こじき若殿 - rising sun -

四谷軒

01 若殿

※作者より

拙作において、こじきという言葉が出てきます。もし、ご不快に思われたら、お詫びいたします。





 子曰歳寒然後、知松柏後凋也

 子曰しいわく、歳寒としさむくして、しかのち松柏しょうはくしぼむにおくるるをなり


 論語「子罕しかん






 ――冬。


 その若殿は、曇天どんてんの下、寒風吹きすさぶ中、歩いていた。


 寒風だけでない、夜来の雪が冷たく若殿の粗末な草鞋わらじを履いた足から体温を奪う。


「……寒い」


 若殿は両の手を口の前に持ってきて、はあっと息を吐いた。ほんのひと時の温かさ。だが、それゆえの、直後の寒さが、身にみた。


「……このまま、凍え死ぬか」


 そうなることもあろうと、若殿は覚悟というか予測を立てていた。もう三日も食べていない。その上、この寒さだ。からだが徐々に弱まっていくのを感じる。


「この寒さでは、誰もいないか」


 かといって、それぞれの家におとのうて、食べ物を恵んでくれと言ったところで、何になろうか。

 すげなく追い返されるか、下手すると打擲ちょうちゃくの上、打ち捨てられよう。


 若殿は、寒風が激しさを増す中、両のかいなで己を抱いた。

 そして――これまでのことを、ほんの少し思い出していた。



 父はこのあたりの領主で、兄はその嫡男だった。父はやがて、このあたりの国々を治める主君と、それに対立する幕府の板挟みに遭い、その心労に負けて、隠居してしまった。

 隠居後、父は、次男だった若殿を連れて、隠居の地と定めた城へと移る。母は亡く、父は後妻をめとった。

 その後妻――継母ままははとの仲はぎくしゃくしたものだった。そして若殿と継母の関係は改善されないまま、父が亡くなってしまう。

 しかも、家督を継いでいた兄は、先年、主君に連れられて、このあたりの他の領主たちと共に、みやこへと上っていた。


 ……順調に行けば、亡父の隠居の城がそのまま若殿の城になるはずであった。

 ところが――


「若殿では治められまい」


 一の家臣であり、若殿の後見を務めるはずの井上という家臣が、こともあろうに、城を乗っ取ってしまう。

 さらに井上は、若殿を城から追い出してしまった。その時何故か城に残っていた継母も追い出され、若殿は継母と共に、寒空の下、誰からも見捨てられていた穴居けっきょ同然のに住み着いた。生計たつきを立てるすべもなく、若殿と継母は、食べ物を恵んでもらって、飢えをしのぐ毎日を過ごす羽目になった。


 ――アレヨ、コジキドノヨ


 そう指差され、若殿はいつしか――こじき若殿と呼ばれるようになった。



「――――!」


 声にならない叫びを上げて、若殿は地を殴った。

 手が痛むだけだった。

 それでも、若殿は、何度も何度も地を殴る。


「おのれ! おのれ! 兄上さえいれば! 兄上さえいれば! あのような井上なんぞに城を横取りされぬものを……」


 声にならない叫びは、声を成し、それと同時に若殿の怒りと苦しみが湧き上がる。

 兄が主君の命令で、兵を連れて京にいる隙に。

 その隙を、井上が乗じて、若殿から城を盗った。

 主君の命である以上、兄はおいそれと帰郷できない。

 ゆえに、兄が舞い戻ってきて、井上から城を取り戻してくれるという展開は、無い。


 寒風が吹いてきた。


「うっ……」


 若殿ははなをすすり、仕方なく、あばら家へと戻るのであった。



 あばら家の中では、継母が横臥おうがしていた。髪も乱れ、肌も、衣服に至ってはぎだらけ。かつては容色を誇った女性だが、こうなるともう、妙齢であるにもかかわらず、ただのおうなと変わりない。


