激動の一日Ⅲ
すると男はいきなりしおらしくなり、さっきまでの剣幕がどこかに吹き飛んでしまった。
周りの人もその静寂に包まれ、足音一つが大きく響く空間が出来上がった。
俺の後ろに付いていた女の子もどうすればいいのかわからないと言った風で見つめていたため、彼女の肩に手を合わせて気休めを言う。
「もう大丈夫ですから、一度戻りなさい」
そう言って先輩の方へ肩を押してあげると、とぼとぼと歩いていった。
一方この恐喝していた男に関してはもうどうしたらいいかわからないと言ったように硬直していた。
「裏口から出ましょうか」
正面口には、この異様な雰囲気を感じ取ってか、入り口に複数人のグループが立ち止まっており、身動きが取れなくなると思ったからでもある。
あの女の子と先輩が従業員の部屋に入っていったのを見て、俺もこの男を連れて裏口へと向かう。
まさかありきたりな上等文句でもある借金に反応を示すとは思わなかった。
まだしらを切り続けてくれていたら、もう少し恐慌状態にならずに場を収めることができただろうが。
一度こうなってしまっては仕方もない。
それに、この殺し文句に引っ掛かったと言うことは、少し問題が根深いかもしれない。
「で、そんな分不相応な格好で何をしているんですか、あなたは」
「す、すみませんでした。どうか、どうか警察だけは」
「あのまま恫喝し続けていたらどのみち警察は呼ばれていましたよ、全く」
この男、さっきの気概が一切見られないところを見ると正気でも失っていたか。
この状態ではあまり威圧していても意味がない。
濡れた髪を払いながらいつもの髪形に戻す。
「あなたここ最近、犯罪に手を染めたりしていませんよね?」
するとさらにビクッと震えた男はもうどうしようもないといった様子で項垂れる。
「はぁ、したんですね。まさか横領じゃありませよね……?」
「……あ、あぁ」
一昨日あたりニュースになっていた、ここらの近くでの横領事件。
多分事件が発覚したその日から姿をくらましているのだろう。
この男の上着は華美だが、中にはワイシャツを着込み、髪は乱雑に刈り上げられている。だからこそ雑さが目立つ。これでは救い用もない。
「あらかた借金が払えなくなって横領したお金で返済といったところですか。犯罪をしてまで返済する必要なんてないでしょうに」
「お、俺にはもう、どうしようもなくて……」
「はぁ、とにかく警察に連絡しますよ」
そう言ってポケットからスマホを出すと、多くの不在着信が連なっていた。
――ん?
そう思ったのも一瞬。
あれほど忘れないように注意して向かったはずなのに忘れてしまっていた。
これは柚月さんに合わせる顔がない。
そこで一つため息をつくと、向かいの男の雰囲気が一瞬にして変わったのに遅れて気づく。
「お、俺にはつ、妻が……俺が捕まっちまったらあいつにまで、迷惑が、あ、あ」
そうして男は頭を抱えた。
今にも暴走しそうな空気感を漂わせながら、佇んでいる。
「そこにいてくださいね。これ以上罪を重ねる必要もないでしょう」
そう言ってスマホの一一〇番の番号を入力し、数コールして電話に出ると言ったところで男の手が襲いかかってきた。
「や、やめろぉ」
とっさに後ろに避けたものの、男の手は俺のスマホをはたき落とし、そのまま大通りの方へかけていった。
「あのやろ、」
俺ははたき落とされたまだ新品と言えるスマホを目配りさせながら逃げる男を追う。
毎朝しっかり走り続けている俺からすれば、男に追いつくのに数秒もいらないだろう。
実際この細い路地を追いかけるだけで後一歩というところまで近づいている。
男がここから通りに抜けようと左右に動いた時、十分余裕を持って捕獲できる。
ただし、男は通りの歩道側に足を向けるそぶりすら見せずに直進しようとする。
この通りは四車線の通う道路であるため、それなりに交通量もある。
それにここは信号と信号の間の道。減速した車が通ることはない。
「っの、クソヤロウ、どけぇぇ!」
男が歩道を横切ろうとする前に、俺は大声で呼びかける。
本当ならぶつかって減速してくれるのが最前だが、目の前の男が何をしでかすかわからない。
そしてこのままじゃ追いつくのは車道だ。
しかも一切減速しようとしない。
あと追いつくのに一秒といったところ、そして一秒後には男は四車線目のど真ん中。
視界の端にはこちらも 時速は三十キロといったところの車が迫っている。
なんと不運な巡り合わせか、男が飛び出せば車は反応できずに跳ねることになるだろう。
一瞬、俺の視界に軌跡が映る。
そして見えたのはなんの変哲もない電柱だ。
そこで俺はいくつもの未来を瞬時にイメージした。
思考では追いつかないスピードでより鮮明に。
そして実行した。
わずか零コンマ一秒とミスは許されないだろう。
四車線目の真ん中から電柱の距離が約二メートル。
そして俺の両手を広げた時の長さもまた約二メートル。となれば俺がちゃんと男の手をつかんでその体を引き寄せることさえできれば、いける。
……はずだ。
「オラァァああああ」
同時に右から迫る車のクラクションが鳴り響く。
それはまるで一秒が何秒にも引き延ばされるスローモーションの感覚のように。
