外伝「もう一人の復讐者」

外伝 「もう一人の復讐者(リベンジャー)」

1


ハワイ島の砂浜に濃灰を基調としたプライベートジェット機が停まっている。 そのジェット機のサイドには白いゴシック体で「公安警察特殊課」と書かれていた。


その文字は、このジェット機の用途と、中にいる人物を示しているのだった。


ドアが開かれて、二人の男が出てくる。


一人は黒いスーツの上からでも分かる筋骨隆々とした大きな体をした、浅黒い肌の彫りが深い強面の日本人。 金髪の髪をオールバックに整えている。

名を「朝倉 修也」という。


もう一人はスーツの下に細身でこそあるが、確かな筋肉を持っている黒髪短髪の同じく日本人。 適度に整っている顔にはこれといった特徴はない。

彼の名は「宮坂 一郎」。


二人とも、腰にはホルスターに入れて拳銃を携帯していることから、やはり警察の人間であるということが分かる。 二〇二一年現在、日本国籍の人間による銃の所持は一般には許可されていないのだから。


二人が合図もなしに歩き出す━━その先、密林。 朝倉が先になって目的地へと進んでいく。


その目的地とは━━一見、何の変哲もないただの洞窟のように見える、だが穴の奥の床は明らかに自然物ではありえない青と黒の市松模様になっており、壁には蝋燭がかけられ、辺りを照らしている。


そう、この洞窟のように見える空間は日本政府に「迷宮」と呼称される非法治領域なのであった。 突如として現れ、その現れた仕組みや理由の有無、その他諸々の情報を誰も知らない。 ただ、そこには人間の常識を超えた敵性生物が跋扈しているということだけが、真実として扱われていた。


二人はこの迷宮の秘奥にあるとされている、"瑠璃色の柄をした黄金の杖"を取ってくるように公安警察上層部から命令され、日本からハワイまでやってきたのだ。


「話には聞いていたが、本当に現実のものとは思えない空間だな」


朝倉が顎に指をやると、迷宮の奥を睨みつけて、そう言った。


「あぁ、用心して進めよ」


宮坂が腰のホルスターに収められている拳銃を構えて、迷宮へと足を踏み入れる。


「分かってるさ」


朝倉も遅れて拳銃を構え、宮坂の後を追う。


宮坂が地面を革靴の底で擦ってみると体育館を擦ったような音がした。 材質はフローリングに近いものだろうか?


朝倉は燭台に置かれた、蝋燭の上で煌々と燃えている火に息を吹きかけたりしている。


「この炎、消えないぜ? どうなってやがんだ」


全くもって現実の法則に当てはまらない空間であった。 二人は目隠しをされて、全身を刃物で舐り回されるような緊張感と、形容し難い不安を覚える。


三十分ほど真っ直ぐ進んで、分かれ道に直面する。


どちらに進むか……考えるや否や、朝倉は左の道へと勇猛果敢に、否、無計画に進んで行った。


「お、おい……」


宮坂は朝倉の浅慮な行動に嘆息を漏らす。


「二手に分かれて攻略しようぜ」


朝倉は相当、自分の腕に自信がある様子。 その根拠は、稀有な鋼のような身体によって公安警察から編成された特殊課に抜擢されたことにあった。


宮坂が冷静になれ、と声をかけようとした時には既に朝倉の姿は闇に消えていた。


必然的に一人になった宮坂は、このまま逃げ帰るわけにもいかず、結局、右の道に進むことにする。 ライトを逆手に構えて、銃を持つ右手と交差させ、進んでゆく。


そこから体感時間で二十分ほどが経過、木造と思われるドアを発見━━蹴破って進入し、銃を構える。


生命体の存在がいないことを確認すると、そこで休憩をとることにした。 未知とのダンスは、精神的にとても疲れる。


幸い、部屋には明かりが灯っていた。 ここで水分を補給しておこう。


肩に背負ったリュックサックから二リットルサイズのペットボトルに入った飲料水を取り出し、少しだけ口に含む。 この探索が長引く可能性も十二分にある、水分はなるべく取っておこう。 二口、口にするとリュックサックにペットボトルを仕舞う。


