第30話 私は大丈夫、私なら頑張れる

 教室では、私と男で、ずっと二人きりでした。

 椅子に縛られたまま、この世でもっとも無駄な時間を過ごさせられています。月明かりも今日は無く、いくら目が暗闇に慣れてきても、時計の針すらよく見えません。

 いったい私は、どれほどの時間拘束されているのでしょう。

 お腹も空いてきました。加奈の晩御飯、冷めちゃったかな。すごく残念です。

「お腹、空いたね」

 男はポケットから取り出した小さなお菓子の袋を取り出した。

「食べる?」

「要りません」

「そう? 美味しいのに」

 そう言って男は美味しそうにお菓子を放り込みました。


「実はね、天音結衣さん。僕も暇ではないんだ」

 男は私に近づいてきます。私は、もう目を閉じて何も見ないようにしました。どうせ暗くて何も見えないのなら、見たくないものも見なければいい。

「君が大人しく僕の彼女になってくれれば、今日は柔らかい布団で寝かせてあげるよ。家族の人にも、優遇するよう約束する。僕にはそれくらいの力があるからね」

「それはあなたの力ではありません。親の力を被っているだけの、ピエロです」


 右頬を殴られました。平手では無く、拳の感触です。

「痛い? 痛いよね?」

「……全然痛くないですね」

 すぐに二発目が飛んできました。今度は左からです。殴られた勢いで、首をひねってしまいました。口の中が鉄の味もします。相当悔しかったのでしょう。相当な力で殴って来るなんて、つくづく器の小さい男です。

「強がらないでよ。殴ってる僕も痛いんだから。僕のことも考えてほしいよ」

 うっすらと目を開けると、男は殴った手を大事そうにさすっていました。

「言っとくけど、待ってれば助けが来るとか思ってない? そんな希望は無いからね? 僕は頭が良いんだ。しっかり策は練ってるし、手下も沢山いる。万が一にも、僕を邪魔する人なんて来ないよ」

 あ、でも。と男は続けた。

「君のクラスメートの、あの乱暴な金髪女なら突っ込んでくるだろうな」

「…………」

 猪川さんのことだろう。

 猪川さんのことを思い浮かべている男の顔から、少しだけ余裕が消えた。

「でも、あの馬鹿は乱暴だ。乱暴なだけだ。頭を使わない。だからこそ、僕は勝ったんだ」

「勝った……?」

「あぁ、勝った。逆転勝ちだ。快勝だったよ」

 まるで小さい子供が大きなカブトムシを捕まえた時みたいな、恍惚に満ちた表情を浮かべて私にグッと顔を寄せてきました。

「あの暴力女、僕を思いっきり竹刀でぶん殴ってきやがったんだ! しかも僕の恋路を邪魔して、あまつさえ僕の女の子を連れて行ってしまった……僕は悲しかったよ」

 嘘っぽい語り口調で話す男の息が顔にかかる。寒気がした。

「だから僕は反撃した! 暴力女は少し有名な奴みたいでな。通っている道場と学校に暴力を報告して、社会的な迫害を計画したんだ。結果は成功。あいつは名誉も信用も全て失った! またこの高校で会う事になるとは思ってなかったが、敗北者の顔を拝めて気分が良かったな」

「あなたは……深い所まで腐ってるんですね」

「違う違う。僕は殴られたんだ。可哀想な被害者だよ?」

 いかにも悲劇の主人公みたいな語りだが、この人のことだ。どうせ発端はこの人の悪事ではないか。

「あなたの言葉は胡散臭いです。言葉全てが信用ならない。だいたいあなたみたいな男の恋路なんて、誰が邪魔しなくても上手く行かなかったでしょうね」

「あー、君は自分の立場を分かってないみたいだね」


 男は、私から没収したスマホを勝手に操作し始めた。

「僕はね、実は一つだけ気付いたことがあるんだよ」

 男は迷いなく、スマホの操作を続けていった。こんな事になるなら、暗証番号でも決めておけば良かったです……。

「半年前に出会った僕の運命の人は、とても可愛かった。長い髪が綺麗で、瞳に浮かぶ輝きが眩しくて、天使のような声が心を癒してくれた……一目惚れだったんだ」

「それはそれは、相手の子も不幸でしたね」

「それに比べて、君は案外魅力のない人間だ。スマホに友達らしき連絡先が一切ない。人望がないんだね。家族のしかないじゃん。僕と違って。人望の無さは人の魅力の無さを物語ってるんだよ。つまり、君は人間として価値が薄い人間なのだろう」