左手の指は焼けるように痛い。
この指で今、俺の運動のすべてを受け止めているのだから仕方もない。
――果ててくれるなよ。
そして手を伸ばし男の手を掴む。全身全霊を持って。
しかし、それだけでは男は助からない。車道に置いていかれる。
だから、俺は伸ばした右足で男の腹を蹴り付け、俺を中心に反時計回りに運ぶ。左手指はその運動を一身に受け止め、そして耐え抜いた。
俺らは歩道と車道の間のスペースに投げ出され、その横を急ブレーキをかけた車のタイヤが駆け抜ける。
「お、おい!!大丈夫か!?」
交通事故さながらの急ブレーキの音が周りの騒がしい空気を一瞬にして静寂に包んでいた。
そして、その運転手がドアを開けて確認しようと声をかけたところで、まるで時が動き出したかのように周りの人が近づいてくる。
「えぇ大丈夫です。なので、」
俺は足に絡みつくようにぐったりとしている男を確認してから。
「肩を貸してくれると助かります」
多分肩は脱臼しているし、左手はすごい粗様だろう。
どうにも立つこともままならない。
そういうと、周囲は一気に声が溢れ、拍手にまみれた。
近くにいたスーツ姿の青年に肩を担がれると、確かに聞こえる距離で「凄かったです」と言われてしまった。
本来ならこうなる前に事態を解決させたかったのだが、男の状態を正確に判断できていなかった。
横領から、恫喝、あのストレス状態から一気に発散されることも容易に想像できた。
だから、最善を選べなかった俺の不徳だ。
称賛されるべきではない。
あわや人を死なせてしまうところだったのだから。
しかし、彼らにとってそれは関係のないことでしかない。
目の前で起こった事実だけが真実で、それ以外の何でもない。
だからこうなることも仕方がないのだ。
俺はどこかで称賛されるのを嫌っている。
「すげぇ……お前見てたかよ。あのにいちゃん電柱でくるって!」
「大丈夫かしら、あの子。かなり無茶な動きのように見えたけど」
「あの飛び込んだ男。さっきそこで恐喝してた男じゃない?全く迷惑ね」
「えっ、じゃあそんな人をあそこまで体を張って助けてたの!?」
「救われた人より救った人の方が重症とは、皮肉なもんだ」
周りの人たちは口々にいろんなことを口に出し始めた。
ふと、空を見上げると既に雨は止んでいた。
もし、この瞬間に雨が降っていたらあの男と俺はどうなっていただろうか。
左手に確かに感じるひりつく痛みが、意識を覚醒させる。
肩を貸してくれた青年には俺がそこの飲食店の従業員だと知らせると、俺の捕まえた男も運びますね、と提案してくれたためお願いした。
肩の脱臼なんて初めてしたものだからどうやって治していいのかもわからない。
とりあえずこの騒動が片付いたらすぐに病院にでも行こう。
「なぁ、にいちゃん!」
すると俺の目の前には俺の腰ほどの身長しかない男の子が立っていた。
俺は屈んで同じ目線に合わせる。
「なんだい?」
「にいちゃんヒーローみたいでかっこよかった!だから、もっとこう笑顔でいた方がめっちゃかっこいいぜ!」
そういうと、その男の子は俺の口を左右に引っ張って無理やり笑顔の形にさせられた。
俺がそれに面食らった顔をしていると、男の子は吹き出したように笑う。
「ちがうちがう、ヒーローはこうやってにこーってした顔をするんだ。そんな変顔なんかしないんだぜ?」
すると男の子は満面の笑みを作っていた。
まだ小学生だろうか。何にも染まらない純粋な美しさがそこにはあった。
それを見ていると、俺は自然に顔が綻んでいく。
「こう、かな?これで俺はヒーローになれた?」
「そう!かっこいいぜにいちゃん!」
そう言われると久しく感じていなかっただろう感情が襲ってきてしまいそうになる。この暖かい何かが。
「でもやっぱにいちゃんはヒーローじゃねぇや」
「え、やっぱりヒーローには似合わなかったかな」
「いーや。なんつーかこうヒーローはもっと自信を持ってるものなんだ!だからにいちゃんももっとがんばればヒーローになれるぜ」
「もしかして君もヒーローなのかな?」
「えっ?なんでわかったんだ?俺はいろんな悪をやっつけてきたんだ!そしてこの笑顔でみんなを安心させてあげるんだ!」
なんだか、この無垢な笑顔を見ていると無性に微笑ましく思えてしまう。それこそ周囲を気にしないほどに。
「そうか、俺よりよっぽど立派なんだな。ただ、時にはお母さんも安心させてあげような」
俺が男の子の頭を撫でてあげると、男の子は驚いたように目を見開いていた。
なんでって聞いているような目ではあるが、彼の後ろにひっそりと不安そうにしている女性が見えればそれも仕方あるまい。
俺がじゃあな、と彼の肩を叩いて送り出すと最後にこういってもらった。
「にいちゃんがヒーローになれるように祈ってやるからな〜!」
「あぁ、ありがとな」
そうして手を振っていると、依然周りを囲む人々が減っていないことに少し驚き、俺は足早に店内に入っていった。
「あの青年。本当に人間ができているな……」
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