第25話 自分だけは、信じていたい

 今日は満月。

 一緒に観よう。

 そう言ったのが二日前だった。


 話を逸らすための方便だったとはいえ、この寒空に見上げる夜空は私も大好きだった。夏よりも空気中の塵が、とか理由もあるらしいが、そんなものに興味は無い。

 直感的に、冬の夜空が透き通るように美しく感じるのだ。

 月が出ていれば月を眺め、月が無ければ星を仰ぐ。適当に星座を作り、そこにある架空の物語に耽る。

 そんな、形に残らない満たされた時間が、私は好きだった。


 だから、多少の苛立ちや思いがあれど、そうすることで私の心も、加奈の心配事も少しは透き通ってくれるだろうと思ったのだ。


 そんな私の楽しみな気持ちは、登校してすぐに崩壊した。


「何……これ……」

 いつものように教室に行く。いつものように自分の机に行く。

 もうこの中学校で数百回も繰り返した行為なのに、その日は全く新しい景色が広がっていたのだ。


 私の机に、落書きがされていた。

 太い油性のマジックペンで『竹刀は人を殴る道具ですか?』と。

「これ、誰が書いたの?」

 教室を見渡す。もう半年も同じクラスである皆が、すぐに私から視線を逸らした。

「みんな、これ誰が書いたか知ってるよね? 誰だった?」

 誰も返事をしない。騒がしいはずの教室が、誰もいないかのように静かだった。

 どうしようもなく、私は隣の席の女の子に直接聞いた。

「ねぇ、これを書いたの誰か知らない?」

「……知らない」

 女の子は少し怯えた声で答え、そのまま続けた。


「それより猪川さん……竹刀で何人も怪我をさせたって本当?」


 教室の空気が張り付いた。息を吸う事すら憚られる空間で、私は極力普通に首を横に振った。

「違うんだよ。刃物を持った男が女の子を襲っていたから、助けるために竹刀で撃退したって話」

「噂と全然違うんだけど……」

「噂って……?」

 女の子は目を泳がせ、別のクラスメイトに促した。

 そしてそのクラスメイトも他の子へ。

 それが数人続きました。


「猪川さん、一方的に竹刀で不良を殴ってケガさせたって噂が流れてるんだよ」

 もはや誰が言ったか分からなかった。

 一人が言ったのか、複数人が言ったのかすらも。

「私が……一方的に……?」

 誰も返事しない。でも、教室の空気が何を言いたいのか、肌に感じてくる。

「みんな……信じてるの?」

 

 正直、学校に噂が流れている可能性は考えていた。

 道場にも、弁護士にも話がいっていたのだ。あの粘着質な男なら、学校に広まるようにSNSで噂を流していてもおかしくは無い。

 信じられなかったのは、その噂をみんなが少しでも信じていることだ。


 私は正しいことをしてきたつもりだ。

 剣道を嗜む者として、良きクラスメイトとして、ちゃんとした生活を送ってきた。

 それが、たった一つの噂に惑わされるものなのか?


「信じるも何も……今、どんな時期か分かってんのかよ」


 男子の一人が口を開いた。勉強熱心で有名な子だ。

「今、俺たちは受験前で神経質になってるんだ。箸が落ちれば気になるし、毎日近づいてくる受験の日まで毎日胃を痛めている。そんな矢先に、こんな問題を起こされちゃ、俺たちの学校自体の評判が悪くなるだろ……?」

