野々原チエコの蒼い慟哭
ゆうすけ
役者殺しの物語
「私、今度主役をやることになったんです」
「それは、おめでとう」
とりあえず祝辞を述べる。テーブルの向かいの彼女、売り出し中の新進実力派女優野々原チエコさんはくるっとした目で微笑んだ。
ーー女優が笑顔で頼み事するなんて反則だろ。誰も断れないじゃないか。
そんなことを考えながらぐびりと泡の消えかけたLAGERでのどを潤す。チエコさんはずっと微笑んでいる。が、その心の深淵は分からない。初対面の僕に頼みごとをする意図もなおさら分からない。
「そのお芝居、こちかなって言うんですけど、クライマックスで小道具にナイフを使うんです」
「え? 今なんて言いました?」
「あ、すみません。こちかな、です。『こちら楽園の酔っ払い戦線で箏の調べと見習い
チエコさんはあはは、と笑った。確かに舌を噛みそうなタイトルだ。チエコさんは真剣な表情に戻って続ける。
「ところが、このお芝居、主役をやった役者さん、基本的に女優が主役をやるんですけど、みんな芝居が終わるとナイフを怖がって持てなくなっちゃうんです。アングラ系の芝居によくあるごった煮のコメディみたいなストーリーで、ナイフ自体も主人公の女性が、狂言自殺する場面で自分に向けて振るうところにしか出てこないのに。最悪お芝居ができないぐらい錯乱する女優も出ちゃって。ついに『役者殺しの物語』と言われるようになって、誰も演じたがらなくなっちゃったんです。仕方ないから、しばらく男性がナイフを使うシーンに無理やり差し替えたり、ナイフじゃなくてはさみで代用したりして上演していたんですよ」
「ほお?」
役者の世界のことはあまりよく分からないが、チエコさんのあまりに真剣な表情に気圧されながら耳を傾ける。
「ところが今回は劇団創設十周年記念公演だから、オリジナルに忠実な演出でやることになって」
「チエコさんがそのナイフを使うことになったんですね?」
「そうなんです。私、このままお芝居を続けることができるのか、心配になっちゃって……」
なるほど。事情は分かった。事情は分かったけど……。
「でも、チエコさん、それって僕にできること、なにもなくないです?」
僕の口から当然の疑問が出る。ステージで朗々と主演を張るチエコさん、さぞかし素敵だろう。それを客席から熱い視線で見守ることなら、いくらでもできる。ただ、お芝居の小道具をどうにかするなんて、部外者の僕には無理に決まっている。チエコさんはしゅんとして肩を落とした。寂しげに頭を垂れている。
「……やっぱり、そうですよね。あの少し気味の悪いナイフ、私が握らないとストーリーになりませんよね」
消え入りそうな声でチエコさんはそう呟いた。
「ごめんなさい。私、ムチャ言っていました。自分に自信がなくて演じきれないのをナイフのせいにしていたかもしれません。私の言ったこと、忘れてください。えーっと……」
そう言えば彼女は僕の名前を知らない。名乗りもしないで話し込むなんて失礼だった、と今さらながら気が付いた。
「あ、名乗ってませんでしたね。矢場杉です。矢場杉栄吉っていいます」
「矢場杉さん、私のくだらない弱音に付き合ってくださって、ありがとうございました」
チエコさんは改めてきれいな笑顔でお礼をくれた。そして、ふと腕時計に目をやって、大きな目を丸くする。
「あ、いけない。もうこんな時間。そろそろ行きましょうか」
気が付けば二人のグラスの底には、LAGERの泡の残滓が名残り惜しそうに貼りついているだけになっていた。
◇
「矢場杉さん、またレイトショー見に来ますか? もしよかったら来週また一緒に見ませんか?」
軽やかな足取りでチエコさんは歩道を進んでいく。もう時計の針は0時を回ろうとしていた。最近の終電は早い。
