天使とクローバー

平 遊

第1話 迎え

「あははっ、きゃはははっ!」

壁を挟んだ部屋の向こうから聞こえる、娘の声。

何がそんなに楽しいのか。

妻が出ていってから、もう一月以上。

寂しくて泣きやまなかったらどうしようか、なんていう僕の心配は、全く無駄だった。

娘はいつでも、楽しそうに独りで遊んでいた。

おかげで僕も、独りの時間を満喫できていた。

妻のいない生活は、不自由ではあったが、寂しくは無かった。

何故、妻が出ていったのか、今でも僕には分からない。

しかも、こんな小さな娘を残して。

頭を下げて迎えに行くのは簡単だったが、自分の非がどうしても見あたらないのに頭を下げるのもおかしいだろう。

そう思って、僕はそのまま放っておくことにしたのだった。

『あなたは何も見ていない。全然見ていないのよ』

妻が出ていく直前に、僕に言った言葉。

(どういう意味なんだろうな・・・キミは僕に何を見て欲しかったんだろうか・・・・)

「ぱぱー」

「・・・・・・なんだー?」

気づかない内にボーッとしていたようで、灰皿のタバコがもうすっかり灰になっている。

やれやれ、また一本無駄にしてしまったなと、娘の声に振り返ると、目の前に緑色の物体が現れた。

「なんだ?」

「あげるー」

まだたどたどしい言葉を一生懸命に口にしながら、娘は満面の笑顔で僕を見上げていた。

「そうか。ありがとう。パパ嬉しいなぁ。」

娘の小さな手に握りしめられていたのは、四つ葉のクローバー。

久しぶりに目にした気分だった。

「どこで見つけたんだ?」

「もらったー」

「お友達にもらったのか?」

「んー」

ちょっと考えるような仕草をして、娘は玄関を指さした。

「あのひとにもらったー」

「ん?」

娘の指し示した方向には、誰もいない。

「そうか、もう帰っちゃったんだな。」

「かえってないよ。あそこにいるの。」

不思議そうな顔をして僕の顔を眺めた娘が、突然玄関に向かって走り出す。

「あ、こら危ないぞ!」

言う間もなく目の前で娘は転んだ。

あぁ、こりゃ暫くは泣きやまないなと、頭に手をやった僕の予想は裏切られた。

目を涙で一杯にしながらも、娘は笑顔を見せた。

玄関に向かって。

「なかない。だいじょうぶー」

「誰かいるのか?」

玄関には、僕の認識する限りでは誰もいなかった。

だが、娘は明らかに「誰か」と会話をしていた。

「はっぱくれたひとー」

とてとてと、小走りに娘は僕の方へ戻って来て、僕の目の前にあるキャンバスを指さした。

「このひとー」

「え・・・・」

「ぱぱのこと、よんでるのー」

「・・・・そうか。」

目を落とすと、娘がくれたクローバーが心なしか萎れてきている。

迎えが来た。

僕にはすぐに分かった。

それが、何の為の迎えなのか。そこまでは分からない。

でも、『彼女』は確かに言っていたんだ。

【わたしがあなたを、迎えに行くから】と。

「じゃあ、パパはちょっとお出かけしてくるから、いい子で大人しくしているんだよ。」

「うん!」

娘の頭をひと撫でし、クローバーを握りしめると、僕は玄関へと向かった。


玄関を出たあと、手ぐらい洗ってから出てくればよかったなと、すぐに後悔した。

僕の手は、絵の具で極彩色に染まっている。

昔から、僕は趣味で絵を描いていた。

趣味で。

そう表現するには無理なくらいに、休日になると、取り憑かれたように絵を描き続けていた。

描くのは決まって、同じ絵だ。

背景も、人物も。

片翼がもげた天使が、海岸に落ちてくる絵。

夢でもなく、幻想でもなく、これは僕の記憶にある光景だった。

僕と、僕の叔父の記憶に。

その天使は、よくある絵のような天使の輪もなく、片方だけしかない翼も衣もグレーがかっていて、その顔は笑顔などではなく、泣き顔だった。

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