五臓六腑に染み渡った冷たい水分は、予想した以上に宮坂の精神を癒してくれた。


葉巻を喫うことが頭を過ぎるが、臭いで生命体に勘づかれる可能性を考えると、危険な賭けに思えたので、やめておくことにした。


早々に休憩を切り上げ、先に進もう。 腰を上げて再び前に歩みだす。



それからしばらく歩いて、ペタペタという足音のような音を聞いて、意識を集中させる。 生命体か? と訝しんでいると━━ライトに照らされて、体の左半分が溶解し青く光っていて、右半分が怪鳥のような姿の敵性生物と思しきものが眼前に姿を現す。


刹那、全身に電撃のような衝撃が走る。 あまりの衝撃に足の力が抜けて、膝から崩れ落ちそうになるが━━━━


逡巡する間もなく、宮坂は発砲。 頭部と思しき部分に連射━━すると、まるで人間のような不気味な呻き声をあげ、ほどなくして仰向けに倒れる。


地面を損傷部から垂れてくる紫色の、血液と思しき液体が濡らす。 未知の生き物との遭遇に、宮坂の心臓は痛いくらいに脈を打つ。


知性を持っていて、死んだフリをして狡猾に命を狙っている可能性を視野に入れて、鋼鉄製の靴底を持つ特殊な革靴で全力のかかと落としを決め、頭部と思しき部位を破壊しておく。 ミシと骨が割れるような音と、グチャという食肉に拳を突き立てるような音がして地面と同化する。


「……サンプルを取っておくか」


宮坂はリュックサックから取り出した、ビニール製の手袋を嵌めて、肉片を小さなジップロックに入れると、ドライアイスと一緒に円柱型のケースに封入した。


宮坂はその生物の死体を踏み越えると、更に先へと進んで行った。 今更、怖気付くわけにはいかない、と自身を鼓舞させる。


2


それから宮坂はゆっくり、迷宮をライトで照らし、睨め回しながら一時間はかけて進んで行った。 その道中、また生命体らしきものと遭遇━━拳銃を乱射することで事なきを得ていた。


木製らしきドアをゆっくりと音を立てないように開けると、大部屋に出る。 正体不明の巨大な球体の明かりが天井の真ん中に固定されて、それが部屋全体を照らしている。


そして、その部屋の真ん中には━━━━


まず最初に目に付くのが、風船のような楕円形の大きな帽子のようなもの。 ピンク色に紫の斑点が浮かび上がっている。

そしてその帽子のようなものと繋がっているように見える、いや、実際に繋がっているのかのしれないピンクに紫の斑点が浮かんだ肩までの頭髪。

透明感のある白い肌に、百二十センチほどの小さな体、幼い顔付きの横顔。 大きな緑色の虹彩の奥では五芒星型の瞳孔が光っている。


そんな少女のような生き物は、ボロ布のような酷く汚れたワンピースのような服と呼べない服を着ている。


宮坂は逡巡することなく銃を構える。 これが人間と同じ生命体ではないということは、間違いないだろう。


拳銃を射撃可能にする動作を取ると、その音で生き物は宮坂の方を見る。


「人……間?」


その生き物はとても細い首を傾げると、宮坂に近付いてきた。


しかし━━━━宮坂に撃つことはできなかった。


明らかに人外だが、見た目はただの少女。 殺すという二文字を実行するには、それなりの覚悟か、頭のおかしさがいる。


少女と宮坂の距離が二メートルを切る。


銃身を握る手が震える━━━━銃口と生き物の額がくっつく。


「なぁに? これ」


言って、生き物は拳銃のスライド部分を掴む、と━━━━容易に捻じ曲げてしまった。


「は……は━━あ」


宮坂が声にならない悲鳴をあげると、生き物は不機嫌そうな、実に人間のするような表情を浮かべる。


「話しかけてるんだから、なんか喋ってよね」


「私の名前はフォルテ、サキュバスよ。 あなたは?」


フォルテと名乗った少女? は後ろ髪を靡かせると、流し目で宮坂を見た。


「お……俺の名前は、宮坂……宮坂 一郎。 人間だ」


サキュバス? 新たな疑問が頭に浮かび上がるが、宮坂は黙ったままでいることは悪く思えたので、ギクシャクしているが、自己紹介をした。


「ふーん、変な顔」


変な顔というのは、この驚愕している表情のことを言っているのか、それとも顔の造りのことを言っているのか。


「フォルテちゃんはサキュバスだから、やることやるんだけど、覚悟はできてる?」


フォルテはニヤついた目付きで口角を上げ、宮坂を見上げると、そう言った。


「……」


宮坂の頭の中には疑問符がぎゅうぎゅう詰めになっている。 サキュバスを自称する、少女型の未確認生命体に性交渉を迫られるとは、どういうことだ、と。


「ノーリアクションだと萎える……怯えるなり喜ぶなりしてよ!」


宮坂はぷんぷんと蒸気を頭から出しているフォルテを見ていると、なんだか自分の憂慮が馬鹿らしく思えてきた様子。 しかし、拳銃のスライドを容易に捻じ曲げた膂力には注意しなければならないだろう。


