汐見くんはわからない

鹿野

汐見くんはわからない

 人の顔の見分けがつかないことを、ずっと悩んでいる。誰にも言ったことは無い。いや、言ったことはあるのだけれど、そうすると強かに頬を張られたので、それ以来ひとには言わないことにしている。でも俺にだって言い分はあるのだ。人の顔の見分けがつかない、それはつまり、人の顔が全部同じに見えているということである。目があって、鼻があって、口があって、あとは髪が生えている。俺は、そこに上手く区別が付けられないのだ。


 例えばだけれど、犬の顔の見分けがつく人は、余程の愛犬家でもなければそうはいないだろう。毛の色や耳の立ち方や首輪がちょっと違うから違いが分かるだけで、顔の造りの違いなんかさしてわかってもいないに違いない。それと同じで、同じ制服を着て似たような背格好の人間の見分けなんてつくはずがないのだ。だから俺は今、ものすごく困っていた。


 目の前には制服の女が立っている。癖の強そうな髪をリボンで纏めた女だ。廊下のリノリウムを踏む上履きには黄色のラインが入っていて、俺と同じ2年だとわかる。どこかで会った人なのかもしれない。オレンジがかった日差しを浴びてきらきらひかる目の色はありふれた黒で、特に何も思い起こさせはしなかった。女は俺と比べると随分と小柄だったけれど、ですから、と吐き出した声はびっくりするほどハキハキしている。


「ですから、私は貴方に告白をしに来ました」

「こ、こくはく」


 女はむんと胸を張り、高らかに口上を述べる。俺はきょろきょろと辺りを見回した。帰宅しようと教室から廊下に出たところを捕まったのは5分前のことだが、既に誰もが部活に行くか帰路に着くかしてしまって、周囲には誰もいない。誰か助けてくれと思うのに、助けている誰かなどいないのだった。


「汐見くん。貴方のことが好きです。だから……」

「えっと……」

「だから、私に興味が無いのなら、今はっきりそう言って欲しいの。そうしたら諦めがつくはずだから」


 女は強い眼差しで挑むように言った。興味が無いも何も、俺は……。でも言ってもいいのだろうか。貴女は誰ですかなどと。貴女を知らないから好きだと言われても困ると断るのだって本当は簡単な事だけれど、興味があるとかないとかを判別する材料がそもそも俺には無いのだ。凡庸な俺の事を好きになってくれたというのだから、きっとなにか、俺と彼女の間にあったに違いないのに。……でも結局は正直に答えるしかない。


「あの……申し訳ないのだが、俺は貴女の事をしらない……」

「えっ!?」


 女は有り得ないというような顔で俺を見た。なんだろう、俺はなにか変なことを言ったのだろうか。でも、だって、彼女は俺とはクラスも違うはずなのだ。知らなくったって何も変なことなど無いはずじゃないか? ……だからこそ俺は確信を強めた。やはり俺と彼女にはなにか接点があるはずなのだ。俺が覚えていないだけで。


「その、すまない」

「……いえ、構わないわ。私は貴方の……そういうところを、好きになったんだもの」

「えっ?」


 えっ、そうなのか? 俺は面食らった。異性に呼び出されて対面で話すのはこれがはじめてのことではないのだが、彼女たちは大抵俺が「貴女は?」と聞くと大層腹を立てるのだ。その上概ね「不誠実な冷血漢め」と言うような内容の罵声を浴びせてくる。その点に関しては申し開きの余地もないほどその通りなので、罵声も平手打ちも甘んじて受けてきたが……「人の顔を覚えていない不誠実さ」を好まれたのは、初めての経験だった。


