生
あるじまうけ
前編
あのケヤキの葉の一枚になれたなら。
風に揺られてサワサワととりとめのないおしゃべりに花を咲かせ、ときに雨に濡れてはきらきらと輝いて。そんな風に生きられたなら。
かくて私は若葉になった。なにケヤキに大層なこだわりがあったわけではない。強いて言えば陰樹の葉ではいけない、それだけである。
清々しい朝だ。上の葉々の隙間から届く陽の光、薄青い涼しげな空。新鮮ということの気持ちよさがある。風が吹き抜けた。ゆさゆさ揺られ、隣人と小突きあい笑いあった。
雨が私たちのおしゃべりに水を差した。不快ではない、ひんやりとして心地よかった。あくる朝日が昇ると、昨日の雨の水滴が光を散らして一帯を銀色に輝かせていた。日が出るとすぐに輝きは薄れていって、しまいには水垢が微かに残るだけである。それが良いのだ。一瞬の感動は考えるいとまを与えない。
やがて蜂が一匹巣の立地を物色にきた。そのずっと下、たんぽぽの間をひらひらとモンシロチョウが泳いでいる。
慣れというのは手が早いものだ。繰り返されるモーメントはいつか連続した区切りのない時間へと融解していく。そこにまた新しさがある。風には勢い、向き、長さがある。雨にはリズム、重さ、冷たさが。薄青かった空がいつの間にか白いばかりになっていることも。新しさのないこともある意味で新しさである。そうして長い長い雨が降る。
くる日もくる日も雨だった。昼夜となく重苦しい雨に打たれてザワザワと暗い嗚咽が私たちを揺すっていた。変わらない日々に耐えかねた葉が一枚、見さかいのない風に手を引かれて堕ちていった。
彼はもう以前の居場所には一片も関心がないようであった。私はだらしなく垂れた枝にしっかとしがみついた。
雨がやんだ。久しく待ち焦がれていた青い空を全身で吸い込む。涙はキラリと光って、やがて乾いた。空がこれでもかというほど青かった。青く青く、私たちを染めて。
地表には梅雨を耐えたシロツメクサと、アサガオが、ヒメジョオンが、ツユクサが香り、紫陽花が空の色を映して誇らしげに咲いた。
アブラゼミがジリジリとけたたましく鳴いて、メジロは細くさえずって、ウグイスがひときわ高く唄った。夕方にはヒグラシの声が涼やかに、夜には澄んだ空気がコオロギの透明な声に揺れた。
時折川のせせらぎを乱して戯れる軽快な音がする。いつの間にか隣人は虫に食われてイカした穴ぼこをこさえている。
草いきれに空気が揺れる。蝉が短い生を全力で鳴く。渡り鳥はやって来るなり土産話を置いて慌ただしく飛び去った。風がびゅうと音を立てた。
風が強くなった。黒い積乱雲がやってくる。風はどんどん強くなっていく。虫や鳥は鳴りを潜め、私たちは不吉に胸を騒がせる。雨が降り始めた。
空が黒く染まり、バケツをひっくり返したような雨が横殴りに、轟轟と吹き付ける風に乗って私たちを打つ。遠雷が鳴った。地表は水浸しで、氾濫した河川の咆哮が風の唸り響きあい、私たちを縮み上がらせた。
一瞬の出来事だった。風に舞った木切れかなにかがものすごい勢いで直撃して、私の捕まっていた枝はポキリと呆気なく折れた。枝ごと中に浮いた私を闇を裂いて雷が照らす。
私はただ息を飲んだ。私を照らした雷は世界をも照らしていた。一瞬のうちに私にこの果てのない広大な世界を焼き付けてみせた。ひどく月並みだが、この時私は自分のちっぽけさを知った。(承知していることと一方的に知らしめられることとは全く異質の感覚である)
そして私はすぐに続くゴゴゴオという雷鳴を聞きながら暗闇に落ちていった。
落ちて流れて引っかかって、また流されて。どこまできたのやらわからない。どうでもよかった。
煙のような雲が切れ、風がやみ、空が泣き腫らしたように赤く染まっても、何も感じなかった。生きた葉が空にあわせて色を変えるのをぼんやりと眺めながら、私は茶色く乾いていった。
ガサッ、パキパキ。小気味よい音を立てて一頭のヒグマが通った。それはそれは大きな足跡をくっきり残して。ああ、私はクマになりたい。自分の力で生きていく力強い獣に。
生 あるじまうけ @unsustain
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