど……」
綾乃は昼間の咲希との会話を思い出しては
肩を落とす綾乃に、咲希は今回はしょうがないよ、と慰めてくれる。
「あそこまで変わってちゃ、分からないのも無理ないわよ」
そう言って肩をぽんと叩いた。
帰宅後。
綾乃は変わっていた楓の顔を思い出しては1人顔を赤らめていた。
(あんなに綺麗な顔立ちの人だったんだ……。次はちゃんと接客できるかな……?)
まるで雲の上の存在のような楓に、綾乃はしっかり接客ができるのか少し不安になるのだった。
数日後。
「いらっしゃいませ」
来店があったことに気付いた綾乃は事務的な挨拶を送る。そこに立っていたのは天野楓だった。きょろきょろと店内を見回し、いつものように新書のコーナーへと足を運んでいる。
「石川先輩……!」
気付いた綾乃は裏にいた咲希に声をかける。
「来たのっ?」
咲希は綾乃の様子から楓の来店を予想した。綾乃はこくりと頷く。
「レジは任せて、いってらっしゃい、綾乃!」
咲希は急いで裏から出てきてくれた。綾乃は楓の後ろをついて回る。声をかけるタイミングを見計らっているのだ。一定の距離を保って、楓の様子を窺っていた綾乃は、ふと楓が立ち止まったタイミングで声をかけた。
「いらっしゃいませ! 何かお探しでしょうかっ?」
必要以上に大きな声になってしまった気がする。恥ずかしさで顔を赤らめながら、視線を落とす綾乃。声が裏返らなかったことが唯一の救いだろうか。綾乃がきゅっとエプロンの裾を両手で握りしめる。今頃楓はどんな表情をしているのだろうか。恐怖で顔を上げられない。
「沓名さんの、おススメの本を教えてください」
綾乃は思わぬ声に顔を上げる。そこには満面の笑顔の楓が立っていた。
「え?」
「沓名さんの、おススメです」
柔らかい笑顔のまま、楓は言い募る。
「では……」
綾乃はほっとすると同時におずおずと自分の薦める本のあるコーナーへと楓を誘導した。
「この歴史小説なんて、どうでしょうか……? 映画化も決まっていますが、何より主人公の家族への愛が感動的に描かれています」
その本は新刊でも何でもなかった。ただ、綾乃が好きな本の1冊ではあった。楓は少し驚いていたものの、すぐに破顔すると、
「じゃあ、それを買います」
と言って手に取ってくれていた。
「では、レジへどうぞ」
綾乃は終始照れてしまい、どうしていいか分からない。
綾乃にとっては大きな前進となった今日、帰宅後、楓の笑顔と共に様々な思いを噛み締めるのだった。
客に本を薦めたことは勿論、それ以前に業務的な会話以外したことがなかった綾乃は、楓があんなにも喜んでくれたことに恥ずかしさと共に嬉しさを感じていた。
失敗体験の方が多かった綾乃にとって、それは初めてに近い成功体験と言っても良いだろう。
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