煽られる感情
「…この程度か?」
呟いた稔は、そっと手を下ろした。
その、先程まで悲しみを帯びていた瞳には、それ自体が幻であったのではないかと思える程の、乾いた静けさが湛えられている。
「……」
そんな稔の様子を測りかねたのか、はたまた先程の件で、知らぬ間に動揺しているのか…
紫苑が無言のままに、眼前の稔を見据える。
だがそれに、空気を読み取ることで気付き、その当の稔よりも早く対応した者がいた。
「そのザマで戦えるのか? 紫苑」
煌牙が低い嘲笑と共に、紫苑に残酷に声がける。
紫苑はそんな煌牙に対して、鋭く目を細めることで訝しんだ。
「…誰に物を言っている」
「ならば、一刻も早く稔を殺すことだ…
母親と弟を奪われたくなければ、な」
煌牙は笑みを潜めると、自らは前線から引き、観戦を狙ってか、腕を組んだ。
しかし、これにどうにも釈然としないのは、他ならぬ梁だ。
「…煌牙、紫苑は…お前の言葉に縛られているのか…?」
それは本当に、何気なく口にした疑問であったが、いったんそれが口をついて出てしまった梁にとっては、その考えはなかなかに捨てがたいものだった。
「否、紫苑はお前の言葉に…支配されているのか!?」
「…だとしたらどうする?」
煌牙は否定も肯定もせず、ただ、わずかに鼻を鳴らすことで、彼特有の余裕を垣間見せる。
それに一瞬にして、何か湧き上がる複雑な念を覚えた梁は、今度こそ、稔と紫苑の間に割って入った。
「梁!」
当然、稔が声高にこの行動を咎める。
それを梁は、首を大きく左右にすることで否定した。
「…だとすれば、何も父さんと紫苑が争うことはない。
俺と煌牙が直接戦えば済むことだ…
それが例え殺されることになろうともな!」
「馬鹿な、それでは意味がない…
そもそもお前に、煌牙の相手が務まるとでも思うか?」
稔は不快さを露わにしながらも問う。
…梁は、自分の実力を充分に理解しているはずだ。
確かにその力は、まだ未成熟で、そういった意味では、可能性もある。
…だが、それはまだ先のこと。
紫苑と拮抗にすら到らない今の段階では、煌牙となど事を構えた所で、返り討ちに遭うことは必至だ。
そして先程想定した、最悪のパターンが訪れる。
梁にはそれを良く理解させたはずだ。
だが…ならば何故、このような事を言い出すのか。
…ひとつ間違えれば、それだけで己の身はおろか、彩花にも危険が及ぶようなことを…!
「父さんは…生きていなくちゃならない」
「…?」
稔の眉が疑惑に顰められる。
それでもその瞳に、一種の確信を宿しながらも。
梁は躊躇うことなく先を続けた。
「俺が力及ばなくとも…
その結果、殺されることになっても…
この時代には何の支障もない。…だけど、父さんだけは…
貴方だけは…絶対に、生きていなければならない」
「…梁」
「…分かってくれ、父さん。
俺は貴方を生かしたい。そして、自分の柵(シガラミ)を…この手で断ち切りたいんだ…!」
梁は炎の意志を露わにした両の瞳で、己の手に目を落とした。
…その、どう諭そうとも動かないであろう頑強な思考に、稔は諦めたように、わずかに息をつく。
「…分かった。好きなようにしろ…
どちらにせよ煌牙には、お前を殺すことなど出来はしない。お前の気の済むまでやればいい…
ただし」
「“ただし”…何? 父さん」
梁の問いに、稔は頭を振った。
「言わずとも分かっているだろう…
そうまで言うからには、無様な姿を見せたら承知しない」
「!…うん」
梁は深く、大きく頷くと、つと、煌牙の前まで歩み寄った。
その動きを、煌牙は推し量るように、ただ静かに窺う。
「煌牙」
梁はそれを上回る静けさを見せながら、父親である煌牙に話しかける。
…その心には、先程までの焼けつくような炎とは相対した、柔らかく、緩やかな風が凪いでいる。
それが殊更に、煌牙の訝を煽った。
「…梁牙…」
「お前は、ずっと俺の…
そして父さんの…、緋藤稔の敵でしかなかった…
例え血の繋がりがあっても、俺はやはり、お前を父親だとは思えない…
そう思うには、何もかも遅すぎた。
そう…何もかもが、今更過ぎる…!」
「……」
「今回の一連の元凶は…紛れもなく煌牙、お前だ。
だから俺は単純に、その理由だけでもお前を止めなければならない…」
話しながら梁は、ゆっくりと右腕を曲げ、その先にある手のひらに、見た目にも強力だと分かる、煉獄の炎を作り出す。
「…俺と紫苑の存在意義を、示す為にも」
「!梁牙…」
紫苑の目が、稀な驚きに、わずかに見開かれる。
同時、その、隙のないと思われていた紫苑の厳重な警戒網が、ほんの一瞬、緩んだ。
「!」
刹那のうちにそれを察した稔は、反射的とも言える、特異な早さで地を蹴る。
結果、稔の姿は、瞬時にその場から消え失せた。
「…逃がすか」
恐ろしい程に低く呟いた紫苑が、稔を追う形ですぐさま地を蹴る。
それによって二人の姿は、一瞬にしてその場から消え失せた。
…稔の視界から、梁と煌牙が刹那のうちに遠ざかり、見えなくなる。
稔はこの段階で、ほんの少しばかり梁のことを危惧したが、その当の梁の決意に満ちた眼差しを思い返すと、その記憶と共に、今は到底必要とは思えない杞憂をも、自らの脳内に封じ込めた。
そうこうしている内に、その目の前に、紫苑が常人を遥かに超える速さで迫って来る。
…稔は更にその移動速度を上げた。
──狂気に満ちた我が子を眼前にし…
今までに一度たりとも覚えたことのない、悲しみと絶望の感情を、心の片隅に留めながらも。
「…紫苑…」
移動の際に落とされる。
それは紛れもない父の呟き。
しかし、その声のあまりの抑揚の無さに、紫苑は父親であるはずの稔の考えを把握しようともせず、ただ、邪推をもって訝しむ動きを見せた。
「…?」
その意図を測りかねた紫苑の表情は、疑、それ一色に彩られ、そうすることによって、稔の出方をも窺っているように見受けられる。
稔は期を窺い、静かに…
そしてゆっくりと、口を開いた。
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