第2章「逃亡者、早見 蓮」

第5話 これから

"逃亡者"ということで、二人が最初にしなければならなかったのは、目立たない服装に着替えることだった。 服屋に行くのが当面の目的だろう。


気絶した警官が発見されて、周辺の警戒が厳しくなる前に、済まさなければならない。

また、今のうちに銀行口座から金を引き出しておかないと後悔する予感がして、蓮は服屋に向かう道中、コンビニに寄って金を降ろすことにした。


申し訳程度に、アルファベットのロゴの入った黒いキャップを被って、二人で外に出る。


もちろん、コンビニに行くまでと警戒は怠ることはできない。 人の目に限らず、監視カメラなどにも気をつけなければなるまい、と蓮は不自然にならない程度に周囲を睨め回しながら、あまり利用していなかった遠くのコンビニへと、手に汗握りながら向かった。

通行人と目が合いそうになるだけで、心臓が痛いくらいに、鼓動を鳴らす。


幸いだったのは、蓮に知り合いや親戚が皆無だったことか道中、近所の住民の目につくというようなことはなかった。


アリスの手を繋いでやって、コンビニに入る。 入店音にすらビクビクしてしまう。


「やられた……」


蓮はATMの画面を見て目を剥く。


『この口座はご利用になれません』


「お兄さん……」


既に対策がされていたか。 財布の中身は五万と八百六十円……長期的に逃亡生活を送ると思うと、とても心許ない。

アリスが悲しげな顔をしているのも当然だ。 この口座に入っている金は五人で稼いだ金。 それが無くなっていては、筆舌に尽くし難いネガティブな感情に包まれてしまう。 まるで、三人との思い出を、あの日々を墨で塗り潰されているような。


「……行こう」


蓮は気を引き締めていくことにした。 アビスからリュックサックいっぱいに持ち帰った宝物や武具、これを売れば当面の生活には困らないだろう……



結果から言うと、売って得られた金は百万円に満たない額だった。 実に少ない。

額が少ないのには、理由があった。


一つは、身分証明書の提示を要求されない為に、反社会的勢力の経営するグレーの質屋で売ったため。 黙秘料金と言わんばかりに、金を取られた。


もう一つの理由は、アビスショックにある。 アビスが登場してから攻略され、日本国内で宝物が泡(あぶ)き、金・銀、宝石の取引価値がアビス登場前と比較して格段に低くなった現象。 それに端を発していたのだった。


もちろん、それでも比較的、価値の低い金・銀や宝石をなるべく避けて、アビス産の武具を持ち帰ってきたつもりだが、それは思っていた以上に、価値の低い人工の遺物が多かったことと、底を見られていたからだ。 仕方ない、百万円でもあるとないとでは話が違う。 金になっただけいいと思おう。


査定から金銭の受け取りには想定していた以上に時間がかからず、三十分ほどで済んだ。 お世辞にも彼らにまともな観察眼があるとは思えないし、当然の話だろう、蓮はそう考えた。 まだ時刻は夕方の四時を過ぎた頃。

アビスの秘奥で目が覚めてから三時間ほどで、こんなにも色んな出来事に遭遇したのか。 蓮はそれを意識すると、思い出したように疲れがやってくる。


変装はもちろんだが、寝泊まりする場所も考えなくちゃな……まだまだ、蓮が解決しなければいけない問題は山ほどあった。


しかし、今は何に替えても変装道具を手に入れなければなるまい。 蓮は帽子を目深に被り、アリスと共にタクシーに乗り込んだ。



タクシーの運転者は饒舌な若い男性だったが、どういう話題にどういう返しをしたか、まるで覚えていない。 それを思い出すと、失言をしていないか不安になってくる。


なんとなく大手のメジャーな大きな服屋で買うよりも、狭い古着屋で買った方が目につかなそうだと思ったので、蓮はアリスを外で待たせて古着屋で二人分の服を買ってきた。 そのどれもが、二人の印象を塗り潰すような、没個性的で、それでいて顔を違和感なく隠せる服だった。


蓮はとりあえず、近所の人気のない公園のトイレに入って、アリスと二人で着替える。


蓮は履いていた黒のチノパンを淡い色のデニムに履き変え、青・緑・黒のアーガイル柄のパーカーを脱ぎ、無地の黒いスウェットを着込み、最後にウェリントンの黒で統一された安っぽいサングラスを掛けて完成だ。 個室トイレを出て、三分くらい待ってから隣の個室をノックする。