 そして、つまらなそうに私のスマホを、私の足元に投げ捨てた。消されなかった画面が寂しげに光っていた。

「一目惚れしたあの子にそっくり過ぎて、勘違いしてしまった。でも、本当にそっくりだったんだよ、見間違えるくらいに」

「それは、あなたが如何にその人をしっかり見てなかったかでしょう? 所詮、一過性の性欲で揺らいだ心だったのでしょう」

「違う。もっと大事なことを僕は忘れていたんだ」

「大事なこと……?」

 男が言わんとしていることが理解できない。

 適当に、何ともなしに私は、投げ捨てられたスマホの画面を見ました。


 そして、一気に血の気が引きました。

「その子さ……君より背が低かったんだ。まさか半年でこんなに成長するなんてのも考えられないしさ」

 スマホに目を奪われていた私の顔を、突然男は自分に向けました。


「君……そっくりな妹、いない?」

 男の顔が、今までで一番不気味な表情を浮かべていました。

「い、妹なんて……」

「いるよね、ほら。これが証拠だよ」

 男が顎で落ちたスマホを指しました。

 妹の連絡先が載ったページを開いたままのスマホを。


「僕が愛したのは、君の妹だったんだ」


 それだけ言って、男は私から離れました。

「僕が本当に話がしたいのは、君じゃなかった。君なんかじゃなかった。全く、無駄な時間を過ごしてしまったよ……でも、彼女に辿り着けたんだ、これはこれで成功だろう」

 独り言を続けながら、男は教室から出ていこうとします。

「ま、待って! どこに行くつもりですか!?」

「当然、妹さんの所だよ。どうせ君の家にいるんだろう? 迎えに行ってあげるんだ。寂しがってると思うからね」

「やめてください!」

「安心して良いよ。一時間後に君の縛りを解くように、手下にお願いしてあるから。乱暴もしないよう言ってある。一応ね」

 男はそのまま、教室の扉に手をかけた。


「私なら……妹よりもあなたを……楽しませられますよ」

「…………ほう?」

 男が止まった。だが、止まっただけで振り返ってもいない。

「あの子はまだ子供です。それに比べて、私は心も体も大人です。知識もあります。あなたにとっても、悪くない相手だと思いますよ?」

「君がどう、僕を楽しませるって言うんだい?」

「どんなことでします……何をしてほしいですか?」

「僕からは言わない。自分で何が出来るか言うんだ……そうじゃないと、まるで僕が強制したみたいになっちゃうからね?」

 自分で奥歯を噛みしめる音が聞こえました。この男は、どこまでも慎重です。保身にかけては他の追随を許さないのでしょう。

「ふふっ」

 場違いな笑みが零れました。

 あんなに暴力が嫌いだった私は、こんな男のやり方よりも、猪川さんのやり方の方がよっぽど清々しく思えたのです。当然褒められたことではありませんけどね。


 残念です。本当に。

 私がこの学校を変えれば、加奈も入学できるかもしれないと思ったのに。

 ずっと寂しい思いをさせてきたから、少しでも一緒にいる時間を作れると思ったのに。

 それを、こんな男に邪魔されることになるなんて……無念です。


「あなたがしたいこと、全てします。満足させます……私を好きにしてください」

「君が自分から言ったことだ。良いね?」

 男はすぐに戻ってきて、私の制服の前を強引にはだけさせました。服のボタンがいくつか取れて、どこかへ転がっていってしまいました。

 私もどこかへ行ってしまいたい。叶う事なら、逃げてしまいたい。

「その代わり、私だけを見てください。私だけに……その感情をぶつけてください」

 でも、逃げたら加奈を守れない。

「分かった。約束しよう」

 男は息を荒げながら、自分のスマホを取り出した。

「これは、記念だ。君と僕のね」

 そして、スマホが一瞬、視界を奪うくらいに光を放ちました。目の奥がチカチカして、平衡感覚が麻痺します。

「今……写真を撮りましたか……?」

「撮ったよ。何をしてもいいんだろう?」

「……えぇ」

 今の私は下着をさらけ出しています。それを撮られた。もう後には引けません。

 写真……残りますね。この男のことです。ネットにバラまかれる可能性もあります。いや、絶対に今後も脅されるのでしょう。

 でも、私は大丈夫。加奈のためなら、どこまでも頑張れます。

 だから、泣いたりもしません。お父さんやお母さんの分も、加奈を守るんです。

 諦めは……つきました。


 その時でした。教室の扉が、力任せに開けられました。

 あまりの力と勢いで扉は砕けてしまい、ガラスが床に散らばる音が静かな教室に響きました。

「また君か……」

 私の服から手を離した男は、ゆっくりと扉の方を振り返りました。

「君はいつもいつも、僕の恋路を邪魔する……被害者の気持ちも考えてくれないかな……?」

 鼻で笑いながら答える男に、扉を壊した張本人は静かに言い返したのです。


「黙って天音を返せ、クソ野郎」

 その声は、いつもみたいな乱暴な口調でした。

 私のことが大嫌いな、甘いものが大好きな女の子の声でした。

「猪川さん……」

「天音さん! 私もいるよ!! 津田君も一緒! 心配したんだからね!!」

「高梨さんに津田さんも……どうして……」


 本当に困っている時、血縁すら助けてくれませんでした。

 それを呪った事もあったけど、そういうものなんだと受け入れた。

 なのに、どうしてみんなここに来てくれたのだろう……。


「お姉ちゃん……!」

「その声は……!」

 心臓が潰れそうになりました。

 加奈が……私の唯一の宝物が、声を震わせながらそこにいるのです。

「加奈……危ないから……帰りなさい……」

「天音、お前馬鹿だろ」

 教室の照明が点けられました。

「お前も帰るんだよ、一緒に」

 猪川さんは真っすぐ、私の方を見て、言ってくれました。


「待ってろ」

「……うん」

 安心しました。やっと。

「お願い……助けて……?」

 勝手に我慢してごめんなさい。

 信用してなくてごめんなさい。

 自分を無下にしてごめんなさい。

「信じるね……みんな!」

「おう」

 猪川さんは、男に指をさし、迫力に満ちた眼差しで睨みつけた。


「お前、もう消えろや」

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