「俺はさらさら抱かれてやるつもりはない。 任務に来たんだ、お前に構っている暇はない」


ホルスターにもう一丁、銃がある。 しかし、それで仕留められる保証はない。 冷静に考えたら、もっといい対応の仕方があったのかもしれないが、宮坂は自分でも失策だと思いながら、フェルテを軽くあしらうことにした。


「こんな魅力的なフォルテちゃんを見てもそんなことを言うなんて……人間の性質は二千年? の間に大きく変わってしまったのね。 若きを求めるのが男の本性でしょうに」


フォルテは自分を軽視した宮坂に目を丸くすると、物憂げな表情を浮かべる。


宮坂はフォルテを超えてつかつかと歩いていく。 充分に距離を取って、拳銃の射程距離内、フェルテにとっての射程距離外に出て殺害する━━という考えが頭に浮かぶが、すぐにそれは流れてしまった。


「私を逃したこと、きっと後悔するわ」


フォルテは明後日の方向を向いて、目を細めながらそう言う。


どうしたことだろう━━誰よりも社会正義を誓ってきる自分が、国に仕えている自分が一匹の、ただ少女の姿をしているだけの獣に情を持ってしまっているのだろうか。


彼女を射殺する絵面が、宮坂の中で「ありえないもの」に分類されている。


このサキュバスを自称している少女は、確実に人間じゃない。 彼女はきっと、国から伝えられていた敵性生物なのに。 それなのに━━


「ねえ、なんで私を殺さないの? 知ってるよ? その腰に収めた武器は、今立っているところ、私の攻撃が及ばないくらい、遠くからも攻撃できること」


その言葉で、宮坂の脳内に電撃が走る。 思考を傍聴されているのではないかという、狂人めいた妄想が頭を過ぎった。


「……自分でも、よくわからん」


実際に彼女を殺せない理由がよくわからないのだから、特に取り繕うということなく真実を伝えた。 フォルテに真実を伝えることで生じるリスクなんてものも、到底、考えられない。


「ふーん……多分、それはフォルテちゃんにゾッコンだからね」


フォルテは自慢げな顔を浮かべると、腕を組んでにやにやと宮坂に厭な笑いを向けている。


「それだけはない」


宮坂は自分でも、自分の行動の原理を理解できなかったが、「フォルテに欲情しているため、殺すことができない」ということが万が一にもないということだけは、きっぱりと断言することができた。


3


宮坂は大部屋を出て、探索を再開してから一時間ほど経過しようとしていた。 何故かフォルテは彼の三歩分ほど後ろに着いてきては卑猥な質問を度々、投げかけてきていた。


この短時間で、フォルテにはそこまでの戦闘能力が無いことが判明した。 戦闘能力を有している敵性生物は「オーラ」という黒い瘴気を纏っている、または何かに変換させているのだ。

それは隠そうと思えば隠せるが、近くに寄られて隠しきれるものではなく、完全に隠すためにはオーラを解除しなければならない。 そして、オーラの再充填には銃を構えて発砲するのに余る時間がかかるということを彼女から教わった。


もっとも、彼女が嘘をついていて、出会った時からオーラを解除している可能性も否定し切れないが、宮坂はまるで催眠術にでもかけられてしまったかのように、そんなことは頭の片隅に、真面目に心配するということはなかった。


