第10話 再会、そして下僕になる -04-

 今もなお、一際大きくて背筋が凍るほどの、恐怖にも勝る怒号が鳴り響く。


 大人しく帰った方がいいよね? 帰りたい、切実に帰りたい、今すぐ帰ろう。


 私がそう決意しかけた時、怒号とは対照的な、とても優しい声で「ソフィア」と私の名前が呼ばれた。


 急いで私は後ろを振り返る。


「あ! こんにちは、ウィル王子」

「こんにちは。ソフィア、ウィルでいいってば」

「いえ、それは絶対にできません」

「ちえっ」


 ウィル王子はこの国の第一王子。


 孤児院襲撃事件の関係で、私の聴取を担当しているのも実はウィル王子だ。お友達になってほしいと言ってくれたその人でもある。


 ウィル王子の正体をアンジュさんから聞いた時には、恐れ多すぎて絶対にお友達になってはいけない、丁重にお断りをしなければ、と思ってしまった。


 けれど、ウィル王子が事あるごとに私を気にかけてくれ、王子様だということを忘れさせるほど気さくに話しかけてくれた。


 好きになってはいけないけれど、どんどん仲を深めた方がいいですよ、とのアンジュさんの後押しもあって、私とウィル王子の今の関係が生まれた。


「今から訓練場の中まで行くんだけど、ソフィアとアンジュも一緒に行かない?」

「行きます!!」


 大きな声でやや食い気味に、アンジュさんが即答した。


 この怒号の中に入ってもいいの? 危険じゃないのかな? それに絶対に邪魔だよね?


 戸惑う私に気を遣ってか、ウィル王子が背中を押してくれる。


「ソフィア、心配しなくても大丈夫だよ。可愛い子が見てくれていた方が、騎士たちのやる気も士気も上がるから。それくらい男は単純なんだよ」

「ふふ、お上手なんですね。正直に言うと私も行きたいです!」


 私はウィル王子の言葉に甘えた。


 怖いけれど、やっぱり命の恩人の騎士様に会って、直接お礼が言いたかったのが、一番の理由だ。


 私とアンジュさんはウィル王子の後について、訓練場の中へと入っていった。


 訓練場に入った瞬間から、さらに騎士様たちの熱気のこもった大きな声が飛び交い、私の心拍数も一気に上がる。


「うわあ、すごいですね」

「かっこいいでしょ?」

「はい、とっても!」


 孤児院にいた時から、騎士という存在は、私にとって眺望の対象だった。もしも命の恩人の騎士様に会えなくても、来てよかったと思えるくらいに。


「アンジュもお目当ての人のところへ行ってきていいよ。ソフィアのことは僕に任せて」

「本当ですか! ありがとうございます!」


 アンジュさんはウィル王子に促されるなり、足早にお目当ての人がいる方へと向かって行った。


 どうやらアンジュさんには恋してやまないお目当ての騎士様がいるらしい。


 私は、ウィル王子に訓練場の中を案内してもらった。


 休憩所につながる通路に来たところで、私とウィル王子のほのぼのとした空気が、一瞬にして変わる。



 ----ドンっ



 私たちの進行方向、目と鼻の先で、一人の騎士様が新人だと思われる騎士様を壁の方に追いやって、新人の騎士様の顔のすぐ横の壁を思いっきり殴っているのを見てしまった。


 殴られた壁が綺麗に拳の形を作り、ボロっと崩れ落ちていく。


 怖い。怖すぎる。せめて、壁が古かったのだと思いたい。


「てめえ、どこ見てんだよっ、あぁ? 俺を見ろっていつも言ってんだろっ、てめえには聞こえてねえんかっ?」


 私は言葉を失って硬直した。目を疑うほどの衝撃の光景に、目を逸らすことさえも出来なかった。


「かべ、ドン? 壁ドンって、女の子の憧れの?」


 そこまで呟いて、私は頭を振る。


 これは違うということは明らかだったから。


 脅迫か虐めか、はたまた暴力なのか。とりあえず、怖すぎる。


 私の頭の中では、パニックを引き起こしていた。


「ソフィア、大丈夫?」

「ひゃぃっ」


 私は恐怖に怯え、涙目だった。


 孤児院ではみんなが優しかった。というか、クロエ姉さんが「暴力は絶対にだめ」と、口うるさいくらい言ってくれていたから。


 それでも、男の子同士の喧嘩はよくあった。けれど、この光景はあれとは段違いの迫力だ。


 同時に、自分がどれだけ優しい世界で生きてきたのかを思い知らされた。


「ははは」


 突然ウィル王子が声を上げて笑い出した。


 その声に気付いたのか、壁ドンをしていた騎士様がウィル王子の元へと歩いてくる。


 だめ、来ないで、殺されるっ!!


