【純文学】優しくなれるウイルス

 世界は醜い。そう思ったある博士は、『優しくなれるウイルス』を作り出すことにした。平和な、人の死なない、傷つかない世界を目指して。

 ウイルスを作り出すためには、時間以上に金がかかった。博士は自分の崇高な考えに賛同してくれる資産家から、多額の研究費を募った。長い時間をかけて、既存のウイルスに改良を施して、感染力と人間の『優しさ』を増幅させることに成功した。

「これをまけば、世界は平和になるのだな」

 博士は研究所の外に出ると、ウイルスの入ったフラスコを宙に放り投げた。くるくると宙を舞ったフラスコは、アスファルトの地面に落ちるとパリンと割れた。

 ウイルスは空気中に広がり、世界中に拡散していった。一週間と経たずに、ウイルスは世界を一周した。そうして、人々は優しくなった。


 ◇


 何をもって『優しい』と定義するかは難しいところだが、優しい人間はおそらく人を殺したりはしないだろう。

 世界中で殺人事件や傷害事件がなくなった。人々はお互いを思いやるようになったのだ。交通事故も極端に減った。児童虐待やネグレクトをする親もいなくなった。戦争も紛争もなくなった。結果、世界中で死者の数が格段に減った。

 一方で、出生率は上がった。優しくなった人々は、思いやれる夫婦を、家族を構築した。子供が生まれると、勤め先の人々が皆祝福した。育児休暇も長い間、取ることができるようになった。国が、社会が子供作ることにとても寛容になった。

 ここまではよかった。博士の思う平和な世界が実現していた。

 しかし、人々の優しさの対象は、人間だけではなく、動物――いや、ありとあらゆる生物へと向かったのだった。


 ◇


 生物とは何だろう? 何をもって生物と定義するのか……? 生物の定義づけは非常に難しい。

 人々はまず、動物を殺さなくなった。牛、豚、鳥などなど食用として育てていた動物を、犬や猫のようなペットのようにかわいがるようになった。その後、魚類など海の生き物も獲らなくなった。

 優しさの対象はどんどん増えていき、人々はついに動物だけではなく、野菜までも食べなくなった。野菜も人間や動物のように成長して、やがて子孫を――種を残す。野菜もまた生物だと認識するようになったのだ。

 食べられる物がどんどん減っていき、やがて何もかもが食べられなくなった。増え続けた世界人口は一転、急激に減っていった。

 最終的に人々は、地球という自らが住む星さえも生物であると考えるようになった。人間が文化的な生活を送ることによって、環境が汚染され、地球という生物が蝕まれ苦しんでいる。人間が呼吸をすることによって二酸化炭素が排出され、地球温暖化が進むのではないか……?

 人々は呼吸をすることが恐ろしくなった。


 ◇


 人間という生物が生きていることによって、多くの他の生物に迷惑がかかる。他の生物のことを考えたら、私たち人間は滅びるべきなのだ――。

 最終的にそのような結論にたどり着いた人間は、皆、命を絶った。こうして、人間という種は滅びた。


 ◇


「過度な優しさは人を滅ぼすのだな」

 博士は天国で反省したのだった。


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