「それで、返事はどうなの? 私に応える気があるのか、ないのか」

「……その、俺は……貴女のことを知らない。ちっとも」

「それはさっきも聞いたわ」

「でも、今貴女に興味が湧いた、と思う。多分……付き合おうって程じゃないが、興味が無いと切って捨てるのは勿体ないと、感じてる。だから良ければ、友達になって欲しい」

「いいわ。じゃあそうしましょう」

「え、いいのか?」

「構わないわ。私はあなたに振られるつもりで告白しに来たんだもの。どう転んだって本当は構わなかったの」

「そうなのか……変わった人だな、貴女は」

「そんなこと、初めて言われたわ」


 彼女は目を丸くして俺を見ていた。普通なら、彼女は全く「変わった人」では無いらしい。周りの人は彼女の何を見ているのだろう。彼女は随分と変な人だと思うのだが。


「私は胡桃。胡桃のあ。よろしくね、汐見君」


 彼女──胡桃がそう笑って手を差し出したので、俺は何も言わずにその手を握り返した。変な女のそれは、やわらかく温かい普通の手だった。



 ----



 胡桃は俺の隣のクラスに在籍しているらしかった。だから俺と彼女には明確な接点はなかったということになる。ただ、俺が胡桃を知らなかったことに彼女が面食らっていた理由は何となくわかった。彼女は所謂、学園のマドンナなのだ。注意深く周囲の声を拾っていけばそれは何となく俺にもわかる。隣のクラスの美人に挨拶して貰えた。可愛いのに鼻にかけたところがなくてみんなに優しい。アイドルみたいな子……胡桃のあは概ねそのような人間らしい。


「知らなくて済まなかった」

「なんですって? 」


 素直に謝罪すると、胡桃は怪訝な顔をした。2人で友達になろうと決めたあの時以来、俺と胡桃は昼食を共にしている。人目につかない校舎裏でこそこそ密会紛いの真似をしていることをクラスの連中に知られれば、俺は殺されるかもしれない。現状、俺は学園のマドンナを独り占めしているずるい男ということになってしまうからだ。


「……お前はかわいくて優しいことで有名だったんだな、と言うことだ」

「ああ……そんなこと」


 胡桃はいちごミルクのパックをちゅうちゅう吸いながら気のない返事をした。本当にどうでも良さそうだ。


「あなたはどう思ったの? 」

「何を? 」

「……私がかわいいって思うかってこと! 」


 俺は首を傾げた。弁当箱に入っている玉子焼きをつまむ。もぐもぐと甘い玉子焼きを食みながらじいと胡桃を見つめてみた。……目があって、鼻があって、口があって、あとは髪がある。不細工ではないはずだし、特別可愛い顔だと言われたらまあそうなのかもしれない。俺は目を閉じてみる。途端さっきまではっきり見えていたはずの胡桃の顔立ちがどんどんぼやけていって、何も分からなくなった。鮮烈に印象に残る顔かと言われたら、そうでも無い……ような? 俺はごくんと玉子焼きを飲み込んだ。


「……よく、わからない」

「でしょうね」

「ごめん」

「あなたのそういうところが好きなの」

「……なんで? 」


 女の子って、かわいいって言われたいものなんじゃないのか? やっぱり変だ。胡桃は俺に怒ったことがなかった。俺を否定したこともない。


「だいたい、あなたの顔で私の顔を褒められたって逆に嬉しくないわよ」

「えっなんで」

「知らない! あー、ほんと、宝の持ち腐れってこういうことを言うんだわ……」


 つんとそっぽを向いた胡桃にどうしていいか分からなくなる。胡桃はこうして、時々拗ねてつんけんすることがあった。懐かない猫みたいだ。


「……顔のことはよく分からないが」

「そうでしょうとも」

「胡桃がそうやって……拗ねているところを見ると……かわいい、と思う」


 猫みたいで、と呟くと、胡桃はビャッと飛び跳ねた。こっちを見た顔がまっかになっている。


「やっぱりかわいい」


 微笑ましく見つめていると、胡桃は俺の顔をばりばりと引っ掻いた。こんなところまで猫に似なくてもいいのに。胡桃はうんうん唸っていたと思うと、すぐに身を翻して歩いていってしまう。1人で帰るのか、と呆然と小さな背中を眺めていると、胡桃が突然振り返った。


「あなたの……そういうところが……」


 そこまで言って、結局胡桃は走って逃げてしまった。そういうところが、何だったんだろう。「すき」だったらいいな、と俺は思うのだ。

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