 騎士様は、私のことを一瞬だけ見たものの、すぐに目を逸らし、ウィル王子に話しかけた。


「ウィル、こんなところでデートなんてするんじゃねえよ」

「はは、アラン、やきもち? 可愛い女の子がいるんだからほどほどにね」


 な、何を言い出すんですか! ウィル王子、どうか私を巻き込まないでください!!


 私は切に願った。どうか私のことは空気として扱ってほしいと。


「ああ?」


 私の願いも虚しく、アランと呼ばれた騎士様は怪訝な声を出しながら、とうとう私の方に目を向けてしまった。


 私は観念して、せめて粗相のないようにと、丁寧に挨拶をした。


「こ、こ、こんにちは」


 怖くて吃ってしまったけれど。


「……」


 アラン様の無言の圧力が私に襲いかかる。


 何か言って欲しい。でも怖いから言ってほしくない。早くこの場から逃げたい……


「アラン、挨拶くらいしろよ」

「!?」


 沈黙するアラン様にウィル王子が嗜めると、渋々アラン様が私に話しかけた。


「お前、覚えてるか?」

「え?」


 私は首を傾げた。その様子を見たアラン様は、にやりと笑って言葉を続ける。


「“俺のために生きろ”って言ったら、お前が“はい”って言ったこと」

「……きっとあれは夢です」


 嘘。薄れ行く意識の中でも、私ははっきりと覚えている。


 それだけは忘れなかった。絶対に忘れたくなかった。


 けれど、まさか、その相手がこの怖い騎士様だとは思いたくなかった。


 私は、ここにきてようやく、アンジュさんが会わない方がいいと言っていた理由を理解した。


 私の精いっぱいの言い訳も虚しく、アラン様は宣告する。


「だから、お前は今日から俺の下僕だ」


 有無を言わせぬ迫力で、私に上から言い放つ。


「げ、げぼく、って……」


 私はアラン様の迫力のせいなのか、下僕という単語のせいなのか、きっと両方のせいだと思う。


 私は、その言葉以外何も発することができなくなっていた。


「アラン、下僕は男に使う言葉だよ。ソフィアはこんなに可愛い女の子じゃないか」


 ウィル王子がはっきりと反論してくれる。けれど、


 論点はそこじゃないです、ウィル王子!!


「じゃあ、なんだ? ソフィアは俺に女として見てもらいたいんか?」

「お、女!?」


 私は思いっきり首を左右に振った。捥げそうなくらい思いっきり。


 女として見られたいか、と言う問いに、私は驚きを隠せない。


 そりゃあ、騎士様は格好良いと思うけれど……って、だめ、怖すぎる!

 

 とりあえず逃げたい、絶対にこの状況から逃げたい!!


「なら文句はないな。下僕で決まりだ。ソフィア、お前は明日もここに来い」


 私の返事を聞かずして、アラン様は訓練へと戻っていってしまった。


 嘘だと言って欲しい。冗談だと言って欲しい。今の人が私を助けてくれた騎士様のわけがない。私はそう思いたかった。


 救いを求めるかのように、潤んだ瞳でウィル王子を見た。きっと王子であるウィル王子なら助けてくれるはず、との一縷の願いを込めて。


「じゃあ、明日から自由に訓練場に入れるように手配しておくね。可愛い瞳で見つめられても、残念ながら僕にはどうにもできないから」


 王子様という立場を持ってしても、ウィル王子にもどうすることもできないことだと言われてしまい、私にはもうなす術がなかった。


 私の心ときめくような想像が、再会の喜びが、見事泡沫となって消えた。


 唯一、ほのかに漂うラベンダーの残り香だけが、逃げ場のない現実だということを教えてくれた。




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