「アリス、まだ時間かかりそうか?」


急かすのは悪いと思っていたが、追われる身となってしまうと、どうしても人目を意識してしまう。 今も誰かが入ってこないか、しきりに入口に目を向けている。


「あの……これ、どうやって着ればいいのか、分からなくて……お兄さん、お願いします」


ドアの奥からアリスの弱々しい答えが返ってきた。 しまった、アリスは人間の文明に触れて一ヶ月とちょっとしか経っていないのだ。


「しゃーねぇーな……ドアを開けてくれ」


それから三十秒ほどしてドアのロックが解除される音がしたので、ドアを開くと━━━━


茶色のタータン・チェック柄のワンピースのボタンを胸まで留められていない、幼児用の赤いリボンが刺繍されたパンツが丸見えのアリスがいた。


「お、お兄さん……」


服を上手く着れない自分を恥じてか、それとも肌を見られることを恥じてか、アリスは蓮と目が合うと逸らして頬を赤らめる。


「ちょっと一回全部脱げ」


アリスの顔の赤らみがより一層深くなる。


「ふぁい……」



二人揃って別人になったような気持ちで公衆トイレから出る。


蓮は━━ウェリントンのサングラスに、無地の黒いスウェット、淡いデニムに紺色のドレスシューズ。 サングラスのせいか、どこかの組織の構成員のような没個性が行き過ぎた印象を受ける。


アリスは━━紺色のジャケットに、茶色のタータンチェック柄のワンピース。 茶色のキャスケット帽の下には赤い縁のお洒落メガネ。 さっきまでの年頃の少女らしい服装とうってかわって、都会の大人しい文学少女という印象を受ける。


「お兄さん、なんか悪い人みたい」


言って、アリスはえへへとも、んふふとも付かない笑いを漏らす。


「わりぃーかよ」


蓮はそっぽを向いてバツの悪そうな顔をする。 たしかに少しミスチョイスだった、とたしかに思った。



換金をして、変装をして、次にやることは……寝泊まりをする場所の確保だ。 アパートは警察に特定されていて、もう帰れない。 もっとも三人の死体と一緒に暮らすことも考えられないが。 二十四時間、悲しみに暮れて、あそこでずっと立ち止まることになってしまいそうだ。


「アリス、疲れてないか?」


「正直に言うと……少しだけ疲れています」


それも当然だろう。 自分の家族が残虐に殺されているのを見たら、精神的にかなり参ってしまう。 蓮もそれは同様だった。


「寝泊まりする場所を探そう」


それを聞いたアリスの顔はあまり明るいものではなかった。 家を失った悲しみと、見つかるか分からない不安が相まっているのだろう。

蓮はそんな彼女に同情を覚える。 自分だって彼女くらいの時には命を狙われず、寝泊まりできる場所があった、と。


そんな簡単に行くとは思わないが、できる限り早く事件を片付けて、アリスに普通の生活をさせてやろう、と改めて思った。



寝泊まりする場所を探すため、所定の位置に留まっていないために、歩き続けて三時間が経過━━寝泊まりする場所の目処は一向につかないが、不審がられない度合いで定期的に後ろを振り返っているが、誰かに付けられているような気配は感じない。


刻一刻と二人の眠気と疲れは溜まっていく……警察の監視を逃れられて、安心に過ごせる場所。 そんなのはどこに行っても見つからない気がした。


気付けば二十一区の外れの方までやってきていた。 一通りが極端に少なく、稀に擦れ違う人々も皆揃って武装をしている。 サングラスをズラして目を細めると、遠くに歪で巨大な塔の影が見えた。 そうか、ここはアビスの近辺……


「あの……」


そこまで理解したところで、アリスがおずおずと声をかけてきた。 意識こそしていないが、そんなに険しい顔をしていたのだろうか。 蓮は意識的に表情筋を緩めてアリスに声をかける。


「なんだ?」


「あそこなんて、どうでしょうか? あっ……でも今日、既に見つかっちゃってますよね……」


しかし、疲れ切った頭ではそれ以外のアイデアは思い浮かばなかった。 それにアビスには悪魔が跋扈しているため、警察が乗り込んでくるのも難しいだろうし、道も複雑なので、もしも見つかったとしても逃げることもできそうだ。