チエコさんの申し出はあまりに唐突だった。
「え、あ、も、もちろんです!」
「あはは、よかったー! 断られたらどうしようかと思ってました。じゃあ、また来週。約束ですよ! 今日はとっても楽しかったです」
そう言うとチエコさんは小さく手を振ると、背中を向けて地下鉄の階段を駆け下りて行った。僕はその後ろ姿を呆けたようにずっと見つめていた。
どれぐらい立ち尽くしていただろうか。チエコさんの消えた地下鉄の入り口をじっと見ていると、突然尻の穴に強烈な痛みを覚えた。
「いてー!!」
跳び上がらんばかりに、というか、ガチで少し跳び上がったかもしれない。
「このエロヤロー! いつまで鼻の下伸ばしてるんですか! そんなに巨乳が好きなんですか? こっちの世界でも巨乳がもてはやされてるとか、なっちん納得いかないです!」
振り向くと、そこには猫耳コスプレ少女のなっちんことエローナ・ツオンが膝をついて僕の尻に両手の人差し指を思い切り突き立てている。
「いてーな! なにすんだ!」
僕は思い切り苦情を叫ぶ。そしてハタと我に返った。
え?
猫耳コスプレのなっちん?
さっき見た映画に出てきたエローナ・ツオン、だよな?
「なにって、かんちょーに決まってるじゃないですか。これぐらいで痛がってるようじゃまだまだですね。キミこそなにじろじろわたしを見てるんですか? あんまりエロい目で見ないでくれます? なっちん、こう見えても一応Cの65なんですからね!」
「いやいやいや、なんでさっき見た映画に出てきたエローナがここにいるんだ!」
やっとのことで疑問だらけの頭の中から問いをひねり出した。一体どういうことだ、これは。
「そこに尻穴がある限り、どこにでも現れますよ、わたしは。ノーワセリンのスーパーハードプレイに耐えられない男なんて興味ないですけどね!」
猫耳コスプレ少女エローナはぺろりと舌なめずりすると、にやりと笑う。そして僕に問いを投げかけてきた。
「さっきキミが見た映画ってあの大ヒットアニメ映画ですか?」
「違うよ。『ヤーブス・アーカの微妙な貢献』だ。それがどうした?」
なんかおかしなこと聞きやがる。ただの家出少女が頭のおかしいコスプレしてるだけなのか、と思った。エローナは不思議そうな顔をして言った。
「あらあ、アニメ映画が『ヤーブス・アーカの微妙な貢献』に見えちゃったんですか。それはご愁傷様ですねえ。だって、ほら」
猫耳コスプレ少女エローナは得意げに地下鉄の階段の壁に張り出された映画のポスターを指さす。そこには大ヒット中のアニメ映画のポスターが貼ってあり、紙に手書きで「絶賛大ヒットのため本日レイトショー行います。当日席あり」と今日の日付で書いてあった。その下にははっきりと僕がさっきまでいた映画館の名前が記してある。
「え? 僕たち、僕とチエコさんが見た『ヤーブス・アーカの微妙な貢献』がレイトショーだったんじゃないのか! おかしいよ。僕が見たのは間違いなく『ヤーブス・アーカの微妙な貢献』だったんだ! チエコさんも見たって言ってたじゃないか!」
僕はまったく事態が把握できない。エローナは猫耳を右手でさらりと撫でると、ツンと澄ました顔をした。
「どこにでもいるんですよねー、見えちゃう人が。まあ、見えちゃったのも運命だと思って、諦めてくださいねー。私と話せている時点でアレなんですけどね」
エローナは脈絡もなくキャハハ、と笑うと、ふっとかき消すように姿が見えなくなった。
そして、僕の意識は重いコールタールの沼に引きずり込まれるように、急速に周囲の光ごと暗闇に沈んでいったのだった。
野々原チエコの蒼い慟哭 ゆうすけ @Hasahina214
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます