七十三話 絆・八

 ――英雄ヴァルアス・オレアンドル、ガーマミリア帝国北部にて倒れる。

 

 少なくとも人族にとっては重大なその事件は、今のところ情報や噂としてはノースの町内に収まっていた。

 

 理由はその場に居合わせた皇帝デイオン・ガーマミリアが直々に無用な詮索と拡散を禁じたことが一つ。

 

 町の外にも行き来があるといえば商人だが、彼らは殊更にお上には従順なのでそれが皇帝であるならなお更だった。

 

 そしてもう一つは、実際のところヴァルアスが倒れたのは疲労の蓄積によるものであり、英雄も寄る年波には勝てなかったという話に過ぎなかったからだ。

 

 だが他人にとっては“その程度”の話であっても、身近な者にとっては衝撃的。

 

 特に口ゲンカ、というよりは一方的に罵倒した後にその相手が倒れたとあっては、いかに心身ともに強靭な竜族とて大きな精神的衝撃を受けていた。

 

 ましてその当の竜族、ティリアーズにとってヴァルアスは決して有象無象ではない。

 

 だからこそ、こっそりと様子を見に戻った時には、ちょうど倒れていくヴァルアスに真っ先に駆け寄ったし、今も宿の一室で眠るヴァルアスに付き添って真剣な目を向けてもいた。

 

 「ヴァル……どうして……」

 

 かつては超越的な実力を誇った英雄がたかが疲労程度で倒れてすでに丸一日以上眠っていることに対しては、ティリアーズも理由は理解している。

 

 竜族からすると非常に短い寿命しか持たない人族は、百にも満たない年齢で例外なく衰える、と。だからこそ、老いたヴァルアスは手遅れになる前に決心してくれたものだと思っていた。

 

 しかし五十年以上前にティリアーズが理解できなかったヴァルアスの苦悩は、今でも続いているということを知ってしまった。

 

 「む……うぅ……」

 「ヴァルっ!」

 

 その時、高くなっていく途中の日差しが窓から入ってちょうど顔の辺りに差し込んだのが眩しかったのか、短く唸ってからヴァルアスがいかにも重たそうに瞼を開ける。

 

 「ヴァル……良かった……」

 「ティリアーズ…………」

 

 嬉しさから経緯も忘れてティリアーズが顔を覗き込んだことで、身を横たえたままのヴァルアスにも普段は勝ち気な目元がハの字に垂れ下がった顔が見えた。

 

 その目は真っ赤に充血し、目尻から下には涙の跡がはっきりと残っている。

 

 「……」

 

 竜族の人化状態でも泣くし、目が充血するのだなということが場違いにも頭に過ぎったヴァルアスは、だからこそ竜族も結局は人族と精神の部分では変わらないということも実感した。

 

 つまり、大切な人とは一緒の時を過ごしたいし、失うことは悲しいし怖い、ということ。

 

 スルタを逃げるように出発してからここまでのヴァルアスの旅は、近年では無かった激動の冒険者生活だった。

 

 だから疲れるのは当たり前とわかっていたが、それで倒れるほどとは誰よりもヴァルアス自身が思っていなかったのが事実。

 

 その事実を、自分が老人で先は長くないという現実を体で思い知ったヴァルアスは、ようやく約束を果たそうと会いに来たティリアーズを置いていくことを、そして何より自分がそんな短い時間しか一緒に過ごせないことを怖いと感じていた。

 

 相変わらず、だからといってその“時間”を大切な相手からもらおうというのは虫が良すぎるとの考えも消えてはいなかったが、その考えの結果がティリアーズを傷付けたのだということもヴァルアスはいい加減理解している。

 

 だから、考えや想いを長々と説明するよりも前に、ヴァルアスはまだ掠れる声ではっきりと伝えることにした。

 

 「ティリアーズ、ワシとつがいになってほしい。ドラゴンの正式なやり方で」

 

 寝て起きたら突然にそんなことを言うのだから驚かれるだろうというヴァルアスの予想とは違い、ティリアーズは目を閉じて重ねた両手を自身の胸に当てる。

 

 ヴァルアスの言葉を自身の心へとしみ込ませるかのようなその仕草の後で、すっと目を開いたティリアーズは少し不満げな表情を見せた。

 

 「……本当にヴァルは私のことを振り回すんだから」

 

 そして満面の笑みを浮かべる。

 

 「もちろんよ、喜んでっ!」

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