本格的に、自分はおかしくなっている。 宮坂は理解できない自分の行動に悩んでいた。

普段の任務の冷徹で、国家に忠実な自分はどこに行ってしまったのか、「フォルテの姦策に嵌ってしまっているのではないか」とさえ思った。


しかし、宮坂は彼女を殺せないでいる。


違う、答えはもっと別のところにある。 謎の確信によって、宮坂は自分のそこまで非現実的でもない被害妄想を投げ捨てた。

というよりは、フォルテの卑猥な質問によって思考が上書きされる。


「ねぇ、過剰に豊満な乳房と現実的な乳房どっちがすき?」


フォルテはそう言うと宮坂の背中に体を預ける。


「……」


宮坂は依然、無言を貫く。 こんな齢十にも達していない少女の姿をした生物と猥談をするなんて、ありえないことだからだ。


「うーん、もしかしてお尻派だった?」


宮坂はフォルテの体重を無視してつかつかと前に進んでいく。 フォルテは支えを無くし、Gに負けてバランスを崩す。


「もー! なんでそんなに冷たいの!」


フェルテは目尻に涙を溜めながら冷たい目線を送っている宮坂を見ている。


「俺は猥談は好かない」


「じゃあ、普通の話だったらいいの?」


断る理由はないが、話す理由もない。 本来だったら断っているのだが……宮坂は逡巡した後に会話をすることに決めた。


「……普通の話ならな」


「やったー! じゃあ質問していい?」


フォルテは腕を広げて喜びを体現している。


「普通の質問ならな」


宮坂は足を止めることなく、前を向いたまま会話をする。


「あなたの、いやあなたじゃ堅っ苦しいわね。 まず名前を教えて?」


「さっき教えただろう。 宮坂……宮坂 一郎だ」


「へぇ、変な名前。 それでなんだけど」


変な名前とはなんだ失礼な。 宮坂はつかつかと少し歩くペースを上げた。

フェルテは自分の発言を恥じる、申し訳なく思う、というような様子は全くなく、にやにやと笑っている。


「一郎の体の内から溢れているその''オーラ''はなに? 人間がそんなオーラを内在させているなんて話、聞いた事ないけど」


宮坂が後ろを振り向くと、フォルテは首を傾げていた。

人間の自分にオーラがある? どういうことだ? 疑問符が頭を支配する。


「……なんだと? オーラっていうのは、悪魔だけにあるものじゃあないのか?」


そう、質問するとフォルテは今までにないくらい真面目な顔をして口を開く。 宮坂はそんな彼女を見て、思わず息を呑んだ。


「まず、ざっくりとしたオーラの説明から入ろうか」


「悪魔に限った話じゃなくて、オーラっていうのは、いつか死ぬ存在、生命体にならどんなものにも宿っているの、悪魔だけ例外的に桁外れに高いっていうだけで。 でも、一郎のオーラは下手な悪魔を超えてる。 一郎にオーラでの『武装化』を教えたあとに、タイマンで殺りあったら確実に私が殺されるくらいにはね」


そう言うフォルテはにやにやと宮坂の顔を物色するように見回している。 宮坂は意図が読めず、それを顔に出る形で発露させた。


「悪魔のオーラが強い理由を説明しようか。 オーラの総量っていうのは、その生命体の年齢・寿命が半分くらい、そして「『死』との概念レベルでの密接さ」が残り半分くらい関係しているらしいの。 だけど通常、悪魔以外の生命体が自分を武装できるくらいのオーラを手に入れることはないっていうのが通説」


「敵性生物いや、悪魔……と他の生命体だと、寿命に差がありすぎるから、か?」


「正解。 通常、悪魔に寿命はない、だから悪魔からしたら、他の生物、特に齢百程度しか生きられない人間の寿命なんてカスみたいなもの……なんだけど」


宮坂は諦観したのか、嘆息を漏らす。


「結局、俺だけが例外的にオーラが強い理由はわからない……か」


「一郎が分からないなら、きっと誰にも分からないわ。 ただ、なんでそんなに落ち込むのかは理解に困るわね。 生命力なんて、あっても困ることはないんだから。 最も一般的な利用法である『武装化』に、練習を重ねれば『属性変換』だってできる。 悪魔だっていうのに、大して生命力がないフォルテちゃんからしたら、羨ましい限りよ」