 男の子は、大きな溜息を吐いた。

「問題が起きた学校と普通の学校。それだけで、多少の差が生まれてくる」

「でも、それはただの噂であって真実は……!」

「じゃあ、みんなが受ける高校全ての教師に説明してくれるのかよ」

 吐き捨てるように、男の子が私に自分のスマホを投げ渡してきた。それを受け取り、画面に出ていた画像を見た。


 私が男に竹刀を振り下ろしている瞬間の写真だった。

 取り巻きの男らの誰かが撮っていたのだろう。アングルがでたらめで、半分が自分の指で隠れている。おかげで加奈も男も、顔は写っていなかった。

 でも、私の顔は、しっかりと写っていたのだ。歯を食いしばって竹刀を振り下ろす、私の形相が。


「人は真実を信じるわけじゃない。人が信じたものが、真実になるんだ」

 男の子は私に歩み寄り、スマホを奪い取った。

「……猪川がどんな風にこんなことをしたのか、俺たちは分かってるつもりだ。でも……世間の目は俺らほど、お前を知らないんだ」


 私は、この学校の評判を落とした。

 それが、同級生の受験に影響する。

 私がしたことが、この学校のみんなにハンディを背負わせてしまった。


 私の心の中の何かが、割れてしまった。

 少しずつヒビが入っていた部分が、もう耐えられなかったのだ。


「そっか……ごめんね」

 私は、そこで初めて謝った。心から、謝ったのだ。

「こんな事……して、ごめんね……」

 自分だけは、自分の行いを信じよう。そう思っていた。

 だって、私がしたことは正義だった。一人の少女を救ったのだ。

 でも、蓋を開けてみれば、全てが悪い方に転がっていく。

 なら、見て見ぬふりをしていれば良かった? そうは思わない。私のしたことは、正しかったのだ。


 そう、思うことが出来なくなった。


 涙が止まらない。拭っても拭っても、壊れたかのように涙が溢れては頬を伝っていく。そして、私の涙は惨めに床へ落ちていくのだ。


 そのまま、私は家に帰った。

 授業に出なかったことはすぐに親へ伝わった。それでも母は、特に怒る素振りもなくいつも通りご飯を作ってくれた。

「あんた、なんで学校にも道場にも行かないの」

 母が夕飯を食べながら私に聞く。

「べつに……」

「言えないなら構わない。でも、推薦をもらった以上、高校には行ってもらうから。その後のことは、自由にしなさい」

「うん」

「……それまで、あんたの嫌いなものばかり作るから」

「うん」

「あんたが学校に行くようになったら、一番好きなもの作ってあげるから」

「……うん」

「それまでは休みな」

 会話はそれで終わった。そのまま、私は中学を行かなくなり、皆勤賞まで期待されていた私は出席日数ギリギリでの卒業になったのだ。

 みんなの受験の結果? 知らない。

 知るのが怖くて、聞けなかった。


 その日の夜、私は布団に潜って眠れない時間を過ごしていた。

 月明かりが眩しくて、カーテンも閉めて、部屋は何も見えない暗闇となっていた。

 そこに、一通の着信があった。

『奏良お姉ちゃん? 今どこです? 私は公園に着きました!』

 スマホから零れる加奈の声が、部屋を少しだけ明るくした。

「加奈……私、もう疲れた」

 返事が来ない。いつもなら、冗談を挟みつつ早く来いと言いそうなものなのに。

『……何かありましたか?』

 感づかれた。

「いや、普通に授業がハードだった」

『なら、奏良お姉ちゃんの家に迎えに行きますよ』

「来るな、二度とだ」

『どうしてそんなことを言うんですか……?』

 まるで加奈の声じゃないみたいな声がする。きっと私が好きな笑顔じゃないのだろう。

『なんでいきなり突き放すんですか……?』

「そういう気分になったからだよ」

『奏良お姉ちゃんがいなくなったら、私はまた一人になってしまうのです……』

「加奈にはお姉さんがいるだろう」

『お姉ちゃんは、今日も私と姉妹として接してくれませんでした。アニメに誘っても、見向きもしませんでした。むしろ、少し困った顔をしていました。私はやっぱりお姉ちゃんと離れてしまったのです』

 加奈の声がどんどん震えていく。今すぐにでも抱きしめたい気持ちが喉まで上がっていく。けど、この気持ちを私は飲み込まなきゃいけないんだ。

『私は、月を見ながら奏良お姉ちゃんに話したいことが沢山あるのです。お願いだから……私を一人にしないで』

「……ごめん、加奈」

『私、待ってますから……信じてますから……』

「さよなら、加奈」


 通話を、切った。

 だって、そうしないと私の泣き声が加奈に届いてしまうから。


 私は、加奈を助けたことを後悔したのだ。

 加奈の無事を、笑顔を、すべてを否定したのだ。

 そんな私が、どの面を下げて加奈の笑顔を受け取ればいい。

「さよなら……ごめんね……」


 トークの履歴を全て消し、連絡先を消そうとする。

 最後の一押し、このボタンを押せば消える。二度と連絡できなくなる。

 そうすべきだと思った。

「ごめん……」


 結局、消せなかった。

 空白のトーク欄に、加奈の文字だけが浮かんでいる。

 そのまま、他の人や企業通知に埋もれてどんどん下へと流れていった。

 それでいい。加奈を幸せにするのは、私なんかでは無かったのだ。


 この日の夜は寒かった。加奈も、さすがに帰っただろう。こんな日に何時間も外にいたら、風邪を引いてしまう。

 その日を境に、加奈から連絡が来ることは無かった。一緒に月を見上げることは、とうとう叶わなかったのだ。


 ☆


 そして、いつまでも消せなかった連絡先から、たった一つのボイスメモが送られてきた。

 昔のことを考えていた折のことだったので、まだ食べかけのモナカアイスを落としてしまった。

「え……加奈……?」

 喜びが一番に来て、後悔と不安がすぐに追いついてくる。

 あんな別れ方をして悲しませた私に、加奈が優しい言葉をかけてくれるだろうか。楽しく遊びのお誘いをしてくれるだろうか。

 そもそも、こんな風になってしまった私を、受け入れてくれるのだろうか。


 そして、続けざまに住所も送られてきた。

 お店とかでは無さそうだが、何の住所だ……?


 緊張して心臓が高鳴る。

 深呼吸して、そのボイスメモを開いた。


『お願い……助けて……奏良さん……!』


 体はすぐに動いた。

 教科書の入っていない鞄なんて、そこら辺に放っておいてやった。

「今行くからな」


 私は馬鹿だ。

 あんなに後悔したはずなのに、今も真っ先に助けに向かっている。

 自分の思う正義が不幸を呼ぶって散々知ったくせに。

 ……それでも、私は走ってしまう。


 まだ、私は私を否定しきれていなかったんだ。

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