継室けいしつどの」


 若殿は、他人行儀に、そう継母のことを呼び習わしていた。


「継室どの、今、戻りまいた」


「……ああ」


 継母は眠りから覚め、寝ぼけまなここすった。


「――で?」


 最小限の問いではあるが、継母と若殿の間では疎通していた。

 食べ物のことである。


「……無い」


「……そう」


 継母は大儀そうにうなずくと、再び目を閉じた。特段、責めることも無い。責められるわれも無いので、少なくとも若殿はそう思っているので、その場にどっかと座り、数少ない財産である襤褸ぼろ布をかき集めて、身にまとい、寒さから己を守るのであった。

 常なら、このまま二人ともいつしか眠りにつくのだが、今日はちがった。


「……餅ならある」


 か細い、継母のその声は、若殿がかろうじて聞き取れる声量だった。


「――は?」


 若殿が思わず問い返すと、継母はむくりと起き上がり、部屋の隅に行き、今となっては、彼女の唯一の財産である文箱を開けた。

 中から、餅がひとつ、出てきた。


「どうして……」


「若殿が出かけてる間に、実家の家人けにんが来た」


 継母の実家は、やはり若殿の父に嫁ぐには相応ふさわしい、この国でも一、二を争う勢力の領主である。それほどまでの実家に、何故継母が帰らないのか、若殿はずっと不思議ではあったが、今は餅だ。


「それがあるなら、はよう、焼いて食えば良いではないか、継室どの」


「継室……まあいいか、そうじゃな、焼いて食うべきじゃな」


 継母はひどくつまらなそうな表情かおをして、若殿の手に餅を押しつけて、さっさとまた寝転がってしまった。


「継室どの?」


「……焼けばよかろう」


 継母は欠伸あくびをひとつして、黙ってしまった。


「…………」


 焼いて来いというのか。

 この寒空の下、枯れ枝を集めて。


 若殿は、その継母の態度に、苦労の押しつけだと感じてしまった。


「――ああ、分かったよ、継室どの! 焼いてくればいいんだろうッ」


 激昂して若殿はあばら家の外に出る。

 容赦のない寒風。

 若殿は泣いた。


 何だ、これは。

 何故、こうなる。

 何故、おれにやらせる。


 若殿は涙をぬぐう。


「……枯れ枝くらいは、恵んでもらわなくとも、拾えるか」


 苦笑しながら、山地から吹きすさぶ風の中、枯れ枝を探す。

 一本、二本と、拾っていく。

 ……そして、若殿の腕に、それなりの数の枯れ枝が集まった。


「火打ちは……家の中か」


 若殿は舌打ちした。

 家を出る時、持ってくれば良かった。

 また――あの、気まずい空間に行かねばならないのか。


「仕方ない、か……」


 背に腹は代えられない。

 あんな継母でも、いればそれなりに気を張って暮らしていく相手とは言える。

 若殿は目をつぶって、顔を左右にぶるぶると振り、気を入れ替えると、家に戻ろうとしたとき。


 そのとき。

 若殿の視線の先、あばら家の前の小道を、ふらふらと歩く影が見えた。


「何だ、あれは」


 墨染のころもから、僧侶だということは、見て取れる。


「しかし……覚束おぼつかない足取りだな」


 あっちへふらふら、こっちへふらふらと、その僧侶は小道を歩いてくる。

 若殿が、胡乱うろんな雰囲気を感じて、僧侶から身をよけようとする。

 僧侶が、若殿の存在に気づいて、目線を寄越した。

 気づかれた、と若殿が警戒した瞬間、僧侶はと地に落ちた。


御坊ごぼう!」


 さすがに異常を感じ、若殿はそう呼びかけて、枯れ枝を放り出して、僧侶の元へ行く。

 僧侶は地に伏したまま、立ち上がることができないらしく、「ふぐっ、ふぐっ」とくぐもった声をもらしていた。

 まずい、と思った若殿は、僧侶を抱えた。

 大分老いた僧だ。老僧と言える。


「御坊! 御坊! しっかり召され!」


「た……」


「た……何?」


「食べ物……を」


「あ?」


 老僧は空腹により倒れたのであった。

 そして若殿は、懐中にしまった餅のことを思い出した。

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