そう言ったフォルテの顔は実に寂しげなものだった。

宮坂の頭に一瞬━━そんな彼女を抱きしめて、肯定してやりたいという衝動が過ぎる。


なにを考えているんだ、俺は。

頭をぶんぶんと回して、衝動を追い出す。


4


二人はそれから、自分が行動を共にする理由も分からないままに、二日間ほど一緒に迷宮を探索という形になった。


敵性生物こと悪魔と何度か交戦したり、食事を共にしたり、フォルテに血を吸われたり道中、色々とあったが、ついに迷宮の最奥に辿り着いた。


全面、金箔張りの部屋で、瑠璃色のソファやガラスのテーブルなど、文明物としか思えないものが置かれている。


その中央━━


所狭しと置かれている金銀財宝の数々。

それらから飛び出ている西洋剣や槍といった武器、どれも、いい値打ちがつきそうな、華美なものだ。


その中でも一際、輝いているものがあった。


百二十センチほどの、瑠璃色で蛇模様の柄を持った、黄金色の杖。 杖の先には黄金色の二対の蛇が絡まっている、という装飾がされている。 国から取ってくるように言われた杖は、これのことだろう。


宮坂は他の金銀財宝には目もくれず、一直線に杖へと歩いていく━━その刹那。


肩に熱したスプーンを押し付けられたような、鋭い痛み。


反射的に目をやると、フォルテが肩に爪を突き立てていた。


「お願い! その杖だけは取らないで! 私たち『地獄』に落ちちゃうの! またアイツに殺される! 地獄の悪魔、悪魔の中の悪魔『闘争の悪魔』に殺される!!」


半ば叫ぶようにして言った彼女の顔は、とても嘘をついているような顔ではない。 真剣極まった必死な表情。


逡巡する間もなく、フォルテを殺害して杖を取るべきなのだろうが、宮坂の体は停止していた。

頬を冷や汗が流れていく。 自分が迷っていることに、戸惑っている。


しかし、意外なことに宮坂の中で結論は早く出た。


「なら、取らない」


宮坂は本格的に自分はどうかしてしまったんだと考える。

否、自分が何も考えずに、人生の支柱にしていた「社会正義」というものが融解して、たった今、新たな価値観が生まれたんだ。


フォルテは「ほんとに?」と、親の顔色を伺う子どものような、酷く怯えた顔色でそう問いかけてくる。


「本当だ。 俺はお前と一緒に探索しているうちに頭がどうかしちまったみたいだ。 気が変わる前に俺を迷宮の外に連れ出すんだな」


「一郎……あなたのこと」


そう言いかけて、乾いた音がした。

首から上が消滅、彼女は死亡。 宮坂の頬に温かい液体がかかる。


「危ないとこだったな宮坂」


つかつかと、宮坂にとって、酷く不快な音を立てて朝倉が最奥に足を踏み入れてきた。 右手に構えた拳銃の銃口から立ち上る紫煙を息で吹き消して。


「それにしてもお前が後ろを取られるなんて、らしくないな」


朝倉はそう言って。


つかつかと、彼女の死を嘲るような音を立てて、朝倉は金銀財宝に突立っている杖を取る。


「………………」


宮坂は呆然としていた。 発露するべき感情がずっと渦巻いて、脳内を循環している。


言葉のないまま、迷宮は、彼女の死体は音も立てずに朝焼け空に消えていった。


「おぉ……本当に消滅した」


朝倉は杖を動かして、値踏みでもするように先端の二対の蛇の彫刻を見つめている。


宮坂の中の感情はまだ発露しない。

否、発露の仕方が分からない。


思えば、あの時から自分は感情を発露する、ということをしなくなった。


エリート警察官で、何よりも誇らしかった父が死に、代わりに母が新しくチンピラのような、父を自称する男がやってきてから、彼に父親を嘲られてから、彼に殴られてから━━感情を表に出すことに怯えていた。


今だって、この感情を発露させたら、朝倉にぶつけたら、どうなるだろうか。


想像するだけで、胃袋を激しく掴まれ、揺さぶられたような酷い不快感に襲われる。


「……弱虫」


自分にだけ聞こえる声で、宮坂は自分に言葉を投げかけた。


5


それから現地のバーで時間を潰していたパイロットを捕まえると二人、ジェット機に乗り込んで帰国ということになった。


帰国から一週間が経過。

宮坂と朝倉の活躍は公安警察らに称えられ、莫大な給与が振り込まれた。


宮坂はその週の金曜日、同期で同じ特殊課の同僚である葛木に誘われて飲みに行くことになった。 青白く、痩せ細った姿を見かねて、肴にボリュームのある店に半ば強引に連れていかれる形となったのだ。