「うん……アビスに寝泊まりしよう、交代制で寝起きして。 ありがとうな」


そう言うと、自信なさげにしていたアリスの顔が見る見るうちにパァと明るくなっていった。


「はい!」



運が良かったのか、行き止まりに当たることも数えるほどしかなく、アビスの秘奥に辿り着くのに、三時間半という短時間で着くことができた。


金箔の張り詰められた煌びやかな部屋に入ると、アリスは先に寝るように促してきたが、蓮はそれを丁重に断ってアリスを先に寝かせる。


「あの……お兄さん」


アリスが伊達メガネを外すと、頬を赤らめて目を合わせてくる。


「なんだ?」


「あの………お兄さんの膝で寝てみたいです」


蓮はそれは気恥しかったが、アリスの境遇を考えると、少しでも彼女にいい思いをさせてやりたかったので、彼女の要求を全うしてやることにした。


「お兄さん……事件が解決したら皆のお墓を作りたいですね」


アリスは瞼を閉じて、消え入るような小さな声でそう言った。


「そうだな」


「皆で手に入れたお金も取り戻して、普通のお家で眠りたいです」


「……あぁ」


言って、アリスの額を撫でてやる、と……一分とせずに眠りに落ちる。


さて……


蓮はアリスをゆっくりと毛布を丸めて作った即席の枕に寝かしてやると、彼女の傍で胡座をかいて思考を加速させた。


なぜ、自分が殺人事件の容疑者にされたのか。 誰が、何の意図で、嵌めたのか。


また、これから何をすべきなのか。


失った三人のこと……


そのどれもがいくら考えても生産的な答えが出てこない。 それでも体に僅かに残された体力を全て燃やし尽くすくらいに、思考に没我する━━━━


なぜ、自分が容疑者にされたのか━━それに対しては思考材料となる根拠が少なすぎるので、保留しておこう。


誰が、何の意図で━━意図は分からない。 しかし、犯人は限定されてくる気がする。


たとえば、早見 蓮と思しき人間が第八区の住宅街で会社員の「会田 賢治」を殺害している。 という通報だけがあって、警察が動くだろうか。 答えは否、充分な証拠が無ければ警察は指名手配、それも国際単位での指名手配なんてしないだろう。


しかし、蓮には他のハンターとは違っている点が一つあった。 SSSレートの悪魔を連れている。 それだけで危険性が非常に高い、とされることもありえるのではなかろうか。


それでも━━犯人は限定されてくる。


なぜ、蓮に罪を被せる必要性があったのか、そうつまりは犯人は、彼と関わりのあった人間に限定されてくるのではないだろうか?


「俺と関わりのあった人間……」


思い当たるのは、以前にパーティーを組んでいたメンバーの五人のみ。


相澤 健人、佐久間 研、里村 礼二、浅倉 誠也、小紫(こむらさき) 政吉……


その誰もが、蓮はに罪を被せる理由が思いつかなかったし、動機なんて他人が測りしれるものでもない。 逆に言えば、誰にでも可能性はあった。


考え出して、三十分が経過していた。 未だ何一つ、妥当な推論を出せていない。


二時間が経過するという時、蓮は突然、物事を巨視的な視点で見ることができるようになった。


考える根拠が足りないのなら━━多少は無理をしてでも、情報を手に入れるしかない。 大体、情報がほとんど規制されているというのも、おかしな話だ。


下手したら、これは国家ぐるみの話なのかもしれない。 電波によって思考を傍聴されている、というような半狂乱の妄言に等しかったが、蓮はそれをあながち、到底ありえない話とは思えなかった。


となると、警察上層部の人間を調べるのが妥当なところだろう。 しかし、それは普通に考えたら限りなく無謀な話だ。


だが、今の蓮にはアリスがいる。 彼女の能力があれば、上層部の人間の家に忍び込み、脅迫して情報を聞き出すことも難しくない……


八方塞がりだった蓮の人生に、それはもしかしたら、まやかしかもしれないが、一筋の光が射してきた。


充電残量の少ないスマートフォンをタップして、日本警察で最高の権威を持つ人間を検索する。


「後藤 博巳(ひろみ)」


厳つい名前に相応しい、厳つい顔の作りをした中年男の笑顔が検索ページのトップに表示されている。


アリスが起きて、自分も一休みしたら、準備を整えて、後藤の家に忍び込みPCからデータを盗み出そう。


蓮は後藤の妻のブログの情報と写真から大まかな住所を特定、マップアプリと照合して家の大まかな位置を把握。 あまりにも大きな家なので、思わず息を飲む。 できることを全てやると、後はただ復讐の業火が心を蝕んでいく……


アリスには見せられない、早見 蓮という人間の暗黒面。


必ずや、三人の仇の首を取る。 この身に変えても。


そうして、蓮は特に意味もなく秘奥の部屋の隅を睨み続けた。 まだ見ぬ仇敵を想像して。

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