迷宮が消滅、任務を遂行してから宮坂は飯という飯を食っていなかった。 忘れることも、倒れることも許さぬと、最低限の栄養食と飲料水だけを口に運んでいたが。


そのボリュームに定評のある店では飲み足らないらしく、葛木はハシゴをしようと提案する。 宮坂は断る理由も、断らない理由もないので、流されるままに彼に着いていった。


二軒目に入ったバーは、耳に心地のいいジャズの流れる小洒落た、微かに葉巻や煙草の匂いがする、都内の静かなバーだった。 思い出したように、葉巻を喫いたくなった宮坂は手持ちの葉巻がないことを確認すると、バーのマスターにアイラ・ウイスキーのストレートに合う葉巻をチョイスしてもらって、それを喫うことにした。


専用のカッターで先端を切って、バーのマッチで火をつけて煙を口に含んで、咀嚼するように味わうと吐き出す。 果実のような豊かな甘みに、キャラメルやナッツを想起させる濃厚な味わいだった。

一軒目の居酒屋で口にした、肴や酒はろくに味がしなかったが、ウイスキーと葉巻だけは相変わらず、宮坂に変化が起きる前と同じ感動を与えてくれる。


葉巻の半分くらいが燃焼した辺りで、宮坂は葛木の話に相槌を打っていない、彼の話が聞こえてこないことに気が付く。 葛木はというと、すっかり酔い潰れてテーブルに突っ伏していびきをかいて寝ている。


「マスター、適当なバーボンをストレートのダブルで」


すっかり酔いが回って、心臓が痛いくらいにばくばく言っているが、頭から死の雰囲気はまだ、離れてくれない。 宮坂は「完全にアルコール依存症だな」と己を嘲て、アルコールを追加することにした。


「ヤケ酒ですか」


白髪をオールバックに固めて、白い髭を鼻の下で切り揃えた銀縁眼鏡のマスターは宮坂を止めるでもなく、酒棚と睨めっこをして、黄色いパッケージのバーボン・ウイスキーを手に取り、ロックグラスにとくとく注ぐと彼の前に出した。


「ヤケ酒です。 仕事柄、人の死とは密接な関係にあるんですが、今回はそれで酷く落ち込んでしまいました」


宮坂は自分でも、なんでこんな話を会って一時間も経過していない男に話しているのか分からないまま、話を続けた。 その間、水分を補給するように琥珀色の液体を流し込む。


「自分の目の前で、救えたかもしれない命が、失われたんです。 それは、思っていた以上に堪えたようで、今まで一度だって人の死に目を向けてこなかったのに、ずっと頭を離れない」


マスターは真面目な顔をして、シェイカーをしゃかしゃかと振りながら聞いていた。 客はもう、宮坂と葛木しかいないというのに。


「それから逃れるために、ヤケ酒をしているんです。

女々しいでしょう」


マスターはシェイカーをかぱと開けて、きんきんに冷えて白くなったグラスに透明な液体を注いで、ちびと舐めるように飲んだ。


「女々しい、というよりはお客さんは少し勘違いをしているように感じますね。 死と密接にある職業がどのようなものかは存じませんが、人の死を悲しんでいる暇があるのならば、それを乗り越えて、やるべきことをやる。 というのが道理のように思えます」


「不快に思われたのでしたら、すいません」マスターは穏やかな口調でそう言うと、グラスの液体を一気にぐいと飲み干した。 度数が高いのだろう、鼻から息が漏れる。


宮坂はその言葉を酔った頭でゆっくりと咀嚼した。


そうだ、本当に俺は簡単なことに気付けないでいた。

ずっと、勘違いをしていた。 宮坂は葉巻を持つ手に熱が伝導するまで喫い切ると、灰皿に押し当てて火を消し、葉巻を放した。


「ありがとうマスター、やっと夢から醒めた心地だよ」


宮坂は酔いを覚ますために、グラスに注がれた水を一気に飲み込む。

マスターは「それはよかった」と顎髭を擦りながら笑顔を浮かべた。


宮坂は早々に会計を済ますと、葛木を起こして駅前で別れ、帰路に就いた。


二十代にしては高すぎる収入と比例しない安アパートに帰って、シャワーを浴び寝室に戻ると、宮坂は思考に没我する。


俺は、色々と勘違いをしていた。

見たくないものから、目を背け続けてきた。

だけど、否応なしに事実に目を向けさせられて、やっと気が付いた。


俺は━━


フォルテを殺したこの社会に、見たくないものを見えないようにする社会に復讐をするべきなんだ。


今ここに、新たなる復讐